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血に染まる港

港は、冬の夜気に沈んでいた。


波が岸壁を舐める音だけが、遠くで単調に繰り返される。

積み上げられた木箱と、倉庫の黒い影。

灯りは最小限――逃亡者にとっては、それがありがたい。



「……状況が変わった」


埠頭の端。

薄暗い街灯の下で、ドミニクは苛立ちを隠さず言った。


その前に立つ男たちは、全員が“訓練を受けた”気配を纏っている。

軽装。武器は隠している。

真気の揺らぎが、夜気に溶けるほど静かに整っていた。


――MEK隊員。


そして、彼らの輪の中心にあるのは、木箱で組まれた荷。

梱包された瓶。

黒布で覆われた樽。

その中身を、ドミニクだけが“研究の成果”と呼んだ。



「想定外の事態だ」


ドミニクは舌打ちしそうになるのを堪えた。


「表沙汰になった。」

「……もう、あのアカデミーには戻れない――」


 吐き捨てるように言ってから、すぐに言葉を切り替える。


「今は撤退が最優先だ」


目の前の男が、淡々と聞き返した。


「……国外へ?」


「そうだ」


ドミニクは即答した。


「万が一を考えて逃亡ルートは準備してある」

「ほとぼりが冷めるまで潜伏する」


そして、荷へ視線を落とす。


「研究の成果はここにある」


声は低い。

だが、確かな昂ぶりが混じっていた。


「真気増強薬、通称VX」

「外界種をベースに作ったものは、副作用など改良の余地はある」

「人間を素材にした改良版VXの研究も、邪魔さえ入らなければ、あと一歩というところだったが…」


周囲の護衛たちの顔に、わずかな欲が浮かんだ。


――真気増強薬。

MEKの人間であっても、喉から手が出る。



「本部には」


ドミニクは、冷静さを装う。


「この荷を提出しておいてくれ」

「実験の記録も同封している」

「改良版についても、途中までではあるが纏めている」


男が頷く。


「分かりました」


それで――一旦、話は終わった。


ドミニクは、ほんの少し肩の力を抜いた。


(……最悪だが)


(終わりじゃない)


生徒が嗅ぎ回った?

教師が騒いだ?


どうでもいい。


重要なのは――成果が残ったこと。

そして、彼が“生き残る”こと。



そのときだった。


埠頭の先。

暗闇のど真ん中。


“何か”が、立っていた。


最初は影にしか見えなかった。

フードを深く被った人影。

足音はない。

気配も薄い。


なのに――


そこに“いる”ことだけが、異様に強く分かる。



「……誰だ」


護衛の一人が、低く問う。


返事はない。


ただ、風に揺れる外套の裾。


次の瞬間――


人影が、動いた。



――近い。


距離が潰れるのに、時間が要らなかった。


護衛の男が抜刀するより早く、頭部が地面に落ちる。


赤黒い線が走り、血が霧になって散る。


「っ――!?」


「敵襲!!」


「囲め!!」


声が飛ぶ。

真気が膨れ上がる。

護衛たちが一斉に間合いを詰めた。


だが。


その中心で起きているのは、戦闘じゃない。


“殺戮”だった。



踏み込んだ者から順に崩れる。

刃が折れる。

腕が飛ぶ。

首が飛ぶ。

身体が宙を舞い、海へ落ちる。


真気の光が一瞬だけ閃いて、消えた。


まるで――

火花みたいに。



「……な」


ドミニクは、息が止まっていた。


(何だ、これは)


(……一流どころじゃない)


護衛たちはMEKの隊員たちで真気使いだ。

しかも二流以上。

数もいる。


それが、ものの数秒で“減っている”。


恐ろしいのは、死体の山ではない。


それを作っている人影が――

まだ息一つ乱していないことだ。



「退け!!」


ドミニクが叫ぶ。


「距離を取れ!!」


だが、遅い。


気づけば、最後の護衛が地面に沈む。


港に残った音は――

波音と、血が滴る音だけだった。



沈黙。


ドミニクは、呆然として立ち尽くした。


夜の闇に、血の匂いが濃く滞留する。


そして。


人影が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。



フードの奥から、視線が突き刺さった。


ドミニクは、それだけで理解してしまった。


(……狙いは、俺)


(最初から、俺だけだ)



