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出航

それから、しばらくの時間が流れた。


正確には――

三週間と、少し。


港湾都市ドラスは、相変わらず騒がしい。

夜明け前から荷が動き、日が沈んでも酒の匂いが消えない。


ただし。


レインにとっては、もう「慣れた街」だった。



「おいレイン、これで本当に全部か?」


港の倉庫前。

腕いっぱいに荷物を抱えたノアが、汗をかきながら声を上げる。


「身分証の控え」

「渡航許可の写し」

「服は……それで足りる」


レインは、荷の中身を一瞥して淡々と答えた。


「えー、マジ?」

「もっと要るかと思ったんだけどな」


「共和国に行くだけ」

「引っ越しじゃない」


「冷てぇなぁ」


そう言いながらも、ノアの動きに無駄はない。

この三週間で彼は完全に“付き人”の立ち回りを覚えていた。



最初の頃こそ、ノアはレインを見るたびに背筋を強張らせていた。


だが――

人間、慣れるものだ。


「なあ、船は明後日の夜で確定な」

「積み荷に紛れ込ませるから、表向きは“付き添い”扱いな」


「分かった」


「あとこれ、向こうで使える通貨な」

「換金レート悪いけど、ないよりマシだろ」


「十分」


やり取りは、もう事務的だった。


恐怖は、消えてはいない。

だが、それだけじゃなくなっていた。


(……こいつ)


(意外と義理堅いタイプなんだよな…)


ノアは、そう思っている。



この一ヶ月。


レインは、港狼会の“仕事”を手伝っていた。


ただし、表の護衛や用心棒ではない。


港狼会の目が届かない場所。

縄張りの隙間。

調子に乗って、ちょっかいをかけてくる他所の連中。


そういう連中を――

黙らせて回っていた。


消えた者もいる。

逃げ出した者もいる。


共通しているのは、二度とドラスで名前を聞かなくなったこと。


「どうせ時間かかるなら」

「やることないし」


レインは、ある日そう言った。


「全面的に協力してくれるんでしょ」

「なら、邪魔なものは片付ける」


淡々とした言葉。

善意でも、忠誠でもない。


貸し借りを嫌う。

だが、受けたものは返す。


港狼会の連中は、それを“義理”と受け取った。



「しかしさぁ……」


ノアが、荷を一つ持ち上げながら言う。


「普通、ここまでやったら居座ると思わね?」

「この街、割と居心地いいだろ?」


レインは、首を振った。


「興味ない」


「即答かよ」


「必要なものが揃ったら、行く」

「それだけ」


その言葉に、ノアは少しだけ笑った。


「……ブレねぇな、ほんと」


淡々と話すレインを見て、ノアはあの日の夜を思い出す。


⸻—


港狼会本部。


地面に膝をついたヴァロスを中心に、円を描くように人が固まっていた。


――誰も、動けない。


武器を持っている者もいる。

真気を使える者もいる。


だが、誰一人として、前に出ようとしなかった。

レインの魔気を目の前に、戦う意志を持つものは、もう誰ひとりとして残っていなかった。



レインは、ヴァロスの数歩手前で立ち止まった。


魔気は、まだ残っている。

全開ではないが、意図的に隠してもいない。


空気が、重い。

息を吸うだけで、胸がざらつく。

外界種と対峙した経験のある者ほど、直感的に理解していた。


――これは、人間の圧じゃない。



「……誤解しないで」


レインが、淡々と言った。


声は大きくない。

だが、はっきりと通る。


「私は、ここを乗っ取る気はない」


ざわり、と空気が揺れた。

部下の何人かが、思わず顔を上げる。


「支配もしない」

「組織を潰すつもりもない」


ヴァロスが、息を呑む。


 ――違うのか?


この力で、この街を奪わない理由があるのか?


