温もり
ミレイアは、自分が特別な人間だと思ったことが一度もない。
生まれたのは、ごく普通の街だった。
石畳の匂い。朝に焼けたパンの香り。窓辺に置かれた花瓶。
母は忙しくて、父は寡黙で、でも――それでも温かかった。
幼い頃から、ミレイアは空気を読むのが得意だった。
誰かが困っていたら、声をかける。
誰かが泣いていたら、隣に座る。
誰かが怒っていたら、笑って和らげる。
「優しいね」と言われるたびに、ミレイアは少しだけ照れた。
それが自分の役割だと、なんとなく思っていた。
⸻
アカデミーに入ってからも、それは変わらなかった。
ルカはいつも騒がしくて、
ガイはぶっきらぼうで、
レオンは真面目で、少し不器用で、
セリナは孤独で、少し張り詰めていた。
そして――レイン。
編入生。
最初は、どこか遠い人だった。
綺麗で、優しくて、でも触れたら壊れてしまいそうな。
けれど、いつの間にか。
昼休みに並んで笑って、
放課後に一緒に準備して、
帰り道に「また明日ね」と言い合うようになっていた。
レインは、いつも同じ顔で笑う。
柔らかくて、穏やかで、
少しだけ寂しそうで――それが妙に母性をくすぐった。
守ってあげたい。
そんな気持ちすら、ミレイアは抱いていた。
⸻
だから。
これはきっと、悪い夢なのだと。
そう思いたかった。
⸻
「……っ」
意識が浮上する。
瞼が重い。
頭の奥が、じんじんと痛む。
冷たい床。
息を吸うと、鉄の匂いが肺に刺さった。
(……なに、これ)
血だ。
すぐに分かる。
甘くて、むせ返るような臭い。
ミレイアは震える指先で体を起こそうとして――
その瞬間、
視界に入ったものが、思考を止めた。
⸻
死体。
いくつも。
折り重なっている。
いたる所に赤黒い線が走っている。
まるで誰かがここで――肉を削って絵を描いたみたいに。
喉がひゅ、と鳴る。
吐き気がこみ上げた。
(嘘……)
(ここ、どこ……?)
言葉にしようとして、声が出ない。
———
その奥。
灯りの届かない場所で――
金属音が、乾いた空気を裂いていた。
刃と刃がぶつかる音。
骨まで響くような衝撃。
ミレイアは、床に転がったまま、ただ目だけを動かす。
視界の端が揺れる。
頭がまだ重い。
身体が言うことを聞かない。
(……なに)
(……なに、これ)
息を吸った瞬間、血の匂いが喉の奥に張りついた。
⸻
そこで、ふと。
記憶が――水面から浮かび上がるみたいに戻ってくる。
(そうだ……)
(セリナを助けて……)
旧研究棟。
不気味な装置。
警報。
先生の声。
助けに来たみたいな顔をして近づいてきた、ドミニク先生。
そして一瞬で空気が変わった。
(……戦闘になって……)
(……私)
(人質に、されたんだ)
腕を掴まれて。
息が詰まって。
視界が反転して――
最後に覚えているのは、後頭部に落ちてきた重たい衝撃。
⸻
ミレイアは、唇を震わせる。
(……じゃあ、今見えてるのは)
(その続き?)
⸻
暗がりの中。
二つの影が、信じられない速さで交錯していた。
片方は――ドミニク。
刀を握り、まるで風みたいに滑る。
見えない線が空間に刻まれる。
授業で見た型とは違う。
正刀式の“形”だけが残って、まるで別のものになっている。
人が使っていい速度じゃない。
人が出せる威力じゃない。
まさに災害だ。
⸻
そして。
それを相手にしているもう一人。
血の匂いの中で、異様に静かな立ち姿。
(……レイン、ちゃん?)
