初めての仕事ー前編ー
港湾都市ドラス、旧倉庫街。
潮と油の匂いが染みついた一角に、人目につかない倉庫がある。
表向きは、使われなくなった積荷置き場。
だが――
この街の裏を知る者なら、近づかない場所だ。
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倉庫の中央に、男が跪いていた。
両膝を床につき、両手は後ろで縛られている。
顔は蒼白。
汗が、顎から床へ落ちている。
「……ま、待ってください」
声が、震える。
「誤解です……!」
「金は……その……一時的に……!」
言い訳は、途中で途切れた。
目の前に立つ男が、一歩、前に出たからだ。
⸻
男の名はヴァロス。
港狼会の中で、その名を知らない者はいない。
190cmを超える背丈に、筋骨隆々の身体。
丸刈りの頭に刻まれた刺青は、尋常じゃない威圧感を醸し出す。
ただ、立っているだけで、空気が張りつめる。
「……三か月」
低い声。
「上納金が、足りない」
男は、必死に首を振る。
「ち、違います……!」
「客が飛んだんだ…来月は必ず…!」
「港狼会の名を使った」
ヴァロスは、淡々と続ける。
「その上で」
「金を、抜いた」
一拍。
「そうだな?」
跪く男は、何も言えなかった。
否定すれば、嘘になる。
認めれば、終わる。
どちらを選んでも、結果は同じだった。
⸻
ヴァロスは、視線を横に向けた。
倉庫の壁際。
そこには、同じ組織の人間が数人立っている。
誰も、口を出さない。
助け舟もない。
これは――
“見せるため”の場だ。
「規則は、簡単だ」
ヴァロスが言う。
「港狼会の名を使うなら」
「港狼会に、金を出す」
「できないなら」
「名を使うな」
男の喉が、鳴った。
「……ヴァロスさん……」
縋るような声。
「一度だけ……」
「一度だけ、許して……!」
その瞬間。
ヴァロスは、男の前に屈んだ。
視線の高さを合わせる。
それが、最後だった。
⸻
「一度、許した」
静かな声。
「だから、三か月だ」
次の瞬間。
衝撃音と共に男の身体が、床に倒れた。
何が起きたのか、周囲の誰にも分からない。
叫びもない。
ただ――
男は、動かなくなっていた。
⸻
ヴァロスは、立ち上がる。
手を汚した様子もない。
服も、乱れていない。
「処理しろ」
それだけ。
部下たちが、無言で動く。
遺体は、引きずられていく。
倉庫の外へ。
痕跡は、残さない。
⸻
ヴァロスはその様子を一瞥したあと、倉庫の出口へ向かった。
歩きながら、隣にいた部下が控えめに言う。
「……最近、変な話が増えてます」
「女が一人で、スラムのあの事務所を制圧したとか」
ヴァロスは、足を止めない。
「……ほう」
興味があるのか、ないのかも分からない声。
「本当かどうかは……」
「確認中です」
一瞬、沈黙。
ヴァロスは、倉庫の外に出る。
潮風が、コートを揺らす。
「確認が取れたら、持ってこい」
それだけ言った。
感情はない。
期待もない。
ただ、“次に処理すべき案件”として。
倉庫の中には、重たい沈黙だけが残った。
誰も、男の名を口にしない。
それが――
港狼会だった。
————
港狼会の人間が去ったあと。
宿の一室には、しばらく誰も口を開かない時間が流れていた。
沈黙に耐えきれなくなったのは、ノアの方だった。
「……なあ」
喉が、まだ乾いている。
「さっきの人たち……」
レインは、椅子に腰掛けたまま、湯呑みを手にしている。
「港狼会」
短く言った。
「そっちの“上”」
「……はい」
ノアは頷く。
この街で生きてきた以上、誤魔化す意味はない。
「ドラスの裏を仕切ってる組織です」
「港湾関係、闇金、風俗、用心棒、密輸……」
「全部、あそこに繋がってる」
言いながら、ノアは自分の手のひらを見つめた。
(俺、なんでこんな説明してんだ……)
(殺されてもおかしくないのに……)
だが、口は止まらない。
「……で」
レインが言う。
「さっきの二人」
「偉いの?」
「港狼会の幹部です」
ノアは即答した。
「現場をまとめる側」
「……だけど本物は、別にいる」
その一言で、レインの視線が、わずかに鋭くなる。
