進むべき道
春の空気は、冷たさを残しながらも柔らかかった。
昨日までの冬が嘘みたいに、
朝の光は白く、影は薄い。
花の匂いがする。
どこかの庭で咲き始めたものが、
風に乗って校舎の隙間を抜けていた。
⸻
時間は淡々と進む。
誰が泣いても、
誰が笑っても、
世界は等しく朝を迎える。
そして今日は――卒業式。
アカデミー最後の日だった。
⸻
体育館へ向かう廊下には、
いつもと同じ足音が並んでいた。
制服の裾が揺れ、
革靴が床を鳴らす。
ただ、それだけ。
特別な日なのに、
誰も浮かれていない。
お祝いの日のはずなのに、
空気は静かすぎた。
⸻
前列の端。
レインは背筋を伸ばし、椅子に座っていた。
いつもの制服。
胸元の校章。
きちんと整えられた髪。
表情も柔らかい。
――優等生。
そう見えるように、今日も。
⸻
椅子が並ぶ中で、
一つだけ空席があった。
ミレイアの席。
そこに花束が置かれている。
白い花。
淡い色の小花。
誰が置いたのか、分からない。
でも全員がそれを見て、
そして、何も言えなかった。
⸻
司会の声が響く。
硬い言葉。
整った進行。
「――ただいまより、卒業証書授与式を執り行います」
拍手が起きる。
けれどそれは、祝福というより――
時間が進む音だった。
———
事件の顛末は、紙の上では単純だった。
違法薬物によって錯乱した教員が暴走し、
駆けつけたMEK隊員と生徒一名を殺害。
そのまま逃亡。
学園は深い遺憾の意を表し、
再発防止に努めると声明を出した。
それ以上も、
それ以下もなかった。
校内では一時、噂が渦巻いた。
旧研究棟。
神隠し。
七不思議。
けれど、いつの間にか消えていった。
大人が動けば、
噂は薄まる。
“なかったこと”は簡単に作られる。
⸻
ミレイアの葬儀は、灰色の空の下で行われた。
白い花。
黒い服。
短い祈り。
棺が閉じられる瞬間、
誰も声を上げなかった。
泣き声すら、なかった。
泣くことにすら、
疲れてしまっていた。
――そういう空気だった。
ただ一人を除いて。
静まり返った葬儀場で、
ルカの嗚咽が――
いつまでも、いつまでも響いていた。
⸻
年が明けてからは、怒涛の如く時間は流れていった。
街に新しい旗が揺れ、
人々は新年を祝い、
世界は“次”へ進んだ。
そして学生たちは、すぐにMEKの採用試験が始まる。
もう授業は終わり、レインたちは顔を合わせる事も減っていった。
誰かが声を掛ければすぐに集まれる距離にいたが、
誰も声を掛けようとはしなかった。
真気量測定。
身体能力検査。
模擬戦形式の実技。
その後、面接。
淡々と数値が並び、
淡々と結果が決まる。
適性と成績に基づき、
希望部門に配属される。
その後は卒業試験。
⸻
春になり、
こうして卒業式を迎えた。
日付は進み、
時間は進む。
その速さの中で、
ミレイアだけが取り残されているようだった。
空席に置かれた花束が、
何度も、何度もそれを思い出させた。
⸻
式が終わり、
生徒たちは体育館を出ていく。
空は青い。
風は暖かい。
祝福のはずの季節が、
まるで何事もなかったように街を包んでいた。
卒業式が終わっても、彼らはすぐに散らなかった。
校舎裏。
春の風が抜ける場所。
去年までなら、誰かがふざけて走り回っていたような場所。
今日は、そういう騒がしさがない。
ただ――
全員がここにいる。
それが、奇跡みたいだった。
⸻
「……結局、最後までここに集まるんだな」
ガイが、ぶっきらぼうに言った。
声は淡々としていて、照れ隠しのようでもあった。
「お前が来ないわけないだろ」
ルカが返す。
笑い声は――出ない。
口元だけが少し動いただけだった。
⸻
「配属、決まったんだろ?」
ガイがレオンを見る。
「特務だ」
レオンは短く答えた。
それ以上の感情を、声に混ぜない。
「……レインもだっけ」
「うん」
「ガイは殲滅本部だっけ?」
レインの問いにガイは頷いた。
⸻
「セリナは?」
「技術本部よ」
セリナは即答した。
胸を張るでもなく、誇るでもなく。
ただ決まった事実を言っただけ。
彼女は変わらない。
変わらないことが、今は少し救いだった。
⸻
しばらく沈黙。
春風が、制服の裾を揺らす。
その風の中で――
ルカが小さく息を吐いた。
「……俺さ」
全員の視線が集まる。
ルカは笑おうとして、途中でやめた。
「俺は地元帰る事にした」
「家の仕事の手伝いをするよ」
ガイが目を細める。
「……マジかよ」
「お前、ずっとMEK行くつもりだったろ」
「そうだった」
ルカは、ちゃんと頷いた。
誤魔化さない。
逃げもしない。
「でも無理だった」
その言葉が、やけに重かった。
「俺、戦うの……向いてねえわ」
笑いながら言ったのに、
声が少しだけ震えていた。
「ドミニクとの戦いも…」
「ミレイアのことも…」
「俺は、そういう場所でやってけないって分かった」
ルカは言い切って、空を見上げた。
まぶしそうに目を細める。
でも本当は、
泣きそうなのをごまかしてるだけだった。
⸻
「……そっか」
ガイが短く言った。
それ以上、何も言わない。
慰める言葉は、
今は軽すぎると分かっている。
