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第5章:エーベルハルト

 ホーエンシュタウフェン公爵家の嫡男として、エーベルハルトは常に完璧であることを求められてきた。

 寸分の隙もない立ち居振る舞い、学年首席の成績、近衛騎士団長の若きエース候補としての武勲。

 それらは彼にとって、呼吸をするのと同じくらい当然のこととして周囲に認識され、そして彼自身もそれに応え続けてきた。彼にとって「完璧な貴族」とは、感情を押し殺し、家名という重責をただ一人で背負い続ける者の(いい)であった。その重圧は、時に鉛のように彼の肩にのしかかり、誰にも見せることのない孤独の影を彼の内に深く落としていた。


 ナタリー・ベルナール。森の魔獣騒ぎ以来、エーベルハルトの思考の片隅に、その小柄なハーフエルフの少女は居座り続けていた。

 彼女の、あの場違いなほど純粋な瞳、そしていざという時に見せる芯の強さ。何よりも、彼女が放つどこか神秘的な雰囲気は、エーベルハルトの整然とした世界に微かな波紋を投げかけていた。それは興味というよりも、むしろ戸惑いに近い感情だった。これまで彼が出会ってきた、計算高く、家柄や権力に敏感な貴族令嬢たちとは明らかに異質な存在。

 彼女のひたむきさは、時としてエーベルハルトの心を苛立たせ、同時に、凍てついた心の一部を不意に温めるような奇妙な感覚をもたらした。


 そんなある日の午後、エーベルハルトは学園の古書庫を訪れていた。

 静寂と古書の(かび)臭い匂いが支配するその場所は、彼が唯一、仮面を少しだけ緩められる空間だった。高い天井まで続く書架の迷路を進むと、窓際の一番奥まった閲覧席に、銀色の髪が夕陽を受けて淡く輝いているのが見えた。

 ナタリーだった。彼女は分厚い植物図鑑を開き、熱心に何かを書き写している。その真剣な横顔は、普段の控えめな印象とは少し異なり、知的な探求心に満ちていた。


 エーベルハルトは声をかけるべきか一瞬逡巡したが、結局、気づかぬふりをして別の書架へ向かおうとした。その時、不意にナタリーが顔を上げ、目が合ってしまった。


「あ……、エーベルハルト様」


 ナタリーは驚いたように小さな声を上げ、慌てて立ち上がろうとする。その拍子に、彼女が使っていたインク壺が傾き、危うく羊皮紙の上にインクをぶちまけそうになった。


「っ、危ない!」


 エーベルハルトは咄嗟に手を伸ばし、倒れる寸前のインク壺を押さえた。彼の指が、ナタリーの細く柔らかな指先に、ほんの僅かに触れる。ナタリーは顔を赤らめ、後ずさった。


「も、申し訳ありません! ありがとうございます……!」


「……気をつけろ。ここの古書は貴重なものが多い」


 いつもの冷淡な声色を努めて保ちながらも、エーベルハルトは自分の声が微かに揺らいだのを感じた。指先に残る、思いがけない感触。そして、間近で見た彼女の、エメラルドの瞳のあまりの透明さに、一瞬息を呑んだ。


「はい。……あの、エーベルハルト様も何かお探しですか?」


「ああ、古代魔法に関する資料を少しな」


 短い沈黙が落ちる。エーベルハルトは普段なら、こんな下級貴族、それもハーフエルフの少女と会話を続けることなどあり得なかった。だが、なぜかその場を立ち去り難いような、奇妙な居心地の悪さと、それとは裏腹な微かな心地よさを感じていた。


「古代魔法、ですか……、すごいですね」


 ナタリーが純粋な感嘆の声を上げる。そこには何の裏も計算もない、ただ真っ直ぐな尊敬の念が込められているようにエーベルハルトには感じられた。


「……お前は、植物学か?」


「は、はい! 森で育ったので、薬草や精霊が好む植物に興味があって……、少しでも、学園の薬草園のお役に立てればと」


 健気な言葉だった。没落貴族の娘が、特待生としてこの学園で生き抜くために、必死に自分の価値を示そうとしている。そのひたむきさが、エーベルハルトの胸の奥を微かに打った。彼は、自分でも気づかぬうちに、口調が少しだけ和らいでいるのを感じた。


「そうか……、励むといい」


 それだけを言うと、エーベルハルトは今度こそ踵を返し、書庫の奥へと消えた。しかし、彼の脳裏には、先ほどの少女の真摯な瞳と、触れた指先の感触が、しばらくの間、焼き付いて離れなかった。


 数日後、魔法史の授業でグループ課題が出された。偶然にも、エーベルハルトはナタリーと同じグループになる。

 他のメンバーは、エーベルハルトの威光に萎縮するか、あるいは彼に取り入ろうと必死になるかのどちらかだったが、ナタリーだけは違った。

 彼女は黙々と自分の役割を果たし、時折、的を射た意見を小さな声で述べる。その意見は、他の生徒が見落としがちな、しかし重要な視点を含んでいることが多かった。


 課題の参考文献を探すため、再び図書室で顔を合わせた時、エーベルハルトはナタリーが難解な古文書を前に苦戦しているのに気づいた。


「……そこの記述は、古代エルフ語の派生だ。現代語の解釈とは少し異なる」


 不意に背後から声をかけられ、ナタリーは飛び上がるほど驚いた。振り返ると、エーベルハルトが彼女の手元の古文書を覗き込んでいた。


「エ、エーベルハルト様……!」


「ここの文様は、風の精霊への呼びかけの古い形式を示している。お前が先日見せた力と何か関係があるのかもしれんな」


 ぶっきらぼうな口調だったが、その言葉は的確な助言だった。ナタリーがきょとんとしていると、エーベルハルトは指で特定の箇所を示し、簡潔にその解読法を教えた。それは、彼にしては珍しい、親切とも取れる行動だった。


「あ、ありがとうございます! 助かりました!」


 ナタリーが心からの笑顔を見せる。その屈託のない笑顔は、エーベルハルトの内にある分厚い氷の壁を、ほんの少しだけ溶かすかのようだった。

 彼はふいと顔をそむけ、

「当然のことをしたまでだ」

 とだけ言い捨ててその場を離れた。


(なぜ、あのような娘に心が揺れる……?)


 自室に戻ったエーベルハルトは、窓の外に広がる夜空を見上げながら自問した。

 ナタリー・ベルナール。彼女の存在は、彼が長年築き上げてきた「完璧な貴族」という仮面の下にある、押し殺してきたはずの感情を揺さぶり始めていた。それは、ホーエンシュタウフェン家の嫡男として、決して許されることのない心の動きのはずだった。

 しかし、彼女の純粋さ、ひたむきさに触れるたび、彼の胸には言い知れぬ温かさと、同時に鋭い痛みが走るのだった。この感情の正体が何なのか、エーベルハルトにはまだわからなかった。

 ただ、あのエメラルドの瞳に見つめられると、雁字搦めになっている「金鎖」の重みが、ほんの一瞬だけ軽くなるような気がする。それは、彼にとって救いであると同時に、抗い難い戸惑いの始まりでもあった。

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