「それが?」
ノアは、息を吸った。
「ヴァロスです」
⸻
その名を口にした瞬間、ノアの背中に、嫌な汗が滲む。
「港狼会のヘッド」
「通称、路地裏の王」
そう言ってから、自分で喉を鳴らした。
「……この街で、絶対に逆らっちゃいけない人間です」
「金を持ってるとか、肩書きがあるとかじゃない」
「“強い”んです」
レインは、黙って聞いている。
急かさない。
相槌も打たない。
だからこそ、ノアは続けてしまう。
「ヴァロスは、命令するだけのボスじゃない」
「現場に出る」
「自分で殴るし、殺す」
「港狼会が“組織”でいられるのは、あいつが頂点に立ってるからです」
⸻
「路地裏の王、って二つ名は」
「理由があって」
ノアは、遠くを見るような目になる。
「港でも、倉庫でも、路地でも」
「逃げ場になる場所が、全部“あいつの庭”」
「人数差とか、武器とか」
「意味がない」
「気づいた時には、終わってる」
そこで、ふと我に返る。
ノアは、レインを見る。
「……正直」
「レインさんと、似た匂いがします」
言ってしまった、と内心で思う。
だが、もう遅い。
レインは、少しだけ首を傾げた。
「匂い?」
「ああ」
ノアは、乾いた笑いを浮かべる。
「“強い”ってより」
「“慣れてる”感じ」
「生き残るために、やることをやってきた人間の……」
「それ」
レインは、短く頷いた。
「なるほどね」
⸻
しばらくの沈黙。
レインは、湯呑みを置いた。
「じゃあ」
ノアを見る。
「さっきの人たちが言ってた“試す”って」
「たぶん……」
ノアは唾を飲み込む。
「あなたが港狼会にとって、使える人間かどうかの確認です」
「断ったら?」
「……面倒なことになります」
ノアは、正直に言った。
「受けても」
「面倒なことになりますけど」
レインは、少しだけ口元を緩めた。
笑いとも、違う。
「選択肢はないってことね」
「……はい」
レインは、少し考える。
視線が、窓の外へ向く。
港の方から、人の声と荷の音が聞こえる。
「……分かった」
あっさりした返事。
ノアは、思わず目を見開いた。
「受ける、って……?」
「そ」
レインは、肩をすくめる。
「条件は変わんない」
「金と、身分」
「共和国への道」
「それが揃うなら」
視線が、ノアに戻る。
「“路地裏の王”でも」
「会ってみる」
ノアは、苦笑した。
「……普通、そんなこと言えませんよ」
「普通じゃないし」
即答。
ノアは、もう笑うしかなかった。
———
翌日に来た港狼会からの連絡は、思ったよりも淡白だった。
事務所からやってきたノアは、顔色は悪いが、切羽詰まってはいない。
「……向こうから、条件が出てきました」
レインは椅子に腰掛けたまま、視線だけ向ける。
「今夜」
「港の外れ」
「試験、だそうです。」
その言葉に、レインは小さく頷いた。
「やっぱりね」
⸻
「内容は、単純です。」
ノアは紙切れを一枚取り出す。
「港に入る前の“裏荷”が一つある」
「表に出ると、ちょっと困るやつ」
「それを――」
「問題が起きる前に、処理する」
レインは、即座に理解した。
「騒ぎは起こすな」
「痕跡も残すな」
「港の仕事に影響を出すな」
「……そういうこと」
ノアは、少しだけ驚いた顔をする。
「ご明察です」
⸻
「成功すれば」
ノアは続ける。
「何回か、仕事が回ってきます。」
「それをこなせば望みのものは用意されるでしょう」
レインは、ようやく少し興味を示した。
「共和国へのルートはあるの?」
「はい」
「正式なルートじゃない」
「でも、“消えた人間”を作る方法はある」
それは、今のレインにとって十分だった。
⸻
レインは、布に包まれた“杖”に手を伸ばす。
包みの上から、軽く指をかけるだけ。
「条件は、分かった」
「行く」
彼女の声には、期待も、野心もない。
ただ、
“必要だからやる”という色だけがあった。
⸻
レインは、外へ出る。
港の夜は、相変わらず騒がしい。
人も、物も、金も動く。
その裏で、小さな試験が行われようとしていた。
彼女にとっては――
ただの通過点。
それ以上でも、それ以下でもない。