数歩手前で、人影は止まった。


そして――

フードに指をかける。


静かな動作で、それを外した。



街灯の灯りが、顔を照らす。


白い頬。

優しげな瞳。


――学園で見慣れた顔。


ドミニクの喉が、ひゅっと鳴った。


「……レ、イン……?」


あり得ない。

ここにいるはずがない。


彼女は生徒だ。

ましてや、最近三流になった程度のはずだ。

勤勉で――穏やかで――


その“仮面”が、今、目の前で崩れる。



レインは、静かに口を開いた。


まるで挨拶をするみたいに、柔らかい声で告げる。


「こんばんは」


そして、丁寧に。


「ドミニク先生」



ドミニクの背筋に、冷たいものが走った。


この少女が。

この“優等生”が。


今夜、港を血で洗った。


そして――

次は、自分だ。


世界が、音を失った。


港の風が、血の匂いを運んでいた。


倒れた護衛たちはもう動かない。

残されたのは、荷と――


ドミニクだけ。



「……どうして、ここにいる」


ドミニクの声は震えていた。


驚き。恐怖。理解不能。

その全部が混ざって、言葉が歪む。


「お前は……生徒だろ」

「三流の、ただの――」


レインは、ふっと微笑んだ。


「先生。静かにしてください」


柔らかい声。

丁寧な口調。


まるで教室で、騒ぐ生徒をたしなめるみたいに。


「今は、私が質問する番です」



ドミニクは、喉を鳴らす。


「……ふざけるな」

「そんな――そんなものが、あり得るか……!!」


振り返る。

死体を見る。

港を見渡す。


そして、ようやく理解する。


この少女が――

この状況を作った。


「……一流……?」


呟きは、掠れた。


だが、次の瞬間。


ドミニクの表情が、別のものへ変わった。


恐怖じゃない。


研究者の目。


“発見”の目だ。



「……いや」


ドミニクは、レインを凝視する。


息が荒くなる。


「待て……」

「お前……今、何を……?」


空気の揺らぎ。

血の海の中に立つ、異物。


その気配を、ドミニクは感じ取っていた。


「……魔気……?」


声が上ずる。


そして、言葉が途切れた。


「そんなはずがない」


ドミニクが、叫ぶ。


「魔気は――!!」

「コアを持たない人間には絶対に扱えない!!」


信じられないものを見た人間の声だった。


震えた声が、怒号へ変わる。


「理論があるんだ!!」

「体系がある!!」

「真気と魔気は混ざらない!!」

「真気のコアは、魔気の受け皿になり得ない!!」


「なのに――!!」


瞳孔が開いたまま、レインを見つめる。


「お前は……なんだ……!?」

「どこでコアを手に入れた!?」

「なぜ生きている!?」


興奮と狂気が、止まらない。



レインは、眉一つ動かさなかった。


ただ、丁寧に。


冷たく。


「質問の順番を間違えていますよ、先生」


その一言で、ドミニクは口を噤む。


――空気が、落ちる。



「私は」


レインは一歩だけ近づいた。


「先生に質問があるんです」


優しい声。

けれど拒否権のない声。


「一つ」


 レインは、指を立てる。


「なぜ、セリナを狙ったのですか」


 ドミニクの肩が、ぴくりと跳ねる。


 答えない。


 レインは、急かさない。


 ただ穏やかに続ける。


「二つ」


「VXを作って、何をしようとしたのですか」


「三つ」


「先生もMEKの人間ですか?」

「ここに転がってるのは技術本部の人間であってます?」


そこで、レインは微笑んだ。


「答えてくれないのならーー」

「答えてくれる気にさせるまでです。」



「……っ」


ドミニクの顔が引きつる。


喉が鳴る。


逃げる場所がないと理解している。


だが――


彼は研究者だった。


「……逆だ」


ドミニクが、湿った笑いを漏らす。


「俺が聞くべきだろう……!」


 狂ったような目。


「お前は魔気を使っている!!」

「それが何を意味するか分かっているのか!!」


唾を飛ばしながら、叫ぶ。


「コアを持たない人間は魔気に耐えられない!!」

「魔気は肉体を壊し、精神を歪める!!」

「お前が使えているのは――理屈がない!!」


「……化け物だ」


言葉は呪いのようだった。


だが、目は歓喜していた。


「世界がひっくり返るぞ……」

「真気以外の新たなリソース…これは人類の革命だ」

「もしお前の身体を解剖できれば」

「コア無しで魔気を運用できる仕組みが分かる……!」


舌なめずりするように、


「……いや」

「解剖じゃ足りない」


「“生きたまま”」

「魔気を流し込み、反応を見る必要がある」


