第10章:失意の帰郷
あの日以来、エーベルハルトがナタリーに言葉をかけることはなかった。向けられる視線は、以前のような鋭く落ち着いたものではなく、何かを堪えるような、苦悩の色を帯びているようにナタリーには感じられたが、それも彼女の感傷的な思い込みかもしれない。
ルイーゼは勝ち誇ったようにナタリーを遠巻きにし、他の生徒たちも腫れ物に触るように遠ざかっていく。ダニエルだけは変わらずに声をかけてくれたが、彼の気遣いが、かえってナタリーの孤独を際立たせることもあった。
「もう、ここにはいられない……」
降りしきる雨を見つめながら、ナタリーはぽつりと呟いた。父には何と伝えようか。期待に胸を膨らませて送り出してくれた父を、落胆させてしまうだろうか。
しかし、これ以上、心をすり減らしながら学園に留まることは、ナタリーにとって耐え難い苦痛だった。
震える手で、ナタリーは一枚の羊皮紙を取り、ペンをインクに浸した。父に宛てた手紙には、学園のレベルの高さについていけない、少し休養したい、と当たり障りのない理由を綴った。
エーベルハルトのことも、ルイーゼのことも書けなかった。それは、言葉にした瞬間、自分の惨めさがより一層、胸に突き刺さるような気がしたからだ。
数日後、父からの短い返信と、最低限の旅費が届いた。
無理はしなくていい、いつでも帰っておいで、という温かい言葉が、かえってナタリーの涙を誘った。
彼女は誰にも告げず、早朝、まだ薄暗い中を、小さな荷物だけを手に学園の門を後にした。
故郷へと向かう馬車の中、ナタリーは窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。王都の喧騒が遠ざかるにつれ、心細さが募る。エーベルハルトは、自分が学園を去ったことに気づくだろうか。気づいたとして、彼はどう思うのだろう。そんな詮無いことばかりが頭をよぎり、そのたびに胸の奥が鈍く痛んだ。
数日間の旅を終え、ナタリーは懐かしい故郷の村に着いた。没落貴族とはいえ、父は村人たちから慕われており、ナタリーの帰郷を皆が温かく迎えてくれた。父は何も聞かず、ただ黙って娘を抱きしめた。その無言の優しさが、強張っていたナタリーの心を少しだけ解きほぐした。
しかし、心の傷は簡単には癒えない。父との穏やかな日々が戻っても、ナタリーの表情は晴れなかった。エーベルハルトのこと、学園での出来事、そして何より、自分の無力さが繰り返し彼女を苛むのだった。
そんなある日、ナタリーはふと、幼い頃から慣れ親しんだ家の裏手に広がる「古の森」に足を踏み入れた。
物心つく前に亡くなった母が、この森を愛していたと父から聞かされていた。母の面影を求めるように、ナタリーは森の奥へ奥へと誘われていった。
苔むした岩、鬱蒼と茂る木々、そしてどこからか聞こえてくる風の囁き。
それは、学園で感じていた精霊の声とは少し違う、もっと深く、荘厳な響きを持っていた。ナタリーは知らず知らずのうちに、その声に導かれるように歩を進めていた。
森の最も深い場所、陽光さえ届きにくい場所に、ひときわ大きな古木が天を突くようにそびえ立っていた。
その根元に、一人の老婆が静かに座っていた。長く編まれた銀髪はナタリーの髪色を思わせ、深い皺が刻まれた顔には、森の叡智を宿したような穏やかな光が灯っていた。
「お待ちしておりましたよ、風の娘」
老婆は、ナタリーをまっすぐに見つめて言った。その声は、森の囁きそのもののように、ナタリーの心に染み渡った。
「あなたは……?」
「わたくしはアマリエ。この森の、そして古きエルフの血を守る者です」
エルフの長老。ナタリーは息をのんだ。母がエルフであったことは知っていたが、実際にエルフと出会うのは初めてだった。
「風があなたの訪れを教えてくれました。そして、あなたの内に秘められた、か細くも力強い風の音も」
アマリエはそう言うと、ナタリーの胸にそっと手を当てた。
「お母上によく似ておられる。特に、その魂の輝きが」
「母を、ご存知なのですか?」
物心つく前に亡くなった母。父の言葉だけが手がかりだった母の存在が、今、目の前のエルフによって鮮やかに息づき始めた気がした。
「ええ、よく存じております。彼女は、稀代の風の巫女でした。その力、あなたにも色濃く受け継がれているのですよ、ナタリー」
風の巫女。
その言葉は、ナタリーの心に強い衝撃を与えた。自分が受け継いでいるという力。それは、学園で時折見せていた、あの不思議な力のことだろうか。
「私に、そんな力が……?」
「ええ。あなたは、ただ可愛いだけのエルフの血を引く乙女ではない。風の精霊たちと語らい、その力を借り受けることができる。それは、古代エルフ語の古い形式にも通じる、特別な呼びかけの力。お母上も、そうして森と共に生きてこられました」
アマリエの言葉に、エーベルハルトが古文書の解読を手伝ってくれた際に口にした「古代エルフ語の派生」「風の精霊への呼びかけの古い形式」という言葉を思い出した。あの時は意味も分からなかった言葉が、今、目の前で一つの道を示しているかのようだ。
ナタリーは、自分の手のひらを見つめた。この手に、そんな力が宿っているというのだろうか。失意の底にいたナタリーの心に、小さな、しかし確かな光が灯り始めた気がした。それは、まだおぼろげな希望の光だったが、彼女が再び顔を上げ、前を向くための、最初の導きとなるのだった。