表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/16

第1章:プロローグ

 アスファルトと排気ガスの匂い、絶え間なく響く無機質な騒音。そんな世界に生きていたはずの私の記憶は、今や遠い夢のようだ。

 微かに湿り気を帯びた風が、ナタリー、――今の私の銀色の髪を優しく撫でていく。 

 森の木々は、まるで意思を持つかのように葉擦れの音を響かせ、私だけに聞こえる秘密の言葉を囁いているようだった。 かつての〝私〟が知るどんな音とも違う、生命そのものに触れているような不思議な感覚。物心ついた時から、いや、〝ナタリー〟としてこの世界に生を受けてからずっと、この声はすぐそばにあった。


 そっと目を閉じ、その囁きに耳を澄ませる。それは、鳥の歌とも、虫の羽音とも違う、もっと深く、もっと優しい、森そのものの呼吸のような響きだった。


「大丈夫、もう怖くない」


 足元で震える小さな兎にそう語りかける。先ほど、意地悪な狐に追われていたのを、私が木の枝を揺らして追い払ったのだ。言葉が通じるわけではない。けれど、そう心で念じると、兎の震えが少しだけ和らぐのを私は知っていた。

 前世ではおよそ信じられなかった、おとぎ話のような力が、今の私には宿っている。 エメラルド色の瞳を細め、そっと手を差し出すと、兎は恐る恐るその指先に鼻を寄せ、やがて安心したように私の足元に丸くなった。


 彼女の家は、広大なシュヴァルツヴァルトの森の端、かつては栄えたというベルナール男爵家の、今は見る影もない小さな屋敷だった。

 父であるアドリアン・ベルナールは、没落貴族の肩書きこそあれど、日々の糧を得るために森で薬草を採り、細々と暮らしている。

 母は、ナタリーが物心つく前に亡くなったと聞かされていた。母の記憶はほとんどないが、この銀色の髪と、時折感じる不思議な力は、きっと母から受け継いだものなのだろうと、ナタリーは漠然と思っていた。


「ナタリー、あまり森の奥へ行ってはいけないよ。それに、その……、風の声だとか、動物と話すような真似は、人前では決してしてはいけない。いいね?」


 夕餉の席で、父はいつものように心配そうな顔でナタリーに釘を刺した。父は、ナタリーの持つ不思議な感覚を「エルフの血の戯れ」と呼び、それを人々に知られることを酷く恐れていた。

 この世界では、エルフやそれに類する存在は、畏怖されるか、あるいは異端として疎まれるかのどちらかだったからだ。

 ナタリーは黙って頷いた。父の深い愛情と、その奥にある言い知れぬ不安を、彼女は痛いほど感じていた。


その日の午後、一羽の伝書鳩が屋敷に古びた封蝋の手紙を運んできた。

 差出人は、王都にあるという「王立魔法騎士学園」

 それは、貴族の子弟や、類稀なる才能を持つ者が集う、国で最も権威ある学び舎だった。


「特待生……? ナタリーが、あの王立学園にか?」


 父は手紙を読み終えると、信じられないというように何度も内容を確かめた。手紙には、ナタリーの持つ「稀有な資質」を評価し、特待生として学園に迎え入れたいと記されていた。父の顔には、喜びよりも戸惑いと不安の色が濃く浮かんでいた。


「お父様……」


 ナタリーは、震える父の手にそっと自分の手を重ねた。彼女自身、驚きと混乱で胸がいっぱいだった。王都。学園。貴族。それは、森の片隅で暮らすナタリーにとって、あまりにも縁遠い世界だった。

 しかし、胸の奥底で、何かが小さく疼くのを感じた。それは、自分のこの不思議な力の正体を知りたいという、押さえ込んでいた微かな願望かもしれなかった。

 そして、父の庇護のもと、ただ隠れて生きるだけではない、別の道があるのかもしれないという、淡い期待だった。


 父は、ナタリーの澄んだエメラルド色の瞳をじっと見つめた。その瞳の奥に宿る、まだ形にならない強い光を見た気がした。長い沈黙の後、父は深くため息をつき、そして、絞り出すような声で言った。


「……お前の人生だ、ナタリー。お前が望むなら……」


 その言葉は、ナタリーの背中をそっと押す風のように感じられた。森の囁きとは違う、けれど確かな何かが、彼女の新しい扉を開こうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