⸻
セリナは一拍置いてから、淡々と言う。
「……正しいと思う」
「向いてない場所に行って壊れるより」
「向いてる場所で生きた方がいい」
セリナらしい正論だった。
ルカは、ふっと笑って頷いた。
「だろ?」
軽口の形をしているのに、声が乾いている。
⸻
レインは、それを黙って聞いていた。
この空気は嫌いじゃない。
ただ――
痛い。
ここで笑う権利はない。
⸻
「ま、でもさ」
ルカが無理やり明るく言った。
「行き先は違っても」
「新天地で頑張ろうぜ」
「俺は地元で頑張る」
「お前らはMEKで――英雄になれよ」
英雄。
その言葉に、一瞬だけレオンの眉が動いた。
ほんのわずかな反応。
でもレインは見逃さなかった。
⸻
(……レオン)
彼はずっと、あの日のことを背負っている。
旧研究棟へ行くと決めた判断。
仲間を連れて行った責任。
そして――ミレイアの死。
(自分のせいだと思っている)
誰も口にしないのに、
本人だけが一番強く自分を責めている。
あの日以来、
レオンの背中から軽さが消えた。
肩書きのように背負っていた「真面目」が、
今は鎧になっている。
そしてその鎧は――
もう誰にも外せない。
⸻
レオンは少しだけ視線を逸らして言った。
「……英雄なんて、いらない」
「ただ、やるべきことをやるだけだ」
それは立派できっと正しい言葉だった。
なのに。
レインには、祈りに聞こえた。
自分を許すための。
⸻
春風が吹く。
校舎の窓が光る。
今日が終われば、
彼らはそれぞれ別の道を歩く。
同じ時間は戻らない。
もう、昔みたいには笑えないかもしれない。
それでも。
この瞬間だけは、
同じ場所に立っている。
⸻
「……じゃあ」
ルカが言う。
「最後に言っとくわ」
少しだけ胸を張る。
「また会おうな、絶対に」
一般的な別れの挨拶。
だからこそ刺さった。
⸻
「当たり前だ」
ガイが言う。
「大袈裟ね。また会えるわよ」
セリナも答えた。
レオンは、頷くだけ。
そして――
レインも、いつもの笑顔のまま答えた。
「うん。またね。」
優しい声。
柔らかい顔。
けれどその奥で、
誰にも見えない何かが沈んでいた。
⸻
五人は、静かに校門へ向かって歩き出す。
それぞれの未来へ。
違う道へ。
同じ痛みを抱えたまま。
卒業という言葉が、
やけに冷たく響く春だった。
———
レインは、一人で歩いていた。
春の空気は柔らかい。
風は暖かく、光は明るい。
なのに――
胸の奥だけがずっと冷たい。
卒業した実感はない。
ただ、終わっただけだ。
⸻
人気のない道に入ったところで、
背後から足音がひとつ増えた。
いつもなら、振り向かない。
今日は振り向いた。
そこにいたのはノアだった。
用務員服ではない。
ラフな上着に、手をポケットへ突っ込んだ姿。
どこにでもいそうな若者の顔。
⸻
「……よ」
ノアは短く言った。
その声には、
いつもの軽口も、茶化しもなかった。
レインも、何も言わずに頷く。
肩を並べて歩く。
二人の間に余計な言葉はいらない。
⸻
「卒業おめでとさん」
ノアが、ぽつりと切り出した。
「次はついにMEKだな。特務本部だっけか。」
「うん」
「なんで特務なんだ?」
ノアは、まっす聞く。
⸻
レインは、少しだけ考えるふりをしてから答える。
「MEKの総本部は首都にある」
「そして特務本部は、総本部にしかない」
「……ふうん」
「地方支部に飛ばされることもない」
レインの声は柔らかい。
けれど言葉は、淡々と並んでいく。
「首都にいれば情報が集まる」
「特務は部門の性質上、扱う情報も多い」
「調査よりも、もっと深いところの情報まで」
ノアが、小さく息を吐いた。
「なるほどな」
⸻
レインは、空を見上げる。
春の青空。
馬鹿みたいに平和な色。
「……私は、探してる」
それだけ。
誰を、何を。
具体的には言わない。
ノアも聞かない。
聞かなくても、分かっている。
⸻
「首都に行けば」
レインは続けた。
「きっと……私の知りたいことに辿り着ける」
⸻
ノアは一度だけ頷いた。
「よし、行くか」
「うん」
相変わらずレインの表情は変わらない。
⸻
ノアは、前を向いたまま言う。
「首都はでけえぞ」
「人も多い」
「汚い話も、腐るほどある」
「……だろうね」
レインは淡々と返す。
⸻
しばらく沈黙。
風の音だけが鳴る。
⸻
「でもま」
少し間を置いて。
「大丈夫だろ」
あっさりした一言。
根拠のない軽さ。
なのに、変に胸に残る軽さ。
⸻
「……根拠は?」
レインが聞くとノアは笑った。
「根拠?」
そのまま、レインの横顔を見て言う。
「お前が“レイン”だからだよ」
⸻
一瞬だけ、レインの目が丸くなる。
それから――
ほんの少しだけ口元が緩んだ。
小さく、息を漏らすみたいに笑う。
「……なにそれ」
「いいだろ」
ノアは軽く言って、歩き出す。
⸻
レインも、同じ速度で歩く。
春の光。
暖かい風。
ほんの少しだけ、空気が軽くなった。
⸻
卒業の日。
終わりの日。
そして――
復讐が“本当に始まる”日。
春の光の下で、
レインは優等生の顔のまま歩いていった。
首都へ。
MEKへ。
あの日の真相へ。




