忍び寄る足音
チョークが黒板を叩く音が、教室に響く。
「――つまり」
「真気の循環が乱れる原因は、精神状態だけではありません」
担任のアイリスは、黒板に図を描きながら続けた。
「環境、周囲の魔気濃度、身体操作の癖」
「それらが重なって、初めて“破綻”が起きる」
落ち着いた声。
どこか柔らかい口調。
教室は静まり返っている。
⸻
レインは、前を向いたままノートを取っていた。
ペンの動きは一定。
姿勢も崩れていない。
けれど――
(……昨夜)
思考は、自然とそこへ戻る。
⸻
もし、あの時。
セリナに抱きつかれた瞬間に、自分があそこにいなかったら。
(……攫われていた)
確信に近い感覚。
追跡者の力量。
距離の詰め方。
躊躇のなさ。
一流。
素人の動きじゃない。
⸻
(……神隠し)
ふと、七不思議の一つが脳裏をよぎる。
黎明祭の時期になると、生徒が消えるという噂。
笑い話。
昔話。
都市伝説。
だが――
(事実、だったとしたら)
それは、偶然ではない。
黎明祭で外部の出入りが多いこの時期。
人を攫うには、都合がいい。
⸻
「……レインさん」
突然、名前を呼ばれた。
思考が、すっと現実に戻る。
顔を上げると、アイリスがこちらを見ていた。
「今の説明」
「真気循環が乱れる要因を、三つ挙げてみて」
教室の視線が、一斉に集まる。
⸻
レインは、慌てない。
「はい」
すっと背筋を伸ばす。
「精神状態」
「周囲の魔気濃度」
「身体操作の癖、です」
「それに加えて――」
一拍。
「自覚のない恐怖や、無意識の緊張も」
「循環に影響を与えます」
⸻
一瞬の沈黙。
アイリスは、ゆっくりと頷いた。
「その通り」
「とてもよく聞いていましたね」
軽く微笑む。
「……皆さんも、今のを参考にしてください」
教室の空気が、少し和らぐ。
レインは、静かに席に座り直した。
⸻
(……やっぱり)
昨夜の出来事は、偶然じゃない。
セリナが二流に至ったこと。
学祭が近いこと。
追跡者が動き始めたこと。
それらは、一本の線で繋がり始めている。
まだ、形にはならない。
けれど――
(……次は、未遂じゃ済まない)
レインは、ノートを閉じる。
“優等生”の顔のまま。
その内側で、静かに警戒を強めながら。
———
アイリスは、チョークを置いて教室を見渡した。
「さて」
軽く手を叩く。
「黎明祭の準備で忙しい時期だとは思いますが」
「学業も、気を抜かないでくださいね」
視線は、三年生一人ひとりへ。
「そろそろ――」
「進路を、具体的に決める時期です」
その言葉に、教室の空気がわずかに引き締まる。
MEK。
それ以外の道。
家の事情。
才能と現実。
全員が、頭のどこかで考えていること。
「悩むのは、悪いことじゃありません」
「しっかり考えて、後悔のないように」
アイリスは、穏やかに続けた。
「何か質問はありますか?」
一拍。
「なければ、今日はここまでにしましょう」
⸻
――その瞬間。
「はい先生!」
勢いよく手が挙がった。
言わずもがな、ルカだった。
嫌な予感が、教室をよぎる。
「……どうしましたか、ルカ君」
アイリスは、嫌そうではない。
慣れている。
「先生ってさ!」
ルカは、やけに楽しそうに言った。
「七不思議、知ってます?」
ざわっ。
何人かが、顔を上げる。
「黎明祭でデートした二人は、必ず結ばれるってやつ!」
完全に余計な話題。
「……」
一瞬の沈黙。
そして。
「アイリス先生は――」
にやり。
「ドミニク先生、誘わないんですか?」
⸻
――爆笑。
「やめろよルカ!!」
「それ言う!?」
「先生顔赤い!!」
机を叩いて笑う者。
口を押さえて耐える者。
教室が、一気に騒がしくなる。
⸻
アイリスは、ルカの言葉を聞いた瞬間――
ぴたりと動きを止めた。
一拍。
そして。
「…………」
みるみるうちに、耳まで真っ赤になる。
教室が、ざわつく。
「え、先生?」
「図星……?」
