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第六章「信頼は、音もなく剥がれる」

午後の報告ミーティング。窓から差し込む柔らかな光が、会議室のテーブルを照らしている。私は資料を片手に、上司の安藤課長に声をかけた。


「課長、今回の業務指示、マニュアルと内容が少し異なっていて……念のため、確認を」


本当に、ただそれだけだった。当たり前の確認。念のための一言。顧客の情報が関わる以上、絶対に間違えたくなかった。だから、確認したのだ。

けれど、返ってきたのは予想外の冷たい一言だった。


「藤原さんさ、マニュアル見てから聞いてるの?」


一瞬、言葉の意味を確認するまでに時間がかかった。私の耳を疑った。まるで、小学生を叱るような口調。周囲の同僚たちの視線が、一斉に私に集まる。


(……え?)


頭の中が、真っ白になる。血の気が引く感覚。手のひらが微かに汗ばんだ。


「……はい。見た上で、念のためと思いまして」


声が震えないように意識する。周囲の空気が一気に重くなった気がした。


「だったら自分で考えなよ。ベテランでしょ?」


安藤課長の口調には、明らかな嫌悪感が込められていた。皮肉だった。皮肉というより、"当てつけ"に近かった。他の社員の前で、わざとらしく私を小馬鹿にする態度。


私は、知っている。この言葉の裏にあるものを。


それは、数日前に遡る。会議室での出来事。佐伯がまたマニュアルを見ずに質問してきた場面だった。何度も同じ説明をしてきた私は、さすがに「まずマニュアルを確認してからにして」と少しきつい言い方をした。

安藤課長はそれを聞いていた。当時は何も言わなかったが、あの瞬間から、彼の態度は明らかに変わった。目に見えて私に対して冷たくなった。


「お前だって新人の頃は、できてなかっただろ?」


そんな思いが見え見えだった。佐伯の味方をしたいのか、単に私が気に入らないのか。

なぜか、何度ミスを繰り返す佐伯には何も言わないのに。現場を五年間回してきた私には、一つのミスすら許されない空気を与えてくる。


「それでは、指示通りに進めます」


私は資料を閉じた。これ以上、何も言っても無駄だと悟った。安藤課長は既に他の社員に話しかけていて、私の返事には耳を傾けてもいなかった。

私は自分の席に戻った。胸の中に、言葉にできない感情が渦巻いていた。悔しさ、憤り、虚しさ。それらが混ざり合い、重い塊になって胸の奥に沈み込んでいく。

ふと気配を感じて、隣の席に目をやると、佐伯が視線を向けていた。PCの画面を覗くふうを装いながら、顔にはうっすらと笑みが浮かんでいた。

その視線には、愉しんでいるような色があった。まるで、"怒られてる藤原"というコンテンツを味わっているような目。


「普段偉そうな人が怒られてるのって、スカッとしますよね」


以前、彼が誰かにそう言っていたのを、私は忘れていなかった。休憩室での何気ない会話。同期の井上に対して、ある先輩社員が叱責されたときの話をしていた時のことだ。

佐伯は本当に「スカッとする」と言ったのだ。その言葉を聞いた時、胸の奥に違和感を覚えたことを覚えている。他人の不幸を喜ぶような発言。それが彼の本質なのか。そして今、その視線が私に向けられている。


もう限界だった。


パソコンの画面を見つめながら、私は考えた。


これまでの五年間。


新人だった頃の自分。


先輩たちに教わったこと。


後輩に伝えてきたこと。


仕事に対する責任。


チームとしての在り方。


なぜ、何度も間違える人間は守られ、一度声を上げた人間が叩かれるのか。

現場のために。後輩のために。会社のために。そう思ってやってきた。けれど、帰ってくるのは皮肉と冷笑と、あの視線。


佐伯のように仕事を適当にこなしていれば、叱られることもない。むしろ、保護される。そして厳しいことを言った人間が悪者にされる。この理不尽さに、胸が締め付けられる思いがした。

オフィスの空調の音が、やけに耳に響く。周りでは、いつも通りに仕事が進んでいる。誰もこの不条理に気づいていないかのように。いや、気づいていても、言わないだけなのかもしれない。


私は、気づいてしまったのだ。

この職場は、「言わない人間」が得をする場所だと。

問題を指摘しない。ミスを見て見ぬふりをする。責任を取らない。そういう人間が居心地がいい場所。そして、真摯に向き合おうとする人間が、むしろ疎まれる場所。


モニターに映る自分の顔が、どこか他人のように見えた。少し前までは生き生きとしていたはずの表情が、今は疲れ切っている。目の下にはクマができ、口元は下がっている。いつからだろう。こんな顔になったのは。


席の隣では、佐伯がスマホを見てクスクス笑っている。勤務時間中なのに。誰も注意しない。それどころか、安藤課長は彼に親しげに話しかけている。


「佐伯くん、この間の飲み会の写真、送っといてよ」


「あ、はいっす。今送りますね」


その光景を見て、私の中で何かがきしむ音がした。

信頼は、音もなく崩れる。目の前の空気が変わったわけじゃないのに、胸の奥だけが、確かに冷えた。それは氷が張るような感覚。暖かかったものが、一瞬で凍りついていく。


課長がその後、何か声をかけてきた気がする。資料のことか、次の予定のことか。私はただ「はい」とだけ返した。声には、何の感情も込めなかった。事務的に、必要最低限の対応だけを返した。


もう、私はこの人に何も期待しない。


その瞬間から、私の中で"上司"はただの役職になった。


「藤原さん、この後の打ち合わせ、準備は?」


「はい、用意してあります」


「あと、この案件の進捗は?」


「予定通りです」


「……大丈夫?何か疲れてるみたいだけど」


遅すぎる気遣い。今更、何を言っても響かない。私は微笑み、「大丈夫です」と返した。いつもと同じ笑顔で。いつもと同じ声色で。けれど、心の中では、もう彼を「上司」とは思っていなかった。

システム上の上下関係。組織図の中の位置づけ。それだけの関係になってしまった。かつて抱いていた尊敬の念は、もう存在しない。


午後の陽光が窓から差し込み、机の上に長い影を落としている。私は静かに資料を整理し、次の業務に移った。表面上は何も変わらない。誰も、私の中の変化に気づいていない。

その日から、私は彼に何も相談しなくなった。自分で判断し、自分で責任を取る。必要な報告だけを行い、それ以上の会話はしない。感情を排除した、乾いた関係。


そして夜、家に帰る途中。駅のホームで電車を待ちながら、私はふと思った。


この感覚は、「諦め」なのだろうか。それとも「割り切り」なのだろうか。それともただの「絶望」なのか。

答えは出なかった。ただ、かつての情熱が消え去ってしまったことだけは確かだった。燃え尽きたろうそくのように、灯りが消えた感覚。


電車が駅に滑り込んでくる。乗り込んだ車内は、疲れた表情の人々で溢れていた。みんな、同じような思いを抱えているのだろうか。それとも、私だけなのだろうか。

窓に映る自分の顔を見つめながら、私は決意した。このまま流されず、自分の道を見つけよう。この会社でなくても、自分の力を発揮できる場所はあるはずだ。


明日からも、仕事は続く。佐伯も、安藤課長も、そこにいる。けれど、もう私は傷つかない。なぜなら、期待していないから。

心の中で、あの信頼関係は完全に崩れ去った。そして、新しい何かが芽生え始めていた。それが何なのか、まだ形にはなっていない。けれど、確かに存在している。


未来への一歩。それは、まず古いものを手放すことから始まるのかもしれない。

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