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今日もまた、苦いコーヒーと小さな悲劇を

 朝のコーヒーは、いつも苦い。特にこの時間、午前10時47分。でも今日は、隣の部署で繰り広げられる騒がしさを肴にしているせいか、ほんの少しだけ、その苦みが気にならない。


 私の名前は橋本智美。業務管理課、勤続五年。目の前に広がるのは、書類の山。そして、視線を少し上げれば、薄いパーテーション一枚隔てた向こう側で、今日もまた、ささやかな見世物が上演中だ。主役は、生真面目さが服を着て歩いているような藤原悠子と、どこか地に足がついていない、浮遊感漂う新入社員の佐伯遥斗。


「佐伯さん、これ、一体どういうこと?」


 藤原さんの、少しばかり語気を強めた声が、私の席まで鮮明に聞こえてくる。今朝、佐伯への指導は、これで五回目だろうか。彼女の眉間に刻まれたシワは、いつもより深く、まるで怒りの深さを物語っているようだ。


「すみません」


 佐伯の、抑揚のない謝罪は、もはやこのオフィスの日常風景の一部と化している。その後に続く、的外れな言い訳も、まるで再生ボタンを押したかのように、同じパターンを繰り返す。藤原さんは、もう何も言うまいと諦めたのか、小さく、深い溜息をつくだけだ。


 私は、湯気を立てるコーヒーカップの向こう側から、この朝の連続ドラマを静かに観劇する。隣の席の、おしゃべり好きの山田も、いつの間にか興味津々の様子で、まるで昼下がりのドロドロとしたメロドラマでも見ているかのように、目をキラキラとさせている。「自分たちの部署には、あんなに手の焼ける新人がいなくて良かった」とでも思っているのだろうか。


「また始まったね」と、山田が私の耳元で囁く。その声には、いつもの軽薄さに加えて、微かな同情の色が混じっている。「藤原さん、本当に気の毒だよね」


 藤原さんは、本当に真面目で、仕事もきっちりこなす人だ。教育担当としては、周りも認めるほど優秀なのに、佐伯という存在は、彼女の長年培ってきた社会人としての常識を、根底から揺さぶっているのだろう。会議中に平然とスマホをいじり、基本的な仕事のミスを、まるでコレクションしているかのように、これでもかと繰り返す。そして、何よりも驚くべきは、その学習能力の低さだ。あれだけ丁寧に、懇切丁寧に注意されても、次の日には、まるで昨日のことは都合の悪い夢だったかのように、何事もなかったかのように、同じ失敗を、涼しい顔で繰り返すのだから、ある意味、才能なのかもしれないとさえ思ってしまう。


 午前10時50分。藤原さんが、再び佐伯の席へと、まるで重い足取りで、刑場へと向かう罪人のように歩み寄っている。手に持った資料を、まるで最後の希望のように指さしながら、何かを懸命に説明しようとしているが、佐伯の目は、依然としてスマホの、小さな四角い画面に、強力な磁石に吸い寄せられた鉄粉のように、完全に吸い寄せられたままだ。「あ、はい」という、明らかに上の空の、生返事から、彼が藤原さんの言葉を、まるで耳に入っていない雑音のように、全く聞いていないことは、私のような、ほんの数メートル離れた場所にいる、ただの傍観者にも、手に取るように明らかだ。藤原さんの表情が、みるみるうちに固まっていく。諦めと、今にも爆発しそうな怒りの狭間で、彼女の感情は、まるで煮えたぎる寸前の熱湯のように、激しく揺れ動いているのだろう。その顔には、「もう、どうしたらいいのかわからない」という、悲痛な叫びが、無言のメッセージとして込められている。


 私は、山田とそっと目を合わせ、小さく頷いた。「本当に、毎日大変そう」という、共感と、ほんの少しばかりの優越感、そして、微量の憐憫を込めたメッセージを伝える。山田も、深く頷き返し、同意見であることを示している。他の部署の人間は、見て見ぬふりを決め込んでいるようだ。誰も、あの二人の間に割って入ろうとはしない。面倒事に巻き込まれたくないのだろう。


 正直なところ、私は心底、安堵している。あの、まるで異次元からやってきたかのような、理解不能な新入社員が、自分の部署の人間でなくて、本当に、心底から良かったと、毎朝、神に感謝している。もし、彼が私の部署に配属されていたら……想像しただけで、胃の奥が重くなり、頭痛が、ズキズキと、容赦なく襲ってくる。おそらく、私の平穏な日常は、初日で終わりを告げていたことだろう。


「マジっすか……そっかぁ……」


 佐伯の、まるで遠い世界から聞こえてくるような、間の抜けた声が、静かなオフィスに、ぽっかりと穴を開けるように響く。それを聞いた藤原さんの肩が、まるで重力に逆らえなくなったかのように、力なく落ちる様子は、見ていて、他人事とはいえ、少しばかり、本当に少しばかり、心が痛む。彼女の背中には、「もう、これ以上、何もかも背負いきれない」という、悲痛な叫びが、無言のメッセージとして、重くのしかかっているように見える。


 私は、冷めてしまったコーヒーカップをゆっくりと持ち上げる。苦い液体が、私の乾いた舌の上で、じわりと広がる。他人事とはいえ、毎日毎日、同じ光景を見ていると、さすがに、ほんの少しだけ、見ていて辛くなる。まるで、自分が間接的に、この不幸なドラマの共演者になっているような、奇妙な感覚に襲われるのだ。


「橋本さん、例の資料、もうできました?」


 背後から、私の直属の上司の、低いけれど威圧感のある声が、私の意識を、隣の部署の甘美なドラマから、現実へと、有無を言わさず引き戻す。そうだ、私は、隣の部署の、まるで永遠に終わらないメロドラマに見入っている暇などない。私には、私自身の、山積みの仕事という現実が、容赦なく待ち構えているのだ。それにしても、藤原さんは、本当に、毎日、骨身を削る思いだろうな。彼女の未来に、ほんの少しばかりの、安寧が訪れることを、私は、心の中で、そっと願った。もちろん、口には出さないけれど。

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