第9章:王国の危機
まるでナタリーの心を映すかのように、王都の上空には灰色の雲が垂れ込め、太陽の光を遮っていた。
ここ数週間、王国各地で原因不明の異常現象が頻発しているという暗い噂が、王立魔法騎士学園の生徒たちの間にも囁かれるようになっていた。森の奥深くでしか目撃されなかったはずの凶暴な魔獣が人里近くに出没し、農作物を荒らし、旅人を襲う。辺境の村では、季節外れの豪雨や干ばつが続き、民の生活を脅かしているという。
それはかつて学園近くの森で起きた、ゴブリンロードの出現のような、単なるイレギュラーな事件とは明らかに規模も性質も異なる不吉な知らせだった。
「古の時代に封印された闇の勢力が、再びこの地に蘇ろうとしているのではないか――」
そんな荒唐無稽とも思える噂が、しかし、人々の不安を煽るには十分だった。
騎士団は各地へ調査隊を派遣し、王宮魔術師たちは古代文献を紐解き、原因の究明に奔走していたが、明確な答えは見つからないまま時間だけが過ぎていく。
エーベルハルト・フォン・ホーエンシュタウフェンは、その類稀なる才覚と強い責任感から、この国難ともいえる状況に誰よりも早く危機感を募らせていた。
彼の父であるホーエンシュタウフェン大公爵は、国王の右腕として王国の守護を司る立場にあり、エーベルハルトもまた、次期当主として、そして王国の盾となるべき騎士として、自らの使命を痛感していた。
講義が終わった放課後、エーベルハルトは鍛錬場に一人残り、木剣を振るっていた。その剣筋は鋭く、力強い。
しかし、その表情は普段の冷静沈着さとは裏腹に、どこか焦燥感と苦悩の色を滲ませていた。ナタリーとの関係、ルイーゼとの婚約、そして差し迫る王国の危機。それらが複雑に絡み合い、彼の心を重く圧していた。
「ホーエンシュタウフェンたる者、私情を挟むことなく、王国と民に身を捧げねばならぬ」
幼い頃から叩き込まれてきた言葉が、まるで呪縛のように彼を縛る。ナタリーの優しさ、彼女の持つ神秘的な力、そして何よりも彼女の笑顔が、エーベルハルトの心の奥底にある孤独を溶かしてくれる唯一の光であることは、彼自身が一番よく分かっていた。
しかし、その光に手を伸ばすことは、今の彼には許されないように思えた。家の期待、貴族としての責務、そして何よりも、彼女を巻き込むことへの恐れ。それが、エーベルハルトにナタリーから意識的に距離を置かせる原因となっていた。
ここ数日、エーベルハルトがナタリーと顔を合わせても、以前のような親密な会話はなく、ただ儀礼的な挨拶を交わすだけになっていた。時折向けられる彼の視線には、どこか苦しげな色が浮かんでいることにナタリーは気づいていたが、その真意を測りかねていた。
ナタリーにとって、それはエーベルハルトが自分よりも、やはり家柄や騎士としての使命を選んだのだ、という誤解を深めるには十分だった。
彼の冷たい態度は、まるで鋭い刃のようにナタリーの心を切り裂き、彼女から言葉を奪った。
ダニエルは心配そうに声をかけてくれるが、ナタリーは力なく微笑むことしかできない。
ルイーゼとその取り巻きたちは、そんなナタリーの姿を見て、ここぞとばかりに当てこすりや嘲笑を浴びせてくることもあった。
ある日の夕暮れ、ナタリーは一人、学園の庭園の片隅にあるベンチに座り込んでいた。かつてエーベルハルトと偶然出会い、言葉を交わした思い出の場所。
しかし今、彼の姿はなく、ただ冷たい風がナタリーの銀髪を揺らすだけだった。
(やはり、私ではダメなのね……)
エーベルハルトがホーエンシュタウフェン家の嫡男として、王国のためにその身を捧げようとしていることは理解できた。それは高潔な誓いであり、誰にも邪魔できるものではない。
しかし、そのために自分が切り捨てられたのだと感じてしまうのは、仕方のないことだった。彼の視界から自分が消えること、それが彼のためになるのなら。ナタリーは、ぎゅっと唇を噛みしめた。
胸の奥で、何かがぷつりと切れる音がした。エーベルハルトの将来を想うなら、自分はいない方がいい。そして、この学園に、もう自分の居場所はないのかもしれない。そう思うと、とめどなく涙が溢れてきた。
エルフの血を引く自分が、人間の、それも大貴族の彼と結ばれることなど、最初から夢物語だったのだ。
降り始めた小雨が、ナタリーの頬を濡らす涙と混じり合う。遠くで、王都を守る騎士団の訓練の掛け声が聞こえてくる。その中には、きっとエーベルハルトの声もあるのだろう。騎士としての誓いを新たにし、己を鍛え上げている彼の姿を思うと、ナタリーの胸は一層締め付けられるのだった。
輝かしいはずの青春の学び舎は、いつしかナタリーにとって、冷たく息苦しい場所へと変わろうとしていた。