エルディオ公立総合アカデミー
共和国西岸の港は、ドラスとは空気が違った。
波は穏やかで、岸壁は整備され、荷の積み下ろしすら静かだ。
騒がしさよりも、秩序が先に来る街。
――それが、アウレリア共和国だった。
⸻
「次の方」
無機質な声に呼ばれ、ノアは一歩前に出る。
差し出すのは渡航許可証、身分証、雇用予定証明。
すべて港狼会が用意した“正しい書類”。
書類上、ノアはただの労働者。
検問官は淡々と目を走らせ、顔も上げずに聞いた。
「……同行者は?」
一瞬だけ心臓が跳ねたが、ノアは首を振る。
「いません」
書類上は嘘ではない。
検問官はそれ以上追及せず、軽く手を上げた。
「積荷はこちらで確認済みだ。問題ない。通っていい」
その一言で、境界線は越えられた。
⸻
港の外。
共和国の風がノアの頬を撫でる。
潮の匂いは同じはずなのに、どこか乾いて感じた。
――越えた。国境を。
少し遅れて、貨物区画の影から一人の少女が現れる。
レインだ。
身分証も、名前も、共和国には存在しない。
彼女はこの国にいないはずの人間だった。
「……終わった?」
「ああ。問題なし。俺だけな」
「そう」
それで十分だった。
誰も彼女を見ない。気にも留めない。
目立つことすら異常にならない国。
美しい者も、優秀な者も掃いて捨てるほどいる。
(……また一つ、捨てたな)
名前も、過去も、国籍も。
境界線の向こうに置いてきた。
⸻
港を抜けると街の空気が変わった。
白を基調にした低層の建物、整った石畳。
同じ港町でも、ドラスの荒さはない。
外壁に刻まれていた街名。
《アウレリア共和国西岸都市・エルディオ》
首都ではない。だが学術と物流の要衝。共和国に入る人間が最初に足を踏み入れることの多い街。
大通りに出ると人の流れが増えた。
学生らしき集団、商人、制服姿の警備員。
掲示板には大きなポスターが貼られている。
対外界危機管理機構 MEK
「これが共和国の“英雄”たち、か」
「……」
レインは数秒だけ眺め、視線を逸らした。
(名前も、顔も、こうして残る)
浮かびかけた思考は、すぐに切り捨てた。
⸻
歩きながらノアが偽造書類を確認する。
「俺はノア・グレア。表向きはこの辺りの出身で、前職は港湾警備員。これからアカデミーの用務員として就職」
「私は学生。レイン・カーネス。出身は共和国西部の農村」
偽造された“今の身分”。
問題なく通る。問題なく生きられる。
「そういや……苗字、今まで聞いてなかったな」
「カーネスってのは、偽名なのか?」
「偽名だよ」
即答。
「じゃあ、本当の名前は?」
一瞬の沈黙。潮風が二人の間を抜けていく。
「……いい」
レインは前を向いたまま言った。
「もう、誰も知らないから。ダリアの思い出と一緒に、しまっておきたい」
「……ダリア、か」
ノアがその名を知ったのは、ドラスを発つ前の夜だった。
⸻———
ーー1週間ほど前、
ドラスの事務所の奥。
いつもの埃っぽい部屋。
机の上には、
簡単な地図と航路図。
ノアは椅子に腰かけ、
それをぼんやり眺めていた。
「なあ、レイン」
ノアが口を開く。
「……俺、共和国のこと」
「正直、よく知らねえんだ」
苦笑しながら言う。
レインは、机に寄りかかったまま答えた。
「それでいい」
「知識は、向こうで増える」
淡々とした声。
「でも」
ノアは続ける。
「一緒に行くなら」
「さすがに目的くらいは知っときたい」
「なんで共和国なのか」
「なんで、あんたがそこまで強いのか」
一拍。
レインはしばらく黙っていた。
視線は地図の南端。
指先が、一点で止まる。
「私の故郷は」
「南の小さな街ダリアだった」
「ある日」
レインは続ける。
「ダリアは、消えた。」
「表向きは外界種の襲撃、ということになってるらしい。」
