路地裏の王ー後編ー
港狼会本部。
円を描くように人が集まり、中央に二人が立っていた。
一人は、この街の裏を束ねる男――ヴァロス。
もう一人は、外から来た女――レイン。
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ヴァロスは、静かに息を整えていた。
肩が上下する。
だが、乱れてはいない。
拳に嵌めたメリケンサックに、淡い光が宿る。
――真気。
纏うのではない。
循環させるでもない。
拳だけに、集めている。
⸻
次の瞬間。
地面を蹴る音が鳴った。
踏み込みは短く、鋭い。
無駄がない。
拳が、一直線にレインへ向かう。
――ドン。
鈍い衝撃音。
拳は、確かに腹部を捉えた。
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「入った……!」
誰かが声を上げる。
だが。
レインは、崩れない。
身体がわずかに揺れただけで、その場に立っている。
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ヴァロスは、すぐに理解した。
(……防がれた?)
否。
真気の膜は、ほとんど感じない。
防御としては薄すぎる。
(……いや)
(“ずらされた”か)
当たった。
だが、最大威力になる瞬間から、ほんの少しだけタイミングを外されている。
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追撃。
二発目。
三発目。
肩。
脇腹。
肋骨。
今度は、レインが半歩引く。
――避けた。
だが、完全ではない。
一発、掠る。
衝撃が走る。
だが、決定打にはならない。
真気が、瞬間的に体表を覆う。
厚くはない。
だが、十分だ。
⸻
「あの女、いつまで持つかな…」
「ヴァロス様、やっちまえ!」
歓声があがる。
確かに外から見た印象では、レインは押されている。
実際に後退している。
間合いも奪われている。
構図だけ見れば、ヴァロス優勢。
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ヴァロスは攻め続ける。
連打。
踏み込み。
体重を預ける。
拳に集めた真気が、衝撃を増幅させる。
路地裏で磨かれた、実戦用の殴り方。
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だが。
殴るたび、違和感が積み重なる。
(……浅くない)
(……軽くもない)
(……なのに)
壊れない。
骨が鳴らない。
呼吸も乱れない。
(……なんだ、こいつ)
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ノアは、息を呑んでいた。
(……押されてる)
(完全に、ヴァロスが優勢だ)
誰が見てもそうだ。
だが。
(……それなのに)
レインの足運びが、まったく崩れていない。
殴られているはずなのに、削られている感じがしない。
(……なんだ、この違和感は?)
何が起きているかは分からない。
だが、普通じゃない。
それだけは、はっきりしていた。
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戦いが始まってから数分が経過した。
相変わらずヴァロスの猛攻は続き、レインは防戦一方。
だが、変化は確実に起こっていた。
ヴァロスの呼吸が少しずつ重くなる。
拳に集めた真気が散り始めている。
(……長引かせるな)
(ここで、終わらせる)
ヴァロスは、一歩引いた。
そして。
真気を、一点に集める。
拳。
ただ一箇所。
全身の巡りを、無理やりそこへ流し込む。
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メリケンサックが、低く唸った。
空気が、張りつめる。
周囲が、無意識に息を止める。
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拳を突き出しながら、ヴァロスの脳裏に過去がよぎる。
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血の匂い。
狭い路地。
倒れているのは、昨日まで仲間だった男。
奪われる。
殴られる。
蹴られる。
弱い方が、悪い。
誰も助けない。
助ける理由がない。
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その日、ヴァロスは立ち上がった。
拳を握り、
歯を食いしばり、
ただ殴った。
真気なんて最初は知らなかった。
だが、生き残るために殴り続けた結果、自然と“巡る”ようになった。
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強ければ奪われない。
強ければ言葉はいらない。
強ければ誰も逆らわない。
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路地裏は、正直だ。
金も。
地位も。
理想も。
全部、拳で決まる。
だからヴァロスは信じている。
――暴力こそが、唯一の正義だと。
この街でそれを否定できる奴はいない。
少なくとも今までは。
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ヴァロスの咆哮と共に、拳がレインの目前に迫る。
全身の真気を一点に集めた渾身の一撃。
これで終わる。
終わらせる。
そう、信じていた。
しかしーー
――止まった。
ヴァロスの渾身の一撃は、レインの指一本で、完全に封じられていた。
拳は、確かに届いている。
真気も、乗っている。
全身の力も、込めた。
なのに――
進まない。
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ヴァロスの目が、見開かれる。
理解できない。
理解してはいけない。
これは、自分の世界ではありえない現象だ。
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レインは、首を傾げた。
「……もう終わり?」
拍子抜けした、心底どうでもよさそうな声。
レインの指が、離れた。
次の瞬間。
――衝撃。
レインの拳が、ほとんど動いたと認識できない速度で、ヴァロスの腹部に置かれた。
殴られた。
そう理解したのは、身体が空を飛んだ後だった。
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壁が砕ける音。
視界が跳ね、
床が迫り、
世界が回転する。
ヴァロスの身体は倉庫の壁に叩きつけられ、そのまま転がるように止まった。
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――息が、できない。
肺が縮み、空気を拒む。
腹部に走る理解を超えた衝撃。
(……っ、ぐ……)
反射的に、ヴァロスは自分の腹を見る。
――ある。
下半身は、まだついている。
(……生きてる)
(……殺されてない)
安堵と同時に、湧き上がる闘志。
(……まだだ)
(……立てる)
そう思った。
――思おうとした。
だが。
身体が、言うことを聞かない。
指が、動かない。
脚に、力が入らない。
真気を回そうにも、呼吸が整わない。
(……なんだ、今の)
(……一発、だぞ)
(……ありえない)
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周囲が、ざわめき始める。
「……吹っ飛んだ?」
「今の、一発だよな……?」
「ヴァロス様が……?」
だが、ヴァロスの心はまだ折れていない。
――暴力こそ正義。
ここで倒れるわけがない。
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その時。
足音が、近づいてきた。
一歩。
また一歩。
重い。
空気が、沈む。
⸻
レインが、歩いてくる。
その瞬間、ヴァロスは理解した。
これは、真気じゃない。
もっと冷たく、
もっと濃く、
生き物の奥を直接削るもの。
――魔気。
⸻
レイン、魔気の全解放。
空間が、歪む。
近くにいるだけで、吐き気が込み上げる。
頭が痛む。
理由もなく、逃げたい衝動が湧く。
近くにいた何人かは、その場にうずくまる。
⸻
ノアの喉が、鳴る。
(……これ)
(……あの日と同じだ)
事務所で初めてレインと向き合った夜。
触れられてもいないのに、心臓を掴まれたような感覚。
――あれだ。
今は比べ物にならないほど、濃い。
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レインはヴァロスの前で立ち止まった。
見下ろす視線に敵意はない。
侮蔑もない。
ただ、圧倒的な差だけがある。
⸻
ヴァロスの中で、何かが崩れた。
拳の強さじゃない。
技量の差でもない。
真気?いや違う。
――生物としての格。
自分は、この存在に殴りかかっていたのだと。
理解した瞬間。
心が、折れる音がした。
自分の中で何かが崩れ落ちるのが分かった。
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うずくまるヴァロスの前に立ち、レインは静かに言った。
「……で」
一拍。
「身分と、共和国へのルートは」
淡々と。
「いつ、手配できるの?」




