僕たちはただ、見ているだけ
「ねえ、藤原さんってさ、どうしてあんなに佐伯のフォローばかりしてるんだろうね」
昼休み、いつもの社員食堂の窓際の席で、僕は向かいに座る橋本に問いかけた。窓の外には、慌ただしく行き交う人々。午後の業務を前に、少しでも気を緩めたい時間なのに、僕の意識は、どうしても朝からドラマが繰り広げられているあの場所に吸い寄せられてしまう。
佐伯がまた何かやらかしたのだろう。藤原さんが彼の丸椅子に腰掛け、疲れた顔で何かを説明しているのが、遠目にもわかった。佐伯はというと、いつものように上の空で、スマホの画面に夢中だった。
「教育係だからじゃない?」と、橋本は、ミルクたっぷりのコーヒーをゆっくり啜りながら、それらしい答えを返した。彼女は基本的に面倒ごとを避け、他人のことに深入りしようとはしないタイプだ。
「いや、それにしたって度が過ぎるよ」と、僕は首を振る。入社してもう一ヶ月が経つというのに、佐伯は基本的な業務すらまともにこなせていない。いや、“こなそうとしていない”と言ったほうが正確かもしれない。まるで、わざと混乱させて楽しんでいるんじゃないかとさえ思えてくるほど、信じられないミスを繰り返しているように思う。
「スマホ大好き青年だよね、あれ」と、橋本が小さく笑う。「説明中に平気でスマホいじってるの、見たことある?」
彼女は、時折見かける佐伯の奇行を、まるで昼ドラでも語るように、少しだけ面白がっているようにも見える。
僕もつい笑ってしまう。「見たどころか、先週の全体会議だよ。一番後ろの席で堂々とスマホ見てた。しかも、振動音が微かに漏れててさ。周りの人、たぶん気づいてたと思う」
あのときの、周囲の冷ややかな視線。さすがに僕もヒヤッとした。部長の話の最中だというのに、よくあんな無神経でいられるものだ。
僕たちは顔を見合わせて、思わず苦笑した。誰も口には出さないけれど、心の中ではきっと皆、呆れていた。
食堂の入口が開いて、藤原さんが一人で入ってきた。表情はいつも以上に疲れていて、目の下にはうっすらとクマが浮かんでいる。肩を落としながら空いている席を探す姿は、何か重いものを背負っているように見えて、見ているだけでこちらの背中まで重くなる。
「藤原さん、こっち空いてるよ」
僕は、なるべく彼女の休憩の邪魔にならないように、控えめに手を挙げて声をかけた。
彼女は気づいて、うっすらと微笑み、こちらのテーブルにやってきた。「ありがとう。ちょっと、休憩したくて」
その笑顔には、普段の明るさがなく、どこか作り物めいて見えた。
「佐伯くん、また何かやったの?」と、橋本が少し遠慮がちに、それでも興味津々な様子で尋ねると、藤原さんの笑顔がふっと消えた。
「まあね……」
それ以上は何も言わなかったけれど、その短い一言の中に、疲れと諦めのような感情がずっしりと詰まっているのがわかった。彼女の目は、本当に疲れ切っていて、もう何もかも投げ出してしまいたい、そんなふうに見えた。
「でも、安藤課長って、何も動かないの?」と、僕は思わず聞いた。あれだけの状況を見ていて、見て見ぬふりをするって、どうなんだ。管理職としての責任は?
藤原さんは小さく肩をすくめて、「『もう少し様子を見よう』って、それだけ」と答えた。
その声には、期待のかけらもなかった。まるで、状況をただ事実として述べているだけのようだった。
そのとき、食堂の扉が再び開き、佐伯が入ってきた。きょろきょろと辺りを見渡して、藤原さんを見つけると、まるで吸い寄せられるようにこちらに向かってきた。
顔には、いつもの呑気な笑顔。緊張感も気まずさもなく、彼の手にはスマホ。視線はそこからまったく離れていない。
「あ、藤原さん!ちょうど探してました。あの資料って、結局どうすればいいんすか?」
藤原さんの表情が、ほんの一瞬だけこわばったように見えた。彼女の目には、明らかに苛立ちの色が浮かんでいる。
「どの資料? 昨日、詳しく説明したはずだけど?」
その声には、わずかに怒りがにじんでいた。もう何度も同じやり取りをしているのだろう。我慢の限界が、すぐそこまで来ているのがわかる。
「あー、それそれ。昨日ちょっと色々あって、記憶が曖昧で……」
佐伯は、全く悪びれる様子もなく、ヘラヘラと笑っている。
彼女の目が一瞬伏せられ、次の瞬間、ゆっくりと立ち上がった。
「じゃあ、戻ろうか」
その背中からは、重苦しいほどの疲労と、深い諦めが漂っていた。まるで光を失った街灯のように、沈んでいた。
僕と橋本は顔を見合わせた。たぶん、同じことを考えていた。
——この状況、いったい、いつまで続くんだろう。
「本当に、大変だよね、藤原さん」と、橋本がぽつりとつぶやく。
その目には、いつもの観察者の冷静さに、ほんの少しの心配がにじんでいた。
「ほんと、心配になるよ……」
僕もそう返した。もう、藤原さんの心が折れてしまわないか、それだけが不安だった。
でも、僕たちにできることなんて、ない。
何か言えば余計なお世話になる。佐伯に直接言ったところで、彼が変わるとも思えない。だから、僕らにできるのは——ただ、見ていることだけ。
そしてまた、無力感が胸の中に広がっていく。
「でも、なんでだろうね」
僕は窓の外をぼんやりと見つめながらつぶやいた。
「どうして会社は、あんなに明らかに問題のある新人を、ずっと放置してるんだろう」
その疑問に、誰も答えなかった。
答えなんて、最初からないのかもしれない。
ただひとつ残ったのは、どうにも割り切れない、重たく鈍い気持ちだけだった。
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