レインの目が、ほんの少しだけ細くなった。


氷が割れるように。



「……先生」


レインは、静かに言った。


「あなたは」


「ずっと、それをやってきたんですね」


声は柔らかい。

けれど、刃のように深い。


「生徒を攫って」

「実験して」

「壊して」


「その成果を、本部に報告して」


ドミニクの口元が歪む。


「“進歩”だよ」


 熱に浮かされた声で、吐き捨てる。


「人類は変われる」

「更に上のステージに到達できる」


「だから――強化がいる」


「……犠牲は必要なんだ」



レインは、微笑んだ。


それは、相槌だった。


「なるほど」

「それがVX?」


「そうだ」


 ドミニクは、恍惚とした顔で言う。


「外界種から作ったVXは魔気の影響を受けて、副作用が強い」

「だから真気版を作る」


レインは敬語のまま、続けて疑問を投げかける。


「セリナは”材料”ってことですね」

「なぜセリナだったですか?」


ドミニクは、一瞬だけ言い淀んだ。

だが、諦めたように笑う。


「……適性だ」


「真気量」

「伸び代」


「学生で二流に到達する人間は多くない。」

「素晴らしいサンプルだった」

「今までのサンプルたちは、真気の量が足りず、VXを作れなかった」

「レオンも魅力的な素材だったが、無理だ」

「兄が厄介だからな」


「だからセリナだった」


研究者らしい合理的な理由が、そこにはあった。



そして最後。


レインの声が、ほんの少しだけ低くなる。


「……先生はMEK技術本部の人間ですね?」


ドミニクは、口角を吊り上げた。


勝ち誇ったように。


「その通りだ」


「俺を止めても何も変わらない」

「俺はただの担当に過ぎない」


「上は――もっと大きい」


目が、ぎらりと光る。


「お前が何者でも」

「結局、飲み込まれるだけだ」



レインは、数秒黙った。


その沈黙は、考えるためじゃない。


決めるための沈黙だった。


「……分かりました」


 柔らかく告げる。


「もう先生に聞くことはありません」



港の闇に、ドミニクの恐怖が落ちた。


ラインの冷たい瞳を見て、彼は悟った。


――殺される。


———


逃げ場のない港の闇。

潮風が血の匂いを散らす。


ドミニクは、喉を鳴らし――


笑った。


「……は」


そして、荷の陰に転がっていた小瓶を掴む。


中に入っているのは大量の錠剤。


VX。


”匂い”が濃い。

今まで流通していた粗悪品とは違う。



「やめ――」


レインが言いかけた瞬間、


ドミニクは躊躇なく、瓶を歯で噛み割った。


ぐ、と喉を鳴らし。


一気に飲み込む。


ガラス片が唇を切り、血が滲む。


だが本人は、それすら快楽みたいに笑った。


「……そうだ」


「俺は研究者だ」


「なら――最後に見るべきは一つだけだろう?」



次の瞬間。


ドミニクの全身から、真気の流れが爆ぜた。

血管が浮かび、筋肉が軋む。


身体が一回り膨張したように錯覚するほどの圧。


空気が震え、港の水面が波立つ。


――境地が、跳ね上がる。


一流の壁すら踏み越えた、異常な出力。



「ふ……はは……」


ドミニクの瞳が見開かれる。


「見える……!!」


「世界が!!」


彼は両腕を広げ、空気を抱きしめるように息を吸った。


「これが絶頂……!!」


「自然のエネルギーと繋がる……!」


狂喜。

まるで神に触れたような声。


「これが……これが“本物”の領域かぁ!!」



レインは動かなかった。


ただ静かに、目を細める。


「……絶頂じゃないよ、先生」


優しい口調のまま。


「借り物」

「破滅の前借りです」


「黙れ!!」


ドミニクは笑いながら、刀を抜いた。


抜刀と同時に、空気が切り裂けた。


音が遅れて追いつく。



「――さぁ、見せてみろ!!」


「魔気の女!!」


「お前の仕組みを――俺の手で暴いてやる!!」


踏み込み。


速い。


ただの“正刀式”とは次元が違う。

型が崩れているのではない。


型が“発展している”。


真気と自然エネルギーを強引に刀へ乗せた、狂った変則。


———



「絶頂刀法――《絶断》!!」


一振りで三つの斬撃。

続けざまに、


「《鳴神》!!」


刺突が雷鳴のように走り軌道が途中でねじれる。


さらに、


「《鬼返》!!」


 振り下ろしが途中で反転し、

 防御を叩き割るように角度を変える。


――連発。


呼吸も整えず、技を出せるだけ出す。


その姿はまるで、

“強さを証明したい子供”だった。



だが――

対するレインは最小限の動きで斬撃を躱わす。


