久しぶりの日常
朝の港町は、静かだった。
夜通し続いていた騒音が嘘のように引き、
代わりに聞こえるのは波の音と、遠くの荷下ろしの気配。
宿の一室。
レインは、ベッドの縁に腰掛けていた。
柔らかい布団。
軋まない床。
鍵のかかる扉。
一年前までは、当たり前だったもの。
今は、それだけで十分だった。
「……よく、眠れましたか?」
ノアが、恐る恐る声をかける。
「うん」
短い返事。
それでも、肯定だ。
テーブルの上には、革袋がひとつ。
報酬――十ゴールド。
レインはそれを手に取り、軽く振った。
澄んだ音。
「宿一泊、一ゴールド」
「食事付きで、ちょっといい部屋」
淡々とした声で言う。
「……数日は、困らない」
ノアは頷く。
だが、内心では思っていた。
(命懸けの仕事で、これだけか)
(……割に合わねえ)
レインは、ふっと口角を上げた。
「あなたのボス、言ってたよね」
「“お姉ちゃんなら月三百ゴールド稼げる”って」
ノアの肩が、びくっと揺れる。
レインは続ける。
「でもさ」
「こんな命張って、十ゴールドなのに」
「本当に“お話しするだけ”で三百も稼げるわけないよね」
ノアは、観念したように息を吐いた。
「……否定は、できません」
「この街じゃ……珍しくないです」
「そう」
「ふうん」
レインは、特に感情を乗せずに言う。
「別に、怒ってない」
ノアが、思わず顔を上げる。
「……え?」
「結果的に、今ここにいるし」
「服も、金も、情報も手に入った」
革袋を、テーブルに置く。
(……今日も、生きてる)
ノアは、胸の奥で静かに安堵した。
⸻
昼前。
二人は港の通りを歩いていた。
露天商の呼び声。
魚と香辛料の匂い。
行き交う労働者たち。
レインは、必要なものだけを選ぶ。
冬物の服。
動きやすく、目立たない色。
派手さはない。
だが、港町では浮かない。
最後に立ち寄ったのは、簡素な理髪店だった。
「……切りますか?」
店主が、ちらりとノアを見る。
「はい」
レインは即答した。
長く伸びた髪を、整えるだけ。
切りすぎない。
目立たせない。
数十分後。
椅子から降りたレインを見て、
ノアは――一瞬、言葉を失った。
整えられた髪。
首筋がはっきり見える長さ。
清潔な服装。
港の雑踏の中でも、妙に輪郭が際立って見える。
(……っ)
心臓が、わずかに跳ねる。
綺麗だ、と。
そう思ってしまう。
だが、次の瞬間。
昨夜の光景が、脳裏を叩いた。
飛び散る血、容赦なく振るわれる異形の刃。
(……違う)
(この女は、悪魔だ)
ノアは、慌てて視線を逸らした。
「……よく、お似合いです」
敬語だけが、なんとか出た。
「ありがとう」
レインは、あっさり返す。
それが、余計に現実感を失わせた。
⸻
昼食は、港沿いの食堂だった。
温かいスープ。
焼いたパン。
魚の煮込み。
湯気が、立ち上る。
レインは、一口食べて、少しだけ目を細めた。
「……美味しい」
それだけで、ノアはなぜか胸が詰まった。
(一年ぶり、って言ってたな……)
しばらく、無言で食べる。
やがて、ノアが意を決したように口を開く。
「……あの」
「この街の名前、知らなかったって……」
「本当なんですか?」
「うん」
「じゃあ……どこから?」
レインは、スプーンを置く。
「山の向こう」
それだけ。
「……どうやって、生きてきたんですか?」
一瞬、沈黙。
レインは、特に表情を変えずに言った。
「ただその時必要なことをしてきただけ」
ノアは、それ以上聞けなかった。
「……共和国に行きたい理由も」
「聞かない方が、いいですか?」
「うん」
即答。
「まだ」
その一言に、ノアは頷いた。
「……分かりました」
それ以上、踏み込まない。
それが、今の最善だと理解したから。
⸻
食事を終え、レインは窓の外を見ながら思う。
(十ゴールド)
(安いけど)
(ここから、始めよう)
港町ドラスの昼は、何事もなかったように流れていった。
————
港狼会の本部は、港から少し離れた丘の裏側にあった。
表向きは倉庫。
中身は――街の裏そのもの。
昼間でも、窓は少ない。
光は入らない。
⸻
報告に来たのは、二人。
昨夜、倉庫で“試験”を見ていた男たちだった。
どちらも、表情は抑えている。
だが、完全には隠しきれていない。
奥の席。
肘掛け椅子に、男が座っていた。
ヴァロス。
港狼会の“頭”。
路地裏の王。
大柄な体躯。
無駄のない筋肉。
粗野な見た目だが、目だけは鋭い。
武器は置いていない。
必要ないからだ。
「……で」
低い声。
「どうだった」
年配の男が、一歩前に出る。
「例の物の輸送は無事に終わりました。」
「共和国からの妨害が予想されており、ダミーを用意しました。本物は別ルートで今朝、輸送しました。」
「ダミーの方には予想通り、妨害が入りました。五人の手練れが現れました。」
「前回お話しした例の女を護衛につけておりました。厄介者の処理、程度に考えていましたが……」
淡々と、事実だけを並べる。
「……全滅です」
ヴァロスは、眉一つ動かさない。
「十秒もかかっていません」
一拍。
「……ほう」
そこで初めて、少しだけ興味の色が滲む。
⸻
若い男が続ける。
「銃二人、近接三人」
「銃は、動く前に消えました」
「距離は……詰められたというより」
言葉を探す。
「……消えた、という方が近いです」
ヴァロスは、短く笑った。
「便利な言い方だな」
「事実です」
若い男は、目を逸らさない。
「正面のリーダー格の男も決して弱くありませんでしたが」
「槍を出した瞬間に、喉を断たれました」
「剣の2人は……」
言い切る。
「抵抗になっていません」
⸻
ヴァロスは、椅子の背に身体を預ける。
天井を見上げるようにして、息を吐いた。
「……女、だったな」
「はい」
「若いか」
「見た目は、二十前後」
口元が歪む。
「で?」
「恐れている様子は?」
「ありません」
「楽しんでたか?」
一瞬、間が空く。
年配の男が、首を横に振った。
「……無感情です」
「仕事、という感じでした」
「ほう」
その言葉に、ヴァロスは完全に興味を持った。
⸻
「使えそうか?」
問いは、短い。
年配の男は、少しだけ考えてから答えた。
「……使う、というより」
「扱いを間違えれば、危険です」
「ほう」
「短期で金と身分を欲しがっています」
「居座る気はない、と」
ヴァロスは、鼻で笑った。
「信用できるか?」
「分かりません」
「だが」
若い男が続ける。
「嘘は、ついていないと思います」
ヴァロスは、指で肘掛けを叩く。
コツ、コツ、と。
「……面白い」
低く、楽しげな声。
「久しぶりだな」
「この街に、風が吹くのは」
二人は、何も言わない。
余計な相槌は、不要だ。
⸻
「会ってみるか」
ヴァロスは、そう言った。
「すぐじゃなくていい」
「だが、放っておく気もない」
視線が鋭くなる。
「――逃げられる前に、な」
その一言で、空気が完全に決まった。
⸻
港狼会は、動く。
表向きは、何も変わらない。
だが、水面下では。
確実に。
レインという異物へ、視線が集まり始めていた。