「ち、違います!」
思わず声が裏返る。
チョークを持つ手が、わずかに震えた。
「そ、そういう話をしている時間ではありません!」
慌てて咳払いを一つ。
⸻
「……ルカ君」
笑顔。
だが、目が笑っていない。
「内申点」
「覚悟しておきなさい」
「えっ!?」
教室が再び爆笑に包まれる。
「ちょ、先生それは横暴――」
「静かに!」
アイリスは、勢いよく教卓を叩いた。
そして、深呼吸。
⸻
「……では」
顔を逸らしながら、早口で言う。
「午前の授業は、ここまでです!」
「各自、昼休憩に入りなさい!」
アイリスは教材を抱え、ほとんど逃げるように教室を出ていった。
⸻
一瞬の静寂。
次の瞬間――
「先生かわいいな」
「完全に動揺してた」
「ルカ、やりすぎだろ」
好き勝手な声が飛び交う。
「うわああああ」
ルカが頭を抱える。
「俺の内申点があああ……!」
⸻
レインは、その様子を眺めながら、小さく息を吐いた。
笑い声に包まれた教室。
平和で、どこにでもある昼前の時間。
(……何も起きてない)
――今は、まだ。
それでも、この平穏の裏で確実に何かが動いている。
⸻
放課後。
「レイン、次これお願いできる?」
声をかけてきたのは、レオンだった。
黎明祭実行委員、クラス代表
机を寄せて作られた簡易の作業スペースで、レインとレオンは向かい合って座っていた。
ミスコンの進行表。
衣装、動線。
舞台に上がるタイミング。
どれも細かい確認だが、抜かりは許されない。
⸻
「ここ、照明が一段落ちるから」
「歩く位置、半歩内側の方が綺麗に見えると思う」
レオンは、淡々と指示を出す。
声音は穏やかだが、内容は的確だった。
⸻
「なるほど……」
「じゃあ、ここで一拍置く感じ?」
レインが確認すると、レオンはすぐに頷く。
「うん、それがいい」
無駄な言葉はない。
話が早い。
⸻
(……最近、こうして一緒にいることが多い)
レインは、ふとそんなことを思った。
ミスコン関連。
実行委員の仕事。
準備の最終確認。
気づけば、自然と隣にいる時間が増えていた。
⸻
レオン・カールライル。
学園では知らない者のいない名前だ。
理由は、本人ではない。
兄――
アレクシア・カールライル。
⸻
MEKランキング6位。
圧倒的な戦績。
落ち着いた物腰。
そして、25歳という若さでMEKランキングに名を連ねる正真正銘の怪物。
国民人気も高く、「理想の英雄像」として語られる存在。
名前を出せば、誰もが一度は頷く。
⸻
その弟。
それが、今、目の前にいるレオンだ。
⸻
(……大変だろうな)
レインは、内心でそう思う。
どれだけ努力しても、
どれだけ成果を出しても。
最初に向けられるのは、「兄と比べた視線」
⸻
レオンは、そのことを口にしない。
愚痴らない。
誇らない。
ただ、与えられた役割を淡々とこなす。
⸻
「……レオンくん」
レインが、作業の合間に声をかける。
「大変じゃない?」
「実行委員に、ミスコンに、授業も」
遠回しな言い方。
でも、本当は別のことを聞きたい。
———
レオンは、一瞬だけ手を止めた。
「まあ……忙しいのは、嫌いじゃないよ」
そう言って、少しだけ笑う。
「考えてる時間があるとさ」
「どうしても、余計なこと考えちゃうから」
(……余計なこと)
それが何かは、聞かなくても分かる。
⸻
「兄さんのこと?」
レインは、あえてはっきり言った。
レオンは驚かなかった。
むしろ、少し肩の力が抜けたように見えた。
「……やっぱり、分かる?」
「うん」
レインは、静かに頷く。
「誰もが知ってる名前だもの」
「比べられない方が、不自然」
「……だよな」
レオンは、机の上の進行表を見つめたまま言う。
「兄さんは、素直にすごい」
「本当に尊敬してる」
「でも――」
言葉が、一瞬だけ詰まる。
「俺は、兄さんにはなれない」
それは、諦めではなかった。
現実を受け入れた人間の言葉だ。
「だからさ」