喉の奥から声が出そうになって、出ない。
ミレイアの脳が理解を拒む。
だって。
レインは戦えるタイプじゃないと、ずっと思っていた。
優しくて。
穏やかで。
誰かを傷つけるのが嫌いそうで。
なのに。
⸻
そこには、ただ淡々と戦うレインがいた。
ドミニクの斬撃の嵐も、すり抜けるように避け、数秒のうちにはドミニクの両腕が宙をまう。
あまりにも、あっけない。
今まで暴れていた災害が、
蝋燭の火を吹き消すみたいに――消えた。
いくらの会話を交わした後、
レインが一度だけ、息を吐いた。
次の動作は――もっと静かだった。
ドミニクの頭部が床に転がる。
血が、床に広がる。
――終わり。
⸻
ミレイアは、震えた。
(……なに)
(なにが起きたの)
(レインちゃんが……先生を……)
理解できない。
理解できるはずがない。
頭が真っ白になる。
涙が勝手に浮かぶ。
恐怖で。
混乱で。
そして――
心のどこかが、ゆっくり壊れていく音がした。
⸻
そのとき。
ミレイアの喉から、かすかな息が漏れた。
ほんの小さな――音。
でも、それは。
この場所では、致命的だった。
⸻
レインが、ぴたりと動きを止める。
ゆっくりと、こちらを見る。
⸻
目が合った。
⸻
ミレイアは、凍りついた。
逃げなきゃ、と思うのに身体が動かない。
声も出ない。
涙だけが落ちる。
⸻
レインが歩き出す。
血の海の中を、当たり前みたいに進む。
ミレイアの方へ――
まっすぐ。
———
ミレイアの喉が、ひゅっと鳴った。
「……レ、イン……ちゃん……?」
声が震える。
自分の声なのに、遠く聞こえた。
レインは、何も言わない。
ただ、こちらへ歩いてくる。
血の海を踏む音が、やけに生々しい。
⸻
(嘘、だよね)
(なにこれ)
(こんなの、夢だよね)
ミレイアは笑おうとした。
笑えば、悪い夢は醒めると思った。
でも頬が引きつったまま戻らない。
涙だけが、ぼろぼろ落ちる。
「……や、だ……」
声が、子どもみたいに掠れる。
「やだよ……」
膝が震えて立てない。
腕に力が入らず、床を必死に掻く。
逃げたいのに、逃げられない。
⸻
レインが、すぐ目の前まで来た。
ミレイアは、その顔を見てしまう。
――真顔だった。
怖いとか、怒りとかじゃない。
もっと嫌なやつ。
“何もない顔”。
いつもと同じ顔で、
いつもと同じ目で、
ただそこに立っている。
ただ一つ、違うのは血に塗れているという事だけ。
⸻
「……ね、ねえ……」
ミレイアは声を絞り出す。
「これ……夢だよね……?」
レインは、答えない。
ミレイアは必死に言葉を重ねる。
「だ、大丈夫……」
「レインちゃん、まだ……まだ大丈夫だから……!」
何が大丈夫なのか、自分でも分からない。
ただ――言わないと壊れてしまう気がした。
「先生に……言おう……!」
震える指で、レインの袖を掴もうとする。
「みんなで……話して……」
「きっと……何か……誤解で……!」
支離滅裂な言葉があふれる。
現実を否定するための言葉。
“いつもの日常”に戻るための言葉。
⸻
「レインちゃん……」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で、笑おうとする。
「ね……帰ろう……?」
「一緒に戻ろう……教室に……」
「大丈夫……大丈夫だから……!」
⸻
レインは、ミレイアを見つめたまま動かない。
表情は変わらない。
その静けさが、ミレイアの心をさらに壊した。
「……いや……」
ミレイアの声がひび割れる。
「いやだよ……」
「レインちゃん……やだ……」
⸻
レインが、ゆっくりと手を伸ばす。
ミレイアはびくりと肩を震わせる。
助けて、って言おうとした。
でも声が出ない。
⸻
レインの唇が、わずかに動いた。
「……ごめんね」
それだけ。
⸻
次の瞬間。
胸に、冷たい衝撃が沈み込んだ。
まるで、体温が抜けるような感覚。
「……え……?」
ミレイアの目が見開かれる。
視線の先。
自分の胸に――刃が刺さっていた。
⸻
息が、吸えない。
肺がうまく動かない。
口を開いた瞬間、鉄の味が溢れた。
「……ぁ……」
血が、唇を伝って落ちる。
⸻
ミレイアは震える指先で、刃に触れようとして――触れられない。
その代わり、レインの顔を見る。
そこに助けがあると思って。
そこにいつものレインちゃんがいると思って。
⸻
「……うそ……」
声が、かすれた。
「……うそ、だよね……?」
涙でにじむ視界の中でもーー
レインは真顔だった。
⸻
「……レイン……ちゃん……?」
ミレイアは、最後まで名前を呼んだ。
信じたまま、縋ったまま。
そして――
身体から力が抜けていく。
世界が、暗くなっていく。
⸻———
ミレイアの体温が、腕の中で消えていく。
胸に刺さった刃は深い。
喉の奥で絡む血の音が、弱く、細く――そして途切れる。
瞳から光が抜ける瞬間まで、
ミレイアはレインの顔を見ていた。
最後まで。
信じている目で。
⸻
レインは、動かなかった。
いや――動けなかった。
ただ抱えていた。
冷たくなっていく身体を。
まるで、これが当然みたいに。
感情は全てダリアに置いてきたと思っていた。
それなのに。
胸の奥は、痛いなんて言葉じゃ足りなかった。
釘を打ち込まれるみたいに。
心臓の形のまま、抉り抜かれていくみたいに。
⸻
夢を見ない日は、なかった。
ダリアが炎に包まれた夜。
崩れ落ちる建物。
逃げ惑う声。
焼ける匂い。
地面に転がる家族、友人。
目を閉じれば、いつでもそこに戻る。
眠れば必ず、あの街が現れる。
それが、レインの日常だった。
――それしかなかった。
⸻
なのに。
アカデミーに来てから、
夢を見ない日が、少しずつ増えた。
最初は偶然だと思った。
疲れていたからだ、と。
訓練で頭が埋まっていただけだ、と。
けれど違った。
朝の教室。
昼休みの雑談。
放課後。
笑ってしまうこと。
怒ってしまうこと。
くだらないことで悩むこと。
それが、あの炎を押しのけてしまった。
⸻
(……私は)
(忘れかけてた?)
