第6章:学園祭
秋風が学園の木々を揺らし、 黄金の葉が舞い散る季節になると、王立魔法騎士学園は一年で最も華やかな行事、学園祭の準備で活気づいていた。
クラスごとに趣向を凝らした出し物や模擬店が企画され、生徒たちは放課後遅くまで準備に追われる。それは、ナタリーにとっても初めて経験する賑やかで心躍る日々だった。
ナタリーのクラスは、中庭に面した一角で幻想的な光のインスタレーションと、手作りのハーブクッキーを販売するカフェを開くことになった。
準備はいくつかの班に分かれて進められ、ナタリーは持ち前の植物に関する知識と、エルフの血に由来する繊細な感覚を活かして、装飾用の植物の選定と育成、そしてハーブクッキーのレシピ開発を担当することになった。
「ナタリーさん、この配置で大丈夫かしら?」
「うん、この組み合わせなら夜にはきっと星屑みたいに光って見えると思う」
クラスメイトたちも、最初は遠巻きに見ていたナタリーの不思議な才能、――植物と心を通わせるかのような手つきや、微かな光を放つ花々を巧みに操る様子――、に今では純粋な賞賛の目を向けるようになっていた。
特に、森での魔獣騒ぎの一件以来、彼女を見る目は確実に変わってきていた。
そんな中、エーベルハルトは学級委員長として、また生徒会役員として、学園祭全体の運営にも関わっており、多忙な日々を送っていた。彼がナタリーのクラスの準備状況を見に来たのは、そんなある日の放課後だった。
「準備は順調か」
いつものように少し硬質な声だったが、その響きには以前のような冷たさは感じられなかった。ナタリーは、中庭で装飾用の蔓草に小さな光を灯す魔法を施している最中だった。
「エーベルハルト様! はい、皆さんと一緒に頑張っています」
ナタリーが振り返ると、夕陽を浴びて金の髪を輝かせているエーベルハルトが立っていた。その姿は相変わらず眩しく、ナタリーは少し頬を染める。
「ほう、これは……、なかなか興味深い魔法だな」
エーベルハルトは、ナタリーが編み上げた蔓草のアーチに触れ、そこに込められた微細な魔力の流れを感じ取ろうとしているようだった。彼の指先が、ナタリーが触れていた蔓に重なりそうになり、ナタリーは心臓が小さく跳ねるのを感じた。
「あの、これは……、植物に宿る力を少しだけ引き出す魔法で……」
「君の魔法は、いつも独創的だな」
エーベルハルトの言葉に、ナタリーは顔を上げた。彼の碧眼が、真っ直ぐに自分を見つめている。それは以前のような鋭いものではなく、どこか柔らかな光を帯びているように感じられた。
「ありがとうございます……」
思わぬ褒め言葉に、ナタリーの声は上擦った。エーベルハルトはふっと口元を緩めると、ナタリーが育てているハーブの鉢に目を移した。
「このハーブは……、特に香りが良い。クッキーに使うのか?」
「はい! このハーブは昔から『幸運を呼ぶ香り』と言われていて、焼き上がりにほんのり甘い香りが混ざって最高なんです! 皆さんに喜んでもらえたらいいなって……」
ナタリーが一生懸命に説明する姿を、エーベルハルトは静かに見つめていた。彼女の言葉の一つ一つに、飾り気のない純粋さが溢れている。
そして、何よりも楽しそうだ。貴族の令嬢たちが見せるような計算された笑顔ではなく、心の底から湧き上がるような、素朴で温かい笑顔。
エーベルハルトは、そんな彼女の笑顔を見るたびに、胸の奥がくすぐったくなるような、それでいてどこか切ないような不思議な感覚に包まれるのだった。
「……そうか。楽しみにしている」
短くそう言うと、エーベルハルトは他のクラスの様子も見に行く、と足早に立ち去った。ナタリーは、その後ろ姿をしばらく見送っていた。
彼の残した「楽しみにしている」という言葉が、胸の中で何度も繰り返される。それだけで、準備の疲れも忘れてしまうほど、心が温かくなるのだった。
そして、学園祭当日。学園は朝から多くの来訪者で賑わい、あちこちで歓声が上がっていた。
ナタリーたちのカフェも盛況で、彼女が心を込めて作ったハーブクッキーは「まるで星の味がする」と評判になり、次々と売れていく。
ダニエルも友人と共に訪れ、「ナタリーさん、君のクッキーは最高だよ!」と満面の笑みで褒めてくれた。
夜になり、学園の中庭がメイン会場となって、フィナーレのダンスパーティーが始まった。かがり火が焚かれ、生徒たちが手作りした無数のランタンが星々のように輝き、幻想的な雰囲気を醸し出している。楽団が奏でるワルツの調べが、夜空へと溶けていく。
