君と結婚したいと思った気持ちは、決して嘘じゃない
「あのとき、君と結婚したいと思った気持ちは、決して嘘じゃない。幸せにしたいって言ったことも。ただ……わかるだろう?」
貧乏揺すりをしながら婚約者からそう言われ、なにもわからないままあたしは婚約破棄された。18歳の夏。小雨が降る日の喫茶店。
婚約者から『元』婚約者になった男性は、会計代にしてはちょっと多いお札を2枚そこに置いて、そそくさと出て行った。他の女性と幸せになるため。運命の出会いを確実にするため。あたしとは運命じゃなかったんだなって、コーヒーが冷めたあたりでぼんやり思った。
――そっかー。あたしは、彼と彼女を惹き会わせるためのお飾りだったんだ。
彼の口から出てきた名前が、あたしの長い友人のものだったときに、心でそうつぶやいた。先日の顔合わせのときに、ひとめぼれですって。わかったのはそのことだけ。
雨が止んで晴れて、窓の外が明るくなった。虹もかかっている。
運命の二人の門出を祝うみたいに。
あたしという障害を片付けて。
泣きたい気持ちも自覚できなくて、コーヒーを飲まないままあたしは会計をした。
「――シャーロット! 待って、シャーロット!」
水たまりを飛び越えながら、あてもなく路を歩いていた。プオン、ていう自動車の警笛が響いて、水たまりがはねて、あたしを呼ぶ声が近づいてくる。
――やだなあ。振り返りたくないなあ。
この声が、誰だかすぐにわかったから。
「シャーロット!」
すぐ隣りに声がやって来た。あたしは水たまりを見たまま、少し水を蹴飛ばして「ハロー、ヒュー」と言った。
「……ニールのヤツに、聞いて」
「うん。別れた」
「だって、結婚するって」
「運命の出会いなんだって」
あたしはもうひとつ、水たまりを飛び越える。顔なんか上げない。虹が見えちゃうから。
ヒューは、大きな歩幅であたしに着いてくる。プオンてまた、通り過ぎる自動車が鳴く。
あたしは泣けない。
空が晴れてるから。
「……シャーロット、どこかでちょっと話をしないか」
「今してるじゃない」
「そうじゃなくて……ああ、クソッ、なんて言えばいいのかな。君に提案がある」
「なに?」
「僕と結婚しないか」
プオン。自動車が去ってから、あたしは振り向いた。
そこに立っているのは、ちょっと痩せぎすで、背が高くて、人の好い表情をした黒いモジャモジャ頭の男性。あたしの元婚約者の、職場の友人。
じっと見てから、あたしは言った。
「それで? あたしの次はジェニー? それともレベッカ?」
あたしは、お飾りなんかじゃない。
結婚するから、職業訓練校の卒業後、職業婦人として生計を立てて行く計画は諦めた。家庭に入って立派に家を守ってほしいって、何度も言われたから。
会計士の資格試験も受けなかった。そんなの必要ないって言われたから。
そこまでしなくていいって思っていたけれど、市内で一番有名なブティックに、結婚式で着るドレスの相談にだって行った。ぜったいにその店がいいって言われたから。デザインを決めて、採寸して、仮縫いだって始まっている。
どうするのかな。前金も払ってしまったけれど。あたしの貯蓄で。
ヒューから何度もメッセージカードが届く。ちゃんと話したいって。卒業式が間近で、忙しいんですってあたしは返した。メッセンジャーの男の子はいつも同じ青い帽子をかぶっていて、その帽子が窓から見えた瞬間にお返事を書く。受け取る男の子は訳知り顔で走って行く。
今日の男の子は、茶色い帽子の子だった。
「すぐに返事をくださいとのことです」
そう言って差し出して来たのは、元婚約者の名前が入った封筒。
『親愛なるシャーロット。
お願いがあるんだ。ビアンカ・ローズ・マリアでのドレス仕立ての権利を、譲ってくれないかな?
