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優秀な人の時間を、無能が食い潰す

「藤原さん、またですか?」


 朝一番、出社してすぐに確認したメールの送信者名を見て、僕は思わず電話を握りしめた。佐伯遥斗。隣の部署の新入社員の名前だ。添付されていたのは、昨日、彼が担当したはずのA社の新規案件の見積書データ。嫌な予感が的中し、ファイルを開いた瞬間、僕は大きくため息をついた。肝心の取引先の会社名が、案の定、まるごと間違っていたのだ。これはそもそもA社の見積書じゃないんじゃないか。


「どうしました?」


 電話口の藤原さんの声は、いつもの凛とした響きを潜め、明らかに疲れていた。彼女も、またかと覚悟していたのかもしれない。


「見積書のデータが根本的に間違ってるんです」


 その瞬間、彼女の呼吸が一瞬止まったように感じた。言うまでもない。また、あの男の仕業だ。彼女の部署は、一体どれだけ彼の尻拭いをさせられているのだろう。


「すみません、確認します」


 短くそう答えると、藤原さんは電話を切った。僕は受話器を置きながら、窓越しに隣の部署を見やった。案の定、藤原さんが険しい顔つきで佐伯の席へ向かい、何かを早口で伝えている。佐伯はといえば、いつもの通り他人事のようにスマホに目を落としたまま。しばらくして藤原さんの強い視線に気づいたのか、しぶしぶといった様子で画面に目をやる。あの態度を見るだけで、さらに腹が立ってくる。


「やれやれ」


 隣の席の同僚、鈴木が僕の独り言を拾って、声をかけてきた。


「また佐伯君のミス?」


「ああ、まただよ」と僕はうんざりした声で答える。「彼、本当に社会人として、いや、人間として大丈夫なのかな」


 鈴木はいつもの朗らかな笑顔を引っ込め、苦笑を浮かべた。


「あの部署、本当に気の毒だよね。特に藤原さん」


 彼の言葉には、深い同情がにじんでいた。僕もまったく同感だ。藤原さんは真面目で仕事も早い、本当に優秀な社員だ。なのに、あんな新人の面倒を見ることに、どれだけの時間と労力を費やしているのか。


 僕は頷いた。「正直、A社案件はもう、彼以外に担当してほしいって、藤原さんに直接言おうと思ってる」


「言った方がいいよ」鈴木も真剣な表情で頷いた。「A社は今年一番の大口取引先だ。こんな初歩的なミス一つで、信用失ったら終わりだよ」


 彼の言う通りだ。A社の案件は、僕にとってもキャリアを左右するほど大きい。


 窓の向こうでは、藤原さんが席に戻り、静かに見積書の修正に取り掛かっていた。その隣で、佐伯は何事もなかったかのように、再びスマホをいじっている。あの図太さには、もはや呆れるしかない。


「藤原さん、あんなに頑張ってるのに……」と鈴木が小さく呟いた。彼の目には、藤原さんへの純粋な心配が浮かんでいた。


「ほんと、損な役回りだよな」僕も返す。彼女ほどの人材が、こんな新人の教育係で消耗してるなんて、会社にとっても損失だ。


 A社の案件は、僕にとっても今年最大のプロジェクトだ。担当できる人間は限られている。失敗すれば、僕自身の評価にも響く。電話ではなく、きちんと藤原さんに直接伝えようと決めた。


 彼女の席へ向かう途中、案の定、佐伯と廊下ですれ違った。ニヤニヤしながらスマホを見ている。仕事中、一体何を見ているんだか。


「藤原さん」


 声をかけると、彼女は疲れた顔を上げた。その目には、すでに諦めのような光が宿っているように見えた。


「悪いんだけど、A社の仕事に触れるのは、もう佐伯くん以外にしてもらえないかな?」


 できるだけ柔らかく、しかしはっきりとそう伝える。


 彼女は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく頷いた。どこか重荷を下ろしたようにも見えた。


「大丈夫。私が責任持ってやるから」


 その短い返事の奥には、すでに限界を超えた責任がさらに積み重なっているように感じた。それを見て、僕は心底申し訳なくなった。


「ごめんね。でも、あの見積書を見て、正直……怖くて」


 そう伝えると、彼女は微かに微笑んだ。ただ、その目はまったく笑っていなかった。


「わかってる。心配しないで」


 プロとしての誇りを最後まで崩さない彼女の姿が、胸に刺さった。


 自席に戻る途中、僕は考えていた。藤原さんは、そしてあの部署は、一体どれだけの“言葉にならない負担”を背負っているのだろう。誰もが薄々わかっているのに、会社は何も変えようとしない。


 この歪んだ状況は、一体いつまで続くのか。

 そして、いずれどんな形で破綻するのか。


 胸の奥に、重く沈んでいく不安が、じっと居座っていた。

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