レオンは、顔を上げる。
「せめて、ここではちゃんとやりたいんだ」
「実行委員としても」
「代表としても」
「……それに」
一瞬、視線が泳ぐ。
「ミスコン、任せてもらってるし」
⸻
レインはくすっと笑った。
「そんなに構えなくていいよ」
「え?」
「私は、楽しんで出るだけだから」
「レオンくんは、ちゃんと支えてくれればいい」
柔らかな声。
いつもの“優等生”の笑顔。
レオンは少し驚いたように目を瞬かせたあと、苦笑した。
「……君って、ずるいよね」
「そう?」
「自然に、肩の力抜かせる」
⸻
レインは、何も言わなかった。
ただ、進行表を指でなぞる。
(……いい人だ)
(だからこそ、傷つきやすい)
⸻
兄の背中を追いながら。
比べられ続けながら。
それでも前に立とうとしている。
そんな人間を、レインは嫌いじゃなかった。
———
「……そろそろ、帰ろうか」
教室の時計を見て、レオンがそう言った。
外はすでに夕暮れに差しかかっている。
「今日はここまでで大丈夫だと思う」
「残りは、明日詰めれば間に合う」
「うん」
レインは頷き、進行表を丁寧にまとめる。
⸻
二人で教室を出ようとして――
ふと、灯りのついた隣の教室が目に入った。
中に人影がある。
⸻
「あれ?」
レオンが、足を止める。
「まだ誰か残ってるな」
覗き込むと、ミレイアとセリナが机に向かっていた。
装飾用の布。
細かい作業道具。
どうやら、クラス展示の準備の続きをしているらしい。
⸻
「あ、レインちゃん!」
真っ先に気づいたのは、ミレイアだった。
ぱっと顔を上げて、嬉しそうに手を振る。
「お疲れさま!」
「もう帰るとこ?」
「うん、今ちょうど」
レインが答えると、ミレイアはにやっと笑った。
「ねえねえ」
「昨日、セリナちゃんとお泊まり会したんだって?」
⸻
「……っ」
セリナの肩が、わずかに跳ねた。
「ち、ちょっとミレイア……!」
「いいなー!」
「私も呼んでほしかった!」
無邪気な声。
⸻
レインは、苦笑いを浮かべる。
「急だったから」
「それに、そんな楽しい感じでもなかったし」
⸻
そのやり取りを少し後ろで聞いていたレオンが、ゆっくりと口を開いた。
「……急、って?」
穏やかな声。
だが、どこか引っかかるものを感じ取った調子だった。
⸻
「……別に」
セリナが、少し視線を逸らして答える。
「たまたま、帰りが一緒になっただけ」
いつもの、ぶっきらぼうな言い方。
だが――
レオンは、見逃さなかった。
セリナの指先が、ほんのわずかに震えていることを。
「……何か、あった?」
今度は、はっきりとした声だった。
一瞬、空気が止まる。
ミレイアが、空気を読んだように口を閉じる。
レインは何も言わず、セリナを見る。
選択を、彼女に委ねるように。
⸻
「……」
セリナは、唇を噛んでから、息を吐いた。
「……追われてる、気がするの」
⸻
「気がする?」
レオンが聞き返す。
「誰かに?」
「学内で?」
「……分からない」
セリナは、首を振る。
「でも、確かに……」
「視線を感じることがある」
「振り返ると、誰もいない」
「……それが、一度や二度じゃない」
⸻
ミレイアが、不安そうに眉を寄せる。
「それって……怖くない?」
「……怖いわよ」
セリナは、ぽつりと言った。
「私は戦うことには慣れてる」
「外界種だって人だって、そう思ってた」
「でも――」
少し間を置く。
「こういうのは、初めて」
⸻
レオンは即座に言った。
「それは先生に相談した方がいい」
正論だった。
誰が聞いても間違っていない判断。
「これは、1人でで抱える話じゃない」
⸻
少し間が空いた。
答えたのはセリナだった。
「……大事にしたくないの」
声は小さい。
でも、迷いはなかった。
⸻
「副代表で」
「学祭の中心にいる今」
「“狙われてる”なんて話が広まったら」
「準備も、学祭そのものも影響が出る」
⸻