僕と彼女でお願いに行ったのだけれど、予定がいっぱいだと断られてしまってね。
君は、もうドレスは必要ないだろう? よかったら、現在作りかけのものをそのまま譲ってくれてもいい。
もちろん、仕立て代はこちらで出すよ。連絡を待っている。』
手紙には、前金の半分くらいのお札が入っていた。あたしはそれをキレイな封筒に入れ替えて、ひとこと『お断りします。』って書いたカードといっしょに封をした。
茶色い帽子を窓から見送ったら、青い帽子が走ってくるのが見えたの。
あたしはカードを用意して『わかりました。結婚しましょう。来月なんていかが?』って書いたのよ。
ヒュー本人がやって来た。
「ありがとう、あの、ありがとうシャーロット、あの。本当にうれしくて、どうしたらいいかわからなくて、あの、来てしまってごめん。でも会いたくて」
玄関のドアは少し開けたまま。一人暮らし女性のマンションの部屋だから。
彼は裏返った声でありがとうって繰り返して、勧めた椅子にも座らないで、部屋の端に立ったまま。
「ヒュー、来月のご予定は?」
「いつでも……いつでも! いつでも!」
「じゃあ、ドレスの仕立て上がりの次の日に、式をしましょうか」
「もちろん!」
お仕事はだいじょうぶなのかしら。心配になってしまったわ。
ところでその直後に、元婚約者がやって来た。少しだけ開けたままの玄関ドアをノックもなしに開けて入ってきて、そして開口一番言う。
「――シャーロット、卑屈になって僕たちへの嫌がらせはよしてくれ。そんな醜い心の持ち主だったなんて幻滅だ。あらためて思ったよ、本当に別れて良――ヒューじゃないか」
「ああ、よかったよニール。最後まで言わないでくれて。もう少しで親友だった君を殴るところだった」
「……ああ、そういうことか」
元婚約者は、立ったままのヒューと、座っているあたしを見比べて、心底蔑むように言った。
「君たちは、最初からデキていたんだな? 僕が君と交際していた間も?」
「違う」
「あなたといっしょにしないで」
「どうだか。現にこうやっていっしょにいるじゃないか。それに、ヒューは前からシャーロットのことが好きだったんだ」
「え?」
あたしはヒューを見た。ヒューは「あとで説明する」と口早に言った。
「それで? 僕の気持ちを弄んだ上に、今度は嫌がらせかい? シャーロット、君はどこまで醜悪になれるんだ」
「ニール、歯を食いしばれ!」
言い放って、ヒューは拳を元婚約者の右頬に打ち込んだ。細い体からよくそんな力だ出たもんだ、と思うくらい。元婚約者は玄関先に転がって、うめいた。
「ヒュー、やめて!」
「こいつは、君を愚弄した!」
「それでもだめよ。こんな人、殴る価値もないわ」
元婚約者は起き上がって、ヒューを、次にあたしを睨みつける。あたしは立ち上がって向かい合った。そして、告げる。
「あなたたちが、ビアンカ・ローズ・マリアから断られたのは、あたしのドレス仕立てのためではありません」
「は、じゃあなんだって言うんだ」
「あのブティックの指針をご存じでしょう?」
あたしは店名の由来にもなったと多くの人が知る『白く、気高く、美しく』という標語を口にした。
「あなたたちは、そのお店の指針にふさわしくないとみなされたんです。オーナーから手紙をいただきました。あなたが、新しい婚約者を伴って現れたと。それはとんでもないことだ、と」
元婚約者は目を見開いてあたしを見た。
何回も読んで溜飲を下げた文面を、あたしはそらで述べる。
「『結婚を約束し、ドレスを仕立てている最中の女性がいながら不貞を働く男性も、その不貞相手も、当店の経営理念と通念的にあり得ません。ビアンカ・ローズ・マリアでは、あちらのお二人のご依頼をいただくことは今後も一切ございません』」
そのうえで、あたしのドレスの仕上げを無期限で延期してくれるとのこと。がんばって体型を維持しなければと思っていたところだった。
元婚約者はチッと舌打ちをして「ああ、そうですか。せいぜい身の丈に合わないドレスでも着ろよ」と捨てセリフを吐いて身を翻す。