刀の切っ先が髪を撫でても、

頬を裂く寸前でも――


レインの瞳は一度も揺れない。


追い詰められているのは、むしろドミニクだった。



「なんで……ッ!!」


ドミニクが叫ぶ。


額に汗。

息は荒い。


「なんで読める!!」


「なんで……俺の“絶頂”が通らない!!」



レインは穏やかな声で返した。


「先生」


「それが借物の力の限界ですよ」


その言葉が、

ドミニクの自尊心を殴った。


「……ふざけるな!!」


吠えるように踏み込む。

港の床が割れ、砂利が跳ねる。


「お前は何者だ!!」


ドミニクの問いは、

怒りというより恐怖だった。


理解できない存在への恐れ。



レインは斬撃を躱しながら、淡々と言う。


「復讐者」


静かすぎる答え。

それが余計に、ドミニクの癇を逆撫でした。


「復讐……?」


「ええ…」

「私の故郷は一昨年、あなたたちに殲滅された」


ドミニクは鼻で笑いかけて――


次の瞬間、ふっと顔色が変わった。


「……待て」


「お前……まさか“ダリア”の生き残りか?」



レインの瞳が、ほんの少しだけ冷える。


ドミニクは、理解したように笑った。


軽い。

あまりにも軽い笑い。


「ああ!!」


「あの“消された街”か!!」


「生き残りがいたのかよ!!」


まるで、噂話みたいに。

まるで、他人事みたいに。


「何を知っているの?」

レインはすかさず尋ねる。


「詳しくは知らん!」


「――よくある話だよ」


吐き捨てるように言う。


「上が決めて」

「下が動いて」

「街は消える」


「そんなの、この国じゃ珍しくもねえ」



レインの表情は崩れなかった。


怒りも、涙もない。


ただ――


“確信”だけが深くなる。


(やっぱり)


(こいつらは、同じ穴の狢)



「……先生」


レインの声が、さらに柔らかくなる。


だからこそ怖い。


「少し、見せてあげます」


ドミニクの眉が動く。


「……なにを?」


レインは静かに言った。


「真の絶頂」


「――その先の力を」



ドミニクは一瞬、笑った。


「はっ……」


「言うじゃねえか……!」


そして刀を構え直す。


「来いよ!!」


「俺の絶頂刃法で切り刻んで――」


言葉が終わる前に。


レインが踏み込んだ。



速い。


ドミニクの視界が追いつかない。


「――!?」


慌てて斬撃を繰り出す。


複数の斬撃が空間を塗り潰す。


だが――


レインはその“間”を抜けた。


まるで斬撃の未来が見えていたみたいに。


魔刃槍が、ドミニクの胸元へ迫る。



「ッ……!!」


ドミニクは反射で《鳴神》を返す。

軌道をねじって、首を狙う。


――当たるはずだった。


しかし。


槍の柄がすでにそこにあった。


受け流し、次の瞬間には距離がゼロになる。



レインの声。


「魔刃槍・二の型《双断輪》」


交差する二つの斬弧。


――“処刑の型”。



ドミニクの両腕が落ちた。


落ちるまで理解が追いつかない。


「……ぁ?」


視界の端に、自分の腕。


刀も、握れない。


血が噴き上がる。


港の冷気が、一瞬で赤く染まった。



膝をつくドミニク。


絶頂の圧が崩れ、

VXの副作用が一気に身体を蝕む。


ガクガクと震えながら――


それでも笑った。


「……ひ……」


「ひはは……」


「お前……」


口の端から血が垂れる。


「俺を殺しても……意味はない……」


「ダリアみたいな殲滅は……」


「よくある話だ……」


「俺を止めても……何も変わらない……!」



レインは槍先を静かに下げ、

優しい声で言った。


「変わりますよ」


「先生の未来は、ここで終わる」


そして――


首が落ちた。


血の雨が、潮風に散る。



レインはフードを直し、

倒れた死体を見下ろして呟いた。


「……繋がった」


世界の闇が。


MEKの闇が。


そして――


ダリアが。


———


血の匂いが、風に溶けていく。


レインは倒れたドミニクを見下ろし、槍先の血を一度だけ払った。


(……繋がった)


VX。

旧研究棟。

セリナの失踪。

学園関係者。

そして――MEK。


ようやく、核心の輪郭が見えた。



しかし。


彼女はまだ気づいていなかった。


その闇の端に、すでに“誰か”が立っていることに。


物陰。


息を殺し。


涙すら零さず。


ただ、レインを見つめる――ひとつの瞳。


悲劇は、もう始まっていた。

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