レオンは、驚いたようにセリナを見る。
「でも、それは――」
⸻
「それに」
セリナは続けた。
「実際に、犯人を見たわけじゃない」
「顔も、人数も、正体も分からない」
「ただ……」
「“何かがおかしい”って感じただけ」
⸻
ぎゅっと、拳を握る。
「それだけで先生に相談して」
「何もなかったら……」
言葉が、少し詰まる。
「……恥ずかしいとかじゃなくて」
「無駄に周りを騒がせたくない」
⸻
レオンは、黙り込んだ。
副代表としての立場。
学祭全体への影響。
その全部を、セリナが考えていることが分かる。
⸻
ここで、レインがようやく口を開いた。
「レオン」
名前を呼ぶだけ。
声は穏やかだ。
「もし、本当に危険だって分かったら」
「その時は、大人に相談しよう」
「……」
「でも、今は」
「“何も起きてない”」
「だから」
「少しだけ、様子を見たい」
⸻
それだけ言って、それ以上は語らない。
説得もしない。
結論も押し付けない。
⸻
レオンはゆっくりと息を吐いた。
「……なるほどな」
⸻
「確かに」
「この段階で先生に言っても」
「警戒を強めて終わり、かもしれない」
⸻
視線を上げる。
「で、もし本当に犯人がいたら」
言葉を選びながら。
「僕たちが気づいて」
「僕たちで止めたら――」
一瞬、言葉が止まる。
その続きをレインは言わない。
セリナも言わない。
⸻
「……英雄、ってやつか」
レオンが、自嘲気味に呟いた。
⸻
「兄貴みたいな、じゃなくても」
「少なくとも――」
拳を、軽く握る。
「誰かを守れた、って実感は残る」
セリナが、少し驚いたようにレオンを見る。
⸻
「……レオン」
⸻
「分かった」
レオンは、はっきり言った。
「先生には、まだ言わない」
「学生として出来るところまでやろう」
セリナは、ほっと息を吐いた。
「……ありがとう」
⸻
夜の空気は、冷えていた。
街灯の数もまばらな、学園近くの裏通り。
建物と建物に挟まれた、狭い石畳の道。
人通りはない。
⸻
セリナは、一人で歩いていた。
学祭準備で遅くなった帰り道。
副代表として、最後まで残っていた――
それは事実だ。
だが、今夜は違う。
⸻
(……来る)
足音は、まだ聞こえない。
けれど、背中に貼りつくような感覚がある。
視線。
空気の揺れ。
二流に至った今の彼女だからこそ、分かる違和感。
⸻
――いる。
確信した瞬間セリナは歩調を変えなかった。
振り返らない。
早足にもならない。
ただ、何も知らない生徒のふりを続ける。
⸻
その少し後ろ。
路地の影に、黒い人影が溶けていた。
足音を殺し、距離を詰める。
無駄のない動き。
その判断に、セリナの喉がわずかに鳴る。
(……本当に、来た)
⸻
石畳に、もう一つ足音が重なる。
ひとつ。
またひとつ。
距離が、確実に縮まっていく。
⸻
セリナの指先が、僅かに震えた。
怖くないわけがない。
相手は、実力も正体も分からない。
それでも――
彼女は、足を止めなかった。
⸻
角を曲がる。
行き止まりに近い、さらに細い路地。
逃げ場はない。
それを確認したかのように、背後の気配が、はっきりと濃くなる。
⸻
「……」
セリナは、ゆっくりと立ち止まった。
そして――
振り返らずに、静かに言う。
⸻
「――もう、十分よ」
⸻
その言葉に、背後の気配がぴたりと止まった。
次の瞬間。
闇の奥から、低い声が落ちる。
「……気づいていたか」
セリナは、ようやく振り返る。
表情は、怯えではない。
ーー覚悟だ。
⸻
同時に。
屋根の上。
路地の入口。
影と影の境界。
動かなかった三つの気配が、
静かに――確実に、殺気を解放した。
レオン。
ミレイア。
そして、レイン。
狩りの舞台は、整った。
———
セリナは、真っ直ぐ相手を見据えて言った。
「――出てきなさい」
「私を狙った理由、聞かせてもらうわ」
暗闇にレイピアが光る。
その言葉を合図に、夜が静かに動き出した。