「身の丈に合わないのはあなたでしょう。さっき同封してあったお金」
「なんだよ、本当に嫌味臭い女だな」
「あたしが払ったあのブティックの前金の半分もなかったわ。それでどうやって仕立てるつもりだったの?」
とんでもなく大きな音を立ててドアを閉めて、元婚約者は去って行った。ヒューが労るようにドアをなでて、少しだけ開けた。
「それで、ヒュー。説明してちょうだい」
「……なにをだい?」
「あなたが、前からあたしを好きだったってこと」
聞き出すのはちょっと工夫と時間が必要だった。その日はしどろもどろになったヒューが「ビアンカ・ローズ・マリアのオーナーに君との結婚のお許しをもらいに行く」とかいうこじつけの理由で逃げて行った。
今度はあたしから青い帽子の男の子にカードを渡す番だった。いつ話してくださるのって書いて。男の子は訳知り顔で何往復もした。
結局話を聞けたのは、職業訓練校の卒業式が終わった後。ドレスの仮縫いが済んだので試着に行ったとき、オーナーから「あちらの方は、だいじょうぶですわよ。女の為に変われる男は、イイ男です」って耳打ちされた日だった。
ヒューは、本当にオーナーへお許しを乞いに行って、そのときに「身だしなみを整えるお気持ちはございますか?」って言われたのだとか。
モジャモジャの黒髪はいつのまにかすっきりと毛量が抑えられて、おでこを出したから蒼くてキレイな瞳がはっきりと見えるようになった。
それに、着られている様子だった三つ揃えのスーツはどれもサイズを調整して、ひょろひょろしている印象もなくなった。ステキだと思う。
なんだか、かえるが王子様になったみたいよ。
とてもびっくりした。
「……君が、職業訓練校で、良い成績を取っていたことを、知っていたんだ」
「まあ、あなた、あの学校に伝手があるの?」
「ちょっとね。職場で、新しく会計士を雇いたいって話があって。卒業したての女性なら、物覚えもいいだろうし、長く勤めてくれそうだって」
それで、学校から会計士資格試験を受ける予定の生徒の推薦情報をもらっていたのだとか。上司から実際に見てこいって言われて、授業の様子を見学して。
「真剣に授業を受けている君が、ステキで。理由をつけて、何回も、見学に行った」
ヒューが真っ赤になって言うものだから、あたしも恥ずかしくなってしまった。
そして、その後は。
「女性とお付き合いとか、したことがなかったんだ。だから、ニールに相談して。どんな娘だよって言うから、こっそり二人で下校時間に学校の前で待っていて。そして……ニールが、君に声をかけた」
そんな元婚約者は、運命の相手と破局したらしいとヒューから聞いた。
そして、職場にも居辛くなって辞めたって。
「でも……よかったの?」
「なにが?」
「あたし、会計士の資格試験を、受けなかったわ」
あたしが言うと、ヒューは不思議そうにあたしを見た。
「そうだね、ニールに止められたって聞いた」
「だから、お仕事の役には立たないわ」
「そんなこと、関係ない。試験なんていつでも受けられるし、君はとても優秀だ。だから、うちの職場では大歓迎だよ」
「家に入らなくていいの?」
「もちろん。君の願いを優先する」
「あたし、当てつけみたいに、あなたとの結婚を承諾したわ」
「それは、いいんだよ」
あらためてあたしに向き直って。
真剣な表情で、ヒューは言った。
「あのとき――ニールから君と別れたって聞いて、走って君を探しに行ったとき。君と結婚したいと思った気持ちは、決して嘘じゃない。君はうつむいたまま水たまりをいくつも飛び越えて。……僕は、君を心底愛しいと思った」
いつか聞いたような言葉だった。でもぜんぜん違って。初めて聞いた言葉だった。
「あらためて……シャーロット。……僕と結婚してください」
「よろこんで。ヒュー」
あたしが笑うと、ヒューも笑顔になって。
真っ赤になりながら、触れるみたいなキスをくれた。
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