ナタリーは、カフェの後片付けを終え、少し離れた場所からその光景を眺めていた。きらびやかな衣装に身を包んだ貴族の子息令嬢たちが、楽しげに踊っている。自分には縁のない世界だ、と少しだけ寂しさを感じながらも、その美しい光景に目を奪われていた。
「ナタリー」
不意に背後から声をかけられ、ナタリーは驚いて振り返った。そこにいたのは、夜会用の正装に身を包んだエーベルハルトだった。昼間の彼とはまた違う、息をのむような気品と美しさに、ナタリーは言葉を失う。
「エーベルハルト様……、どうしてここに?」
「君を探していた。少し、良いか?」
エーベルハルトはそう言うと、ナタリーに手を差し伸べた。その手は、いつもの剣を握る力強い手でありながら、今はどこか優しさを秘めているように見えた。
「え……、でも、私は……」
ナタリーは戸惑った。ダンスなど、まともに踊ったこともない。それに、彼のような高貴な人と自分が踊るなど、想像もつかなかった。
「心配いらない。私がリードする」
エーベルハルトの碧眼が、悪戯っぽく細められる。その表情は、普段の彼からは想像もつかないほど柔らかく、ナタリーの不安を溶かしていくようだった。ナタリーは、おそるおそる、差し伸べられた彼の手を取った。
エーベルハルトに導かれるまま、ナタリーはダンスの輪へと足を踏み入れた。
最初はぎこちなかったステップも、彼の巧みなリードによって、いつしか滑らかになっていく。
周囲の喧騒が遠のき、まるで世界に二人だけしかいないような感覚に陥る。
見上げれば、満天の星。そして、すぐそばには、エーベルハルトの整った顔立ちと、自分を優しく見つめる瞳があった。
「君のクラスの出し物、素晴らしかった。特に、あの光のアーチは……、まるで本物の星空のようだった」
「ありがとうございます……。エーベルハルト様にそう言っていただけて、嬉しいです」
エーベルハルトの腕の中で、ナタリーは夢見心地だった。彼から伝わる温もりと、微かに香る高貴な香りに包まれ、胸が高鳴る。
「君は、いつも私を驚かせる。その……、純粋さも、そして内に秘めた力も」
エーベルハルトの声は、ワルツの調べに溶け込むように囁かれた。ナタリーは顔を赤らめ、俯く。
「そんな……、私は、ただ自分にできることをしているだけで……」
「それが、どれほど難しいことか」
エーベルハルトの言葉には、どこか自嘲するような響きがあった。
彼は、家柄や期待という「金鎖」に縛られ、常に完璧であることを求められてきた。ナタリーのように、自分の心に素直に従い、ひたむきに努力する姿は、彼にとって眩しく、そして同時に羨望の対象でもあったのかもしれない。
「エーベルハルト様も……、いつも、皆さんのために、一生懸命でいらっしゃいます」
ナタリーは、そっと顔を上げ、エーベルハルトの瞳を見つめ返した。彼の瞳の奥に、時折よぎる孤独の色を、彼女は感じ取っていた。
「私には……、エーベルハルト様が、時々、とても重いものを背負っていらっしゃるように見えることがあります。私に何かできることがあれば……、力になりたい、です」
その言葉は、ナタリーの心の底からのものだった。身分も立場も違うけれど、彼が抱える何かを少しでも軽くできたら、と願わずにはいられなかった。
ナタリーの真っ直ぐな言葉に、エーベルハルトは息を飲んだ。誰もが彼の上辺の完璧さだけを称賛する中で、彼女だけが、その内面にある苦悩や孤独を見透かすかのように寄り添おうとしてくれる。その温かさが、彼の心を強く揺さぶった。
ワルツの曲が終わり、二人はそっと離れた。
しかし、彼らの間には、言葉にはできない確かな心の繋がりが生まれていた。名残惜しそうにナタリーの手を放したエーベルハルトは、何かを言おうとして口を開きかけたが、結局、小さく息を吐くだけだった。
「……ありがとう、ナタリー。今夜のことは、忘れない」
そう言うと、エーベルハルトは再び生徒会の仕事に戻っていった。ナタリーは、彼の後ろ姿を見送りながら、まだ自分の手に残る彼の温もりを確かめるように、そっと胸に手を当てた。
学園祭の喧騒が遠ざかり、空には無数の星がまたたいている。ナタリーの心にも、キラキラと輝く星のような感情が芽生えていた。
それは、淡く切ない恋心の始まり。
しかし同時に、この幸せな時間が永遠には続かないのではないかという、漠然とした不安も胸をよぎる。
まるで、美しいワルツの後に訪れる静寂のように、甘美な予感と切ない予感が入り混じった、忘れられない星影の夜となった。