声は平坦だ。
感情を乗せない。
だが、それが逆に異常だった。
「でも、実際は違う」
レインは、はっきり言った。
「外界種“だけ”じゃない」
ノアは思わず背筋を伸ばす。
「……どういう意味だ?」
「外界種の襲撃に見せかけた、人為的な殺戮があった。」
レインの目が一瞬だけ鋭くなる。
「私は」
レインは、拳を軽く握る。
「目の前で全てを奪われた」
「友人、家族」
「居場所も」
「名前も」
淡々としている。
だが、逃げ道はない言葉だった。
「だから」
「真相を知りたい。」
「そしてあれに関わった人間が生きている限り…
私は止まれない。」
ノアは息を飲んだ。
レインからこれほど強い意志を感じたのは初めてだった。
(……復讐、か)
だが否定する言葉は出てこない。
「共和国には」
「MEKがある」
レインは、ここで初めて“組織名”を口にした。
「対外界危機管理機構」
「表向きは、国を守る英雄」
「でも実際は」
一拍。
「ダリアでの虐殺にも確実に関わっている。」
ノアは眉をひそめる。
「つまり?」
「真相に辿り着くならMEKを通るしかない」
「で」
「そのMEKに入るには、アカデミーに入るしかない、ってことか。」
「そう。いきなりMEKには入隊できない」
「身分も、実績も必要」
「だから私はエルディオ公立総合アカデミーに入って、“優等生”を演じる。」
ーーエルディオ公立総合アカデミー。
アウレリアの交易拠点、都市エルディオにある総合教育機関。
優秀なMEK隊員を多く排出した名門校。
「……なるほどな」
「だから学園か」
「強くても」
「いきなり暴れたら意味ねえってわけだ」
「そう」
レインは頷く。
「で」
ノアは少し間を置いて聞いた。
「……復讐、するつもりか?」
レインは否定しなかった。
目を逸らしもしない。
「する」
即答。
「奪った側が」
「“事故だった”で終わらせるなら」
「私は、終わらせない」
ノアは、
深く息を吐いた。
「……重てえな」
「逃げたくならねえ?」
「ならない」
「もう、戻る場所がないから」
ノアは少し黙ってから笑った。
「……まあ」
「今さらだな」
「共和国に密入国して」
「隣にあんたがいる時点で」
肩をすくめる。
「普通の人生は、もう無理だ」
レインはノアを見た。
「後悔するかもしれない」
「それでも来る?」
問いかけ。
ノアは迷わなかった。
「行く」
「この街にも退屈してたところだ。」
レインはほんの少しだけ頷いた。
「……分かった」
それ以上、何も言わない。
誓いも、約束もない。
ただ、同じ方向を見るだけ。
その夜、二人はそれ以上の言葉を交わさなかった。
だが――
ノアは理解した。
この旅は、ただの逃亡ではない。
⸻———
三月。
共和国の朝はまだ少し冷たい。
けれど市場には花が並び始め、学生服姿の若者が増え、街は「始まり」を前にそわそわしている。
アカデミーの編入時期だ。
レインはその“始まり”の一部として街を歩く。
少し地味な上着、動きやすい靴。派手でも貧相でもない服装。
鏡に映るレインは、どこにでもいそうな学生だった。
(……問題ない)
視線は集まる。それでも不自然じゃない。
ここでは目立つこと自体が異常ではないからだ。
⸻
ノアは別行動。
表向きの肩書きはアカデミーの用務員。
清掃、資材管理、雑務全般。
契約職員――だが学内を自由に歩ける立場。
港狼会のコネクションで共和国側の裏社会への接触も進めている。
表と裏。
レインは表から、ノアは裏から真相を追う。
役割分担は明確だった。
⸻
正門の前で立ち止まる。
エルディオ公立総合アカデミー。
白い外壁。整った中庭。掲げられた校章。
多様な学科を兼ね揃えた名門校。
ここが、MEKへの“入口”。
(……ようやく、来た)
