逃亡
花火の爆音が、夜の空気を引き裂いていた。
旧研究棟の裏手。
凍える路地に、赤い光が明滅する。
――そして。
その爆音に呼ばれるように、足音が増えていく。
駆けつけたのは――担任、アイリスだった。
外套の裾を翻し、息を切らしながら。
その背後には、他の教官が数名。
「あなたたち何やってるの!!」
張りのある声。
教師としての声。
いつも教室で聞いているものとは、別物の鋭さだった。
「あなたたち!! 武器を下ろして――……」
そして。
アイリスの視線が、ドミニクに刺さる。
「……ドミニク先生」
震えるような声で名を呼び、
次の一言は、ほとんど怒りだった。
「これはどういうことですか?」
凍りつく空気。
レオンは槍を構えたまま、ほんのわずかに息を止める。
――大人が来た。
これで終わる。
終わらせられる。
そう思った瞬間だった。
⸻
ドミニクの表情が、ゆっくり歪んだ。
さっきまでの余裕の笑みではない。
計算が狂った人間の顔。
(くそ)
心の声が漏れたように、彼は唇を動かす。
「……まずい状況だな」
声が低い。
そして次の瞬間。
ドミニクは、目線を路地の入口へ滑らせた。
まるで――
“待っていた”かのように。
⸻
「……みんな!!」
息を切らした声。
備品庫から戻ってきたミレイアだった。
花火が上手くいったのか、どこか誇らしそうだ。
目の前にいるのは教官たち。
刀を持ったドミニク。
武器を構えた仲間たち。
地面には血。
ミレイアの状況理解が追いつく前に――
ドミニクが動いた。
“風”だった。
真気の差が、動作の差になる。
ミレイアが瞬きするより速く、
彼はミレイアの背後に回り込み――
首元に刀の切っ先を当てた。
「――止まれ」
静かな声。
それだけで、全員の動きが止まる。
⸻
「ミ、ミレイア!!」
ルカが叫ぶ。
ガイの拳が震える。
レオンの槍先が揺れて、
即座に強く握り直すが――
動けない。
選択を間違えれば、ミレイアが死ぬ。
アイリスの目が大きく見開かれた。
「ドミニク先生……!!」
信じられない、という声。
教師が生徒を盾にする光景。
その現実に、アイリスの唇が震えた。
⸻
ドミニクは、鼻で笑った。
「……ああ、そういう顔をするな」
「俺だって、好きでこうしてるわけじゃない」
言い訳みたいな口調なのに刃先は一切揺れない。
刀を引けば、一瞬で喉を裂ける位置。
「武器を捨てろ」
命令。
たったそれだけ。
レオンは歯を食いしばった。
(……くそ)
勝てない相手をようやく追い詰めた。
なのに――
最後の最後で、人質。
最悪の選択。
最適の選択。
一流の判断。
⸻
ルカが悔しそうに斧を下ろす。
ガイの拳が開き、地面にナックルが落ちる。
レオンも槍を手放す。
カラン、と冷たい音。
全員の視線が、ミレイアに集まる。
ミレイアは涙目で、でも必死に首を振った。
「だ、大丈夫……!!」
「私、平気……だから……!」
震える声。
強がり。
その強がりが、
全員の心臓を締め付けた。
⸻
ドミニクは小さく息を吐く。
「いい子だ」
その言葉が、気持ち悪いほど優しい。
次の瞬間――
ドミニクの手刀が、ミレイアの首筋に落ちた。
ゴトリ。
ミレイアの身体が崩れ落ちる。
「ミレイア!!」
叫び声が重なる。
だが、遅い。
ドミニクはミレイアを担ぎ上げた。
「気絶させただけだ」
淡々とした声。
「殺してない。安心しろ」
その言い方が、一番腹立たしかった。
⸻
「止まりなさい!!」
アイリスが叫ぶ。
教官たちも踏み込もうとする。
だがドミニクは引き金のように“真気”を膨らませた。
圧。
空気が凍る。
教官たちの動きが一瞬止まる。
それが、致命的な隙だった。
⸻
ドミニクは、夜の闇へ溶け込むように後退しながら、一言だけ残した。
「……悪いな」
「俺も、生きなきゃならない」
「追ってきたらミレイアを殺す」
そして、跳ぶ。
屋根へ。
塀へ。
闇へ。
ミレイアを抱えたまま、
一流の身体能力で距離を引きちぎっていく。
⸻
「全員待機!!」
アイリスが叫んだ。
誰もが分かっていた。
今の速度では追いつけない。
追いつけても勝てない。
そして――
ミレイアが人質のままでは、手が出せない。
⸻
レオンは、拳を握った。
震えが止まらない。
怒りと、
自責と、
恐怖と。
全部が混ざる。
(……俺たちは)
(守るって言ったのに)
アイリスが彼らに駆け寄る。
教師として、震える声で言った。
「……怪我は?」
「生徒に……死者は……?」
セリナはルカの背で、かすかに目を開いていた。
そして一言。
「……ミレイア……」
その名前が落ちた瞬間、全員の胸が沈む。
夜が静かになった。
花火の音だけが遠くで鳴っている。
雪混じりの風が吹き、地面に残る血を冷やしていく。
———
その頃、
レインは、港の外れ――倉庫街の影に身を潜めていた。
夜の海は、冷たかった。
潮の匂いが肺に刺さる。
波の音が、遠くで低く鳴っている。
フードを深く被り、
呼吸も、足音も、限界まで消す。
追跡した二人組は、迷いなくここへ来た。
(……やっぱり)