そんな自分が許せなかった。
復讐しかないはずだった。
生き残った意味も。
力をつけた理由も。
全部、ダリアに帰るためのものだ。
――帰る?
違う。
もう街は焼け崩れて、屍と灰しか残っていない。
帰る場所なんて、存在しない。
それでも。
そこしかない。
⸻
(私の居場所は……)
脳裏に浮かぶ顔がある。
お父さん。
お母さん。
ユリス。
カイル。
そして――
クラスのみんな。
学校の先生。
近所のおじさん。
曲がり角のパン屋のおばさん。
郵便を届けてくれるお兄さん。
笑っていたはずの人たち。
怒っていたはずの人たち。
生きていたはずの人たち。
すべて、あの街に置いてきた。
燃えていく景色の中に、閉じ込めた。
(……私の居場所は)
(ダリアだけ)
今はもう、焼け崩れて屍しかない街。
でも、そこにしか“私”は存在しない。
そこ以外は全部――偽物だ。
⸻
なのに。
アカデミーの日々は、偽物のくせに温かかった。
ミレイアの笑顔。
ルカの軽口。
ガイのぶっきらぼうな優しさ。
レオンの真面目な横顔。
セリナの不器用な照れ。
眩しすぎて。
遠すぎて。
触れてしまったら、帰れなくなる気がした。
だから怖かった。
⸻
(……でも)
(触れてしまった)
ミレイアは、その象徴みたいな子だった。
優しい。
まっすぐ。
疑わない。
そして、弱いのに。
怖いのに。
最後まで、レインを救おうとした。
「レインちゃん、まだ大丈夫だから」
「先生に言おう」
パニックの中で、
震える声で、
それでも必死に。
レインを“こちら側”に引き戻そうとした。
⸻
――それを。
レインは、自分の手で潰した。
温かい偽物を。
帰れなくなる未来を。
だから、正しい。
正しいはずだ。
そう言い聞かせた瞬間。
心が、裂けそうになる。
⸻
(……違う)
(……私は)
(こんな……)
もう何人も殺してきた。今回も目的のために殺したに過ぎない。
そのはずなのにーー
手が震えた。
血が付いたままの指先が、言うことを聞かない。
――自分の中の“人間”が、最後の抵抗をしている。
⸻
レインは、ミレイアの髪をそっと撫でた。
やさしい手つきだった。
その優しさが――
自分の罪を、何倍にも濃くした。
(……ごめんね)
心の中で、何度も謝った。
何度謝っても、足りなかった。
でも声にはできなかった。
声にしたら、
自分が壊れてしまうから。
⸻
立ち上がらなければならない。
ここで泣き崩れたら終わりだ。
自分が選んだ道を、
自分が否定することになる。
それだけはできない。
――できないはずなのに。
足が、重い。
心が、重い。
まるでミレイアの亡骸が、
体の中に沈んでいくみたいに。
⸻
(……淡い夢を見ていた)
取り返しのつかない場所にいるのに、
取り返せるような気がしていた。
復讐に人生を捧げると決めたくせに、
少し平穏を望んでしまった。
その罰が、これだ。
ミレイアの死。
自分で、自分の心に刃を突き立てた。
⸻
(……私は)
(もう戻れない)
それは安堵じゃない。
救いでもない。
ただの、確認だ。
自分がどれだけ壊れていても、
この道を歩くしかないという確認。
⸻
レインは背を向け、歩き出す。
少しふらつく。
それでも止まらない。
止まった瞬間に、ミレイアの死を抱えきれなくなる。
⸻
(……私の居場所は)
(ダリアだけ)
灰の街。
屍の街。
もう誰もいない街。
そこでしか息ができない。
そこへ帰るために――
私は、生きる。
そのために、私は、
誰でも殺す。
どれだけ大切でも。
どれだけ温かくても。
⸻
夜の闇の中で、
血の匂いだけが濃い。
レインは、ふと自分の両手を見た。
真っ赤だった。
胸の奥がまた痛んだ。
その痛みごと、握り潰すように手を握る。
(……行こう)
壊れてもいい。
泣いてもいい。
でも止まらない。
止まったら、ミレイアを殺した意味が消える。
だから。
レインは、前に進むしかなかった。




