何もない日
その日、私は確信していた。
――故郷は、もう助からない。
低く、腹の底に響くような衝撃が走り、床が揺れた。直後、遠くの空が赤く染まり、爆音が遅れて届く。
「……え?」
胸の奥が、嫌な感覚で満たされていく。
警報が鳴り始めた。
――外界種の襲撃。
誰もがそう思う状況だった。
私も、そのときは疑わなかった。
この国で、街が滅びる理由は一つしかない。
どこからともなく現れる、人の理を外れた存在による侵攻だ。
だからこそ私たちは信じていた。
彼らが来るまで耐えればいいと。
対外界危機管理機構、通称MEKが、必ず守ってくれると。
けれど――
この夜、私の信じていた「当たり前」は、音を立てて崩れ去る。
⸻
――それより少し前のことだ。
まだ、ユリスが笑っていた頃。
まだ、この街が壊れていなかった頃の話。
———
私たちの住む国、アウレリア共和国は、外界種の多い国だ。
外界種――魔気を宿した、人の理から外れた存在。かつては人類にとって、抗いようのない災厄だった。
だが今は違う。
人類は真気を扱える。
真気は、人間なら誰もが微かに持つ内的エネルギーだ。意識せずとも、日常生活の中で使われている。
力仕事をするとき。
集中するとき。
無意識のうちに身体能力を底上げしている。
そして、訓練によって真気を高精度に運用できるようになった者は、外界種と戦える。
その役割を担うのが、
対外界危機管理機構――MEK。
共和国直轄の公的機関。
外界種への対処を専門とし、全国に支部を持つ。
巡回するMEK隊員の姿は日常風景の一部であり、
人々は平穏な日々が当たり前になっていた。
――守られている、という意識すらないほどに。
物語はアウレリア共和国の南部の地方都市、ダリアで始まる。
⸻
「今日の模擬戦、見た?」
「ユリスのやつ?
あれ、もう訓練生レベル超えてるだろ」
「教官が本気で褒めてたぞ!
あいつは絶頂の境地にいつか必ず到達するって」
朝の校舎。
そんな声が自然と集まる。
話題の中心にいるのは、ユリスだった。
端正な顔立ちに、陽気な性格。ユリスの周りには自然と人が集まる。
「やめろって。たまたまだよ」
照れたように笑いながらも、歩き方には余裕がある。
真気量、そして制御の精度。
反応速度。
判断の早さ。
MEK志望コースの中でも、彼は明確に頭ひとつ抜けていた。
真気運用には段階が存在し、長い鍛錬を積んだ者は三流の境地に達する。これがMEK隊員になる最低条件だ。
多くの隊員は一流を目指し二流でキャリアを終える。
しかし才能に恵まれた一握りの者は、一流を超えた”絶頂の境地”に至る。
ユリスは学生の時点で、すでに二流の境地に至っていた。
「……たまたま、ね」
隣を歩くカイルが、呆れたように言う。
「俺なんて昨日の訓練でまた教官に怒られたぞ」
「でも基礎は安定してるって言われてたじゃん」
「それ、彼女に聞かれたら調子乗るから黙っとけ」
「もう乗ってると思う」
二人のやり取りに、後ろから声が飛ぶ。
「カイル先輩ー!」
振り向くと、同じ学園の女子生徒が手を振っていた。
カイルの彼女だ。美しい黒髪が特徴的な、一つ下の学年の人気者だ。
「今日、帰り一緒に帰れる?」
「ああ、うん。
少し遅くなるけど」
「了解!」
元気よく去っていく背中を見送りながら、ユリスが笑う。
「いいよな、お前は」
「何がだ」
「支えてくれる人がいるの」
「……お前だって」
言いかけて、言葉を切る。
その視線の先にいたのが――
「おはよう、二人とも」
朝の光を受けて立っている少女は、整いすぎるほど整った容姿をしていた。
長い髪、澄んだ瞳、自然体の笑顔。
――レイン。
学園の誰もが知る存在であり、同時に誰もが距離を測りかねる存在。
「おはよう、レイン」
自然に声の調子が変わるのを、ユリス自身が一番自覚していた。
「今日は早いね」
「うん。天気がよかったから」
他愛ない会話。
けれど周囲の空気が、ほんの少しだけ変わる。
「……もう夫婦みたいじゃん」
「カイル、聞こえてる」
小声のつもりの囁きに、レインが笑う。
「仲いいだけだよ」
その言葉に、ユリスはなぜか少し胸が痛んだ。
レインは、完璧だった。
成績優秀。
運動万能。
そして――誰が見ても分かるほど美しい。
分け隔てなく優しい彼女に心を奪われた男は数え切れない。
――“ああ、あの三人か”。
そんな、完成された認識。
「レインってさ、ほんと不公平だよね」
教室で、女子生徒が冗談めかして言う。
「勉強も運動もできて、性格もいいとか」
「もう嫉妬する気にもならない」
「分かる。」
「やめてよ、持ち上げすぎ」
レインは困ったように笑った。
彼女は、自分が特別だとは思っていない。
それが、さらに特別だった。
⸻
午前の授業は、真気基礎運用。
普通科にとっては、生活の延長線上にある科目だ。
MEK志望コースとは違い、戦闘的な運用までは踏み込まない。義務教育の範疇に真気運用が存在することがこそが、アウレリア共和国を大国に成長させた理由の一つである。
「呼吸を整えろ。
真気は“感じる”ものだ。無理に動かすな」
教官の声に従い、全員が目を閉じる。
ユリスはすぐに集中状態に入った。
体内の流れが、はっきりと分かる。
――やっぱり、調子いい。
ちらりと隣を見る。
レインは、穏やかな表情のままだった。
力んでいる様子もない。
なのに、微動だにしない。
(……安定しすぎだろ)
訓練生である自分より、よほど自然だった。
「レイン、すごいな……」
休憩時間に声をかけると、彼女は首を傾げた。
「そうかな?