今日受けるのは編入のための面接と適性確認。
年齢は十七、出身は共和国西部の農村、そして他校からの編入。
すべて綺麗に整えられた経歴。そして推薦状。
真気の扱いも“少し上手い程度”に抑える。
三流未満。
だが落とされるほどではない。
地下で積み上げた感覚は、ここではすべて過剰だ。
鐘の音が響く。始業を告げる音。
(……ここでは、私はただの学生)
英雄でも、復讐者でもない。
まだ――ただの編入生。
一度だけ息を整え、門をくぐった。
⸻
面接室は思ったより質素だった。
白い壁と黒板。簡素な机と椅子。
軍施設のような威圧感はない。
机の向こうに座るのは三人。
年配の男、三十代の女性、若い男。
――全員、真気使い。
「では、始めましょう。名前は?」
「レイン・カーネスです」
「年齢」
「十七歳です」
嘘だが問題はない。
書類上も真気の反応も矛盾はない。
「当校への編入理由は?」
私はにこやかに答える。
過去の自分を思い出しながら、優等生の言葉を選ぶ。
「以前の私は将来をぼんやりとしか考えていませんでした。ですが昨年、外界種と戦うMEK隊員の姿を目の当たりにしました」
「私の平穏は誰かの努力の上に成り立っている。そう実感して、私も誰かを守れる強さがほしいと思ったんです」
「そして、MEK隊員を目指すなら、ここが一番だと聞きました」
嘘ではない。だが真実でもない。
若い面接官が少し口角を上げる。
「いい志だね」
場の空気がわずかに緩む。
その後いくつか質疑が続いた。
———
「では、簡単な確認をする。真気を出してみなさい」
来た。
静かに息を吸う。
ほんの少しだけ。本当にほんの少しだけ、身体エネルギーを循環させる。
自然エネルギーは混ぜない。
魔気なんてもってのほかだ。
教科書通りの真気。
「……ふむ」
「安定してるわね」
「無駄が少ない」
誰も驚かない。
それでいい。
「三流未満。だが安定感があり、普通科出身にしては上出来。伸び代あり」
と、女性がメモを取る。
「では最後に。どんなMEK隊員になりたい?」
私は考える素振りを見せてから、笑顔で答えた。
「……人々の生活を守る縁の下の力持ち。そんな存在です」
模範解答。重すぎない理想論。
三人は短く視線を交わし、年配の男が頷いた。
「いいでしょう。面接は以上です。結果は追って連絡します」
立ち上がり、軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
完璧な学生の礼。
⸻
扉を出た瞬間、私は一瞬だけ目を伏せた。
(……普通の優等生)
それ以上でも、それ以下でもない。
今は――それでいい。
⸻
同じ頃。
別の区画で、ノアは雑巾を手に廊下を歩いていた。
アカデミー用務員・契約職員。初日の仮採用。
「……いや、マジで広いな」
独り言を漏らしながら、視線はよく動く。
掲示物、人の流れ、警備の配置。
(……こっちはこっちで、仕事だな)
裏の顔は、もう動き始めていた。
⸻
面接からしばらくして合否の連絡が来た。
合否通知は見るまでもなく合格だった。
そして四月の朝。
校門前には新しい制服を着た生徒たちが集まっていた。期待と不安と緊張が春の空気に混ざる。
レインは人混みから少し離れた場所に立つ。
制服はよくあるデザイン。髪も整え、目立ちすぎない。
――普通の学生。
(……入学。通過点)
それでも、胸の奥がわずかにざわついた。
理由は分からない。
校舎へ向かう流れに乗り、廊下へ入る。
教室の前に、人が集まっていた。笑い声、小さな会話。
扉のプレート。
《MEK科 三年 Cクラス》
嘘の名前。偽りの経歴。
その全部を纏って、真の目的へ近づいていく。
レインはドアノブに手をかけた。
――レインの二度目の学園生活が始まる。