「必要なのは、三つだけ」


レインは、指を折る。


「身分」

「資金」

「共和国へ行くためのルート」


「それが揃えば、私はここを出る」


一切の迷いがない。

条件交渉でも、脅しでもない。

事実の確認だった。


ヴァロスは、地面に視線を落としたまま、低く言う。


「……それだけか」


「それだけ」


即答。


「この街に興味はない」

「あなたの縄張りも」


レインは、少しだけ首を傾げた。


「……正直に言うと」


「管理とか、面倒」


その一言で、緊張がわずかに歪んだ。

拍子抜けしたような、だが否定できない空気。


ノアは、内心で思う。


(……ああ)


(この人、ほんとに)


(要らないものは、要らないんだ)


奪える力があっても奪わない。

支配できても、しない。

だからこそ、逆らうという発想が消える。


ヴァロスは、ゆっくりと顔を上げた。


その目には、もう怒りはない。

悔しさも、ほとんどない。


あるのは――

理解と、納得。


「……分かった」


声は、掠れている。

「用意しよう」

「戸籍、」

「金も」

「ルートもだ」


周囲が、どよめく。

それが、どれほどの手間とリスクか、この場にいる全員が分かっている。


「ただし」


ヴァロスが、続けた。


「時間は、もらう」


「構わない」


レインは、即座に返す。


「急いでない」

「その間、あなた達に邪魔な奴らがいるなら――」


一拍。


「……片付ける」


ざわっ、と背筋が凍る気配。

協力の宣言なのに、なぜか逃げ場がない。


ヴァロスは、短く笑った。

自嘲でも、嘲笑でもない。


「……あんた」


「本当に、厄介だな」


ヴァロスは、完全に理解した。


この女は――

上に立つ器じゃない。


だが、逆らうという選択肢が、最初から存在しない存在だ。



「誓う」


ヴァロスは、はっきりと言った。


「港狼会の名にかけて」

「約束は、必ず果たす」


部下たちも、無言で頷く。

誰一人、異を唱えない。



レインは、それを確認すると、ほんの少しだけ魔気を引いた。


空気が、軽くなる。

ようやく、呼吸ができる。


「……じゃあ」


踵を返しながら、言う。


「準備、お願い」


それだけ。


勝者の言葉でも、支配者の宣言でもない。

ただの、用件の締めだった。



レインが去ったあと。

誰かが、ようやく息を吐いた。


「……生きてる」


誰かが、そう呟く。

ヴァロスは、地面に座ったまま、空を見上げた。


(……拳で登った先に)


(……あんなのが、いるのか)


初めて、自分の世界の外側を知った夜だった。


————


アウレリア共和国に向かって、船がゆっくりと岸を離れた。


水面が揺れ、

ロープが解かれ、

港湾都市ドラスが、少しずつ遠ざかっていく。


喧騒はまだ聞こえる。

だが、それも次第に風に溶けていった。



甲板の上。


ノアは手すりに寄りかかりながら、街を振り返っていた。


見慣れた港。

見慣れた倉庫。

見慣れた空。


――もう、戻らない。


不思議と怖さはなかった。



ノアは、前を向く。


水平線の向こう。

これから向かう先。


アウレリア共和国。


聞いたことはある。

危ない国だとも。

面倒な国だとも。


でも――


隣を見る。

そこには、静かに立つレインの姿があった。



ノアは、ふっと息を吐いてから言った。


「……なあ」



「正直さ」

「これからどうなるか、全然わかんねえけど」


一拍。


ノアは、口角を上げる。


「――まあ、面白そうだよな」


そして、少し大げさに。


「さあ行こうか!!」



一瞬の沈黙。


レインはその言葉を聞いて、ほんの一瞬だけ目を細めた。


そして。


小さく、だが確かに。


――笑った。


それは、作り笑いでも、皮肉でもない。

気を張っていない、自然な笑み。

ほんの一瞬で、すぐに消えてしまったが。


ノアは、言葉を失った。


(……え)


(今の)


(……笑った?)


今まで見てきたのは、

冷静な顔。

無表情な顔。

殺すときの、あの顔。


だが――


(……普通に、笑ったぞ)


胸の奥が、少しだけざわつく。



レインは何事もなかったように前を向く。

海風が髪を揺らす。


「……行こう」


それだけ言って、一歩、船首へ進んだ。



船は、速度を上げる。

港が小さくなり、街が点になる。


ノアはその背中を見ながら思う。


この旅はただの逃避じゃない。

ただの通過点でもない。

何かが、確実に動き始めている。



海は広い。


世界は、まだ続いている。


そして――


物語は、

ここから動き出す。


挿絵(By みてみん)

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