言われた通りにしてるだけだよ」
「それができない人が大半なんだけどな……」
カイルが苦笑する。
「まあ、レインは一般人枠だからな。
隊員基準には全然届いてないし」
「ちょっと、言い方」
「事実だろ」
レインは気にした様子もなく、笑った。
「うん。私は戦えるような人じゃないから」
その言葉を、ユリスはなぜか否定したくなった。
————
放課後。
校門前で、何人かの同級生と別れる。
「じゃあな、ユリス。明日も朝練だろ?」
「ほどほどにな」
「レイン、また明日!」
「うん、またね」
夕暮れの空は、淡い橙色に染まっていた。
ユリスとレインは、並んで歩き出す。
この道を一緒に帰るのは、いつものことだ。
「今日も騒がしかったね」
「俺のせい?」
「半分くらい」
軽く笑い合う。
家が近い。
だから、自然と帰り道も一緒になる。
しばらく沈黙が続いたあと、ユリスが口を開いた。
「……なあ、レイン」
「なに?」
「来年の進路、どうする?クラスの奴らは女優になるんじゃないかって言ってたぞ」
唐突だけど、避けて通れない話題。軽い冗談を交えて。
レインは笑いながら答える。
「そんなわけないでしょ。普通に進学かな。
このまま一般コースで」
「そっか」
「ユリスは、MEKだよね」
「ああ」
即答だった。
「迷ってない?」
「全然」
その言い切り方に、レインは微笑む。
「ユリスらしい」
「そうかな」
「うん。
ちゃんと前見てる」
ユリスは、少しだけ歩く速度を落とした。
「……レインはさ」
「うん?」
「危ないこと、嫌いだよな」
「嫌いだよ。私は普通に働いて、大きい犬と子供2人、そんな幸せなそうな家庭を築くことが目標だから。」
「だよな」
それでも、彼は言葉を続ける。
「俺、たぶん……
向いてるからMEKをやるんじゃない」
「……」
「やらなきゃって思うから、やる。それこそレインの平穏な日常を守るためにもな」
レインは、足を止め笑いながら応えた。
「ありがと、応援してる。怪我しない範囲で頑張ってね」
「……善処する」
曖昧な返事に、レインは苦笑した。
家が見えてくる。
分かれ道。
「じゃあ、ここで」
「うん」
一瞬、言葉が途切れる。
レインが、少しだけ視線を伏せてから言った。
「来週も……
一緒に帰ろうね」
「当たり前だろ」
ユリスは、照れ隠しのように笑った。
「また明日」
「またね、ユリス」
そう言って、二人は別々の道へ進む。
それが、
最後の別れになるとも知らずに。
⸻
夜。
何もない1日が終わりを迎える中、まどろみが本のページをめくる指を遅らせる。
冬の夜の静寂が、遠くの風の音を届ける。
「……そろそろ寝ようかな」
その瞬間。
――ズン。
低く、重い衝撃。
床が震える。
「……え?」
次の瞬間、
遠くの空が赤く染まり、爆音が遅れて届いた。
警報が鳴り始める。
胸の奥が、嫌な感覚で満たされる。
しかし誰も、まだ知らない。
さっき交わした「またね」が、
どれほど残酷な言葉になるのかを。
そしてこの夜が、
彼女から平穏を望む権利を奪うことを。
そして――
彼女を待ち受ける壮絶な運命の螺旋を。