この方角。
この時間。
そして――この匂い。
魔気の残り香が、確かにある。
VXの現物に触れたとき感じた、あの不快な感覚。
外界種に近い臭い。
間違いない。
これが、“流通元”の線だ。
⸻
倉庫の一角。
錆びた鉄扉の向こうに、明かりが漏れていた。
出入りする人影。
荷運び。
箱。
そして――見張り。
(警備がいる)
全員、歩き方が違う。
一般人じゃない。
真気を巡らせている気配が、何人も混じっている。
数は十を超える。
全員三流以上だ。
(MEK隊員クラス…)
レインは、目を細める。
――確信に近いものが腹の底で形になっていく。
この倉庫は、ただの裏社会の倉庫じゃない。
“国の影”だ。
⸻
レインは、倉庫の側面へ回り込む。
積まれた木箱の影。
隙間。
暗がり。
鍵のない小窓を、指で押し上げる。
音は立てない。
空気だけが震える。
レインは、するりと中へ滑り込んだ。
⸻
倉庫の中。
油の匂い。
湿気。
鉄と薬品が混ざったような臭い。
そして――
(……ある)
レインの瞳が、冷たくなった。
壁際に並ぶ台車。
その上に積まれた箱。
箱には、二つの文字。
――VX。
見間違えようがない。
さらに。
奥のシートの下。
布の隙間から覗く黒い肉塊。
外界種の死骸だ。
蜘蛛型。
獣型。
切り分けられ、解体され――“素材”になっている。
レインの背筋に、冷たいものが走る。
(やっぱり)
(外界種から作ってる)
VXは、魔気由来。
そしてこの外界種の死骸は――魔気の塊。
だからこそ。
レインが触れた時、あの感覚があった。
⸻
レインは、箱の一つに指先を当てた。
薄い魔気の残滓。
まるで霧のように漂う。
真気ではない。
自然エネルギーでもない。
(……人為的だ)
外界種の魔気を抽出し、希釈し、薬品に落とし込む。
それをやれる人間は――限られている。
少なくとも裏社会の技術ではない。
(……旧研究棟)
あそこに、装置がある。
作っている場所は、そこ。
確信が、骨まで染みていく。
⸻
さらに視界の端。
資材の宛先表示が見えた。
木箱に刻まれた搬送先。
――技術本部。
レインの眉が、わずかに動く。
(……MEKの技術本部)
なるほど。
なら、この倉庫は“中継点”だ。
旧研究棟で生成し、
ここで積み替え、
技術本部へ運ぶ。
……国ぐるみの匂いがする。
⸻
レインの胸の奥が、静かに熱くなる。
怒りでもない。
冷たい殺意。
(……皆殺しにするか)
ここにいる人間を全員殺して、一人だけ残して尋問。
吐かせる。
流通元。
責任者。
目的。
それで終わる。
最短で、最適で。
自分らしい解決だ。
⸻
――その時。
倉庫の空気が変わった。
ざわ、と。
人の動きが乱れる。
誰かが低く怒鳴る声。
「急げ」
「移動だ」
「何があった?」
「連絡が入った。――例の件だ」
例の件。
レインは一瞬で、耳を研ぎ澄ます。
(例の件?)
このタイミングで?
現場の動揺の質が違う。
これは“現場のトラブル”じゃない。
“指揮系統からの緊急命令”。
⸻
倉庫内の人間が、一斉に動き出した。
台車を押し、
箱を固定し、
必要最低限だけ積み込んでいく。
証拠隠滅――まではしない。
つまり。
これは撤収ではなく、
“合流”か、“輸送”。
(……逃げる準備?)
レインの目が細くなる。
(どこへ行くつもり?)
倉庫の扉が開く。
冷たい海風が流れ込む。
人影の列が、埠頭へ向かう。
レインは躊躇しなかった。
今殺すよりも――
“上”へ繋がる可能性がある。
(ついていけば、頭が見える)
糸を手繰るなら、今だ。
⸻
レインは、影から影へ移動する。
倉庫街。
コンテナ。
積み上げられた木箱。
誰にも見られない距離を保ち、
それでいて、確実に追う。
視界が開ける。
埠頭。
海面に月の光が揺れて、
船が一隻、待機していた。
国の船じゃない。
けれど……軍用に近い匂い。
⸻
そして。
そこに――見覚えのある背中がいた。
爽やかな笑顔。
整った立ち姿。
ただし今は、笑っていない。
ドミニク。
レインの内側で、何かが冷たく整列する。
さっきまでの推理が、すべて一本の線になる。
七不思議。
神隠し。
旧研究棟。
VX。
技術本部。
そして――セリナ。
全部の中心に、こいつがいる。
⸻
倉庫の連中が、ドミニクの前で足を止める。
緊張した声。
「……何があったんですか?」
「今までの事がバレた」
ドミニクが舌打ちする。
「予想より早い」
「……だが問題ない」
淡々とした声。
その言葉の“意味”を、レインはまだ正確には知らない。
――ミレイアが人質になっていることも。
セリナが救出されたことも。
旧研究棟で戦闘が起きたことも。
何も知らない。
ただ、目の前の光景だけで十分だった。
(……尋問すればいい)
ここで。
この場で。
ドミニクも。
関係者も。
尋問して、潰す。
それだけでいい。
⸻
レインは、闇の中で一歩踏み出した。
海風が髪を揺らす。
月明かりが、彼女の瞳にだけ映る。
――そして。
この港で起きる惨劇が、今始まろうとしていた。




