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第五章「誰かの不幸を“娯楽”にする人間が、すぐ隣にいた。」

 いつもの午後、営業部のフロアで、池田くんがまるで小さな台風のように、慌ただしく右往左往していた。

 顔を真っ赤にし、額には脂汗を滲ませ、PCのキーボードを叩く手は震えている。書類の山を漁る指先は、焦りからか、紙をくしゃくしゃにしていた。


「どうしたんですか?」と、私が心配して声をかけると、池田くんは、今にも泣き出しそうな声で、絶望的に答えた。


「上司に提出する、明日の朝一番に必要な資料のフォーマットが、間違っていたみたいで……締め切りまで、あと、一時間しかないのに」


 そう言いながら、彼は、共有フォルダを血眼になって探していた。その様子に気づいた山田さんが、「私も一緒に探しましょう」と声をかけ、すぐさま、手伝い始めた。

 佐伯は、そんな二人の様子を、自分の席から、スマホを弄ぶ手を止め、心配そうな顔を作って眺めていた。普段の彼は、周囲の騒ぎには目もくれないはずなのに、今日は、その目に隠しきれない期待の色を浮かべ、まるでこれから何かが起こるのを待ち構えているかのように、じっと二人を見つめている。


 池田くんと山田さんは、焦りと不安に駆られ、共有フォルダの中を必死に探し回る。佐伯は、時折、目を細めて弧を描かせ、口元は心配そうに歪ませながら、内心で高揚する気分を抑え込むように、二人の狼狽ぶりを観察しているようだった。

 やがて、山田さんが、更新日時が古いファイルを見つけ、「これかな?でも、かなり古いバージョンのフォーマットみたいだ……」と、困惑したように呟いた時、突如、佐伯が、まるで思い出したかのように、席を立った。


「あの、すみません。実は、先月から、フォーマット、大幅に変わってるんですよ。そのフォルダじゃなくて、新しいやつは、もっと、別の場所にあります」


 パニック状態の池田くんは、まるで救いの手を差し伸べられたかのように、佐伯の言葉に食いついた。


「え、本当ですか!?どこにあるか、すぐに教えてください!」


 佐伯は、共有フォルダの奥深く、普段はほとんど誰も開かないような場所を、的確に指し示した。そして、数分後、池田くんは、山田さんと協力して、無事に、最新のフォーマットを見つけ出すことができた。


「佐伯さん、本当に、助かりました。よく、気づきましたね」と、山田さんが、心からの感謝を込めて、佐伯に声をかけた。


 その言葉に、佐伯は、まるで良い人であるかのように振る舞うのを見て、居合わせた人々は、少し、いや、かなり、戸惑ったかもしれない。普段の彼の、あまりにも無責任で、周囲への配慮に欠ける言動からは、想像もできないほど、積極的に他人を助ける姿は、まるで別人のようだったからだ。


 しかし、その言葉の裏側を知ったのは、翌日のことだった。


 私は、いつものように、気だるい朝の仕事を終え、ほっと一息つこうと、給湯室で、インスタントコーヒーを淹れていた。ドアが開く音がして、佐伯と高橋さんが、何やら楽しそうに話し合いながら入ってきた。


「あー、そうだ、昨日さぁ」


 佐伯が、片手にスマホを握りしめたまま、高橋さんに向かって、まるで面白い話でもするように、軽い調子で話し始めた。


「池田さんがさぁ、例の資料のことで、マジ、半泣きになってて」


 その声が、否応なく、私の耳に飛び込んできた。


 私は、コーヒーをカップに注ぐ手を止め、息を潜めて、二人の会話に耳をそばだてた。


「え?でも、佐伯くん、助けてあげてたよね?」高橋さんが、特に気にする様子もなく、何気なく尋ねた。


 佐伯は、まるで、自分の武勇伝でも語るかのように、高らかに笑い飛ばした。その表情は、自分の話に、高橋さんが興味を示してくれたことが、何よりも嬉しい、とでも言いたげだった。


「いや、最初は、自分には、全く関係ないと思ってたんで、まあ、ちょっと、面白そうだし、しばらく、様子でも、見てようかな、って思ってたんすよね」


 見てようかな、って——。


 つまり、彼は、池田くんが、どれほど焦り、どれほど困り果てているのかを、まるで、劇場で繰り広げられる悲劇でも鑑賞するかのように、面白がって、高みの見物を決め込んでいた、ということを、平然と、告白したのだ。


 私は、あまりの衝撃に、言葉を失った。


「でも、途中で、ふと思ったんですよね。あれ、もし、話が、"フォルダの管理体制"の話に飛んで、責任の所在を追及する、みたいな流れになったら、自分も、一応、フォルダの管理に、少しは、関わったことあるし、マジ、ヤバいかもなって。だから、仕方なく、池田さんに、声かけたんすよ」


 高橋さんが、特に驚く様子もなく、「ああ、そうだったんだ。それで、『よく気づきましたね』って、みんなに、褒められてたんだ」と、まるで、他愛もないことでも聞くかのように、相槌を打った。


 佐伯は、まるで、自分の狡猾な策略を、自慢げに語るかのように、さらに、笑い声を上げた。


「いや〜、だって、自分に、火の粉が降りかかってきそうだったんで。そうじゃなかったら、マジ、絶対に、助けたりなんて、しませんよ」


 私の手の中のコーヒーカップが、微かに、しかし、確かに、震えた。


 昨日、私は、みんなの前で、佐伯に向かって、「すごいね、よく見つけたね」と、心からの労いの言葉をかけた。


 しかし、彼の行動の真実は、そんな美談とは、かけ離れたものだったのだ。


 彼は、純粋に、池田くんを助けようとしたのではない。


 彼は、自分の立場が危うくなることを恐れたからこそ、仕方なく、行動を起こしたのだ。


 そうでなければ、彼は、池田くんが、どれほど追い詰められようと、知らんぷりを決め込むつもりだったのだ。


 驚くべきことに、佐伯の瞳は、まるで、生まれたての赤ん坊のように、透き通るほど澄んでいた。自分の言葉が、どれほど人間として、倫理観が欠如しているのか、微塵も自覚していなかったのだ。


(この人、本当に、終わってる……)


 私は、心の底から、そう思った。


 いや、前から、気づいていた。彼には、責任感なんて、これっぽっちもない、ということに。形式的な謝罪の言葉も、反省しているかのような態度も、すべて、口先だけの、空虚なものだ、ということに。


 しかし、まさか、ここまで、人間の心が欠落しているとは、想像もしていなかった。


 彼は、誰かが、苦境に立たされ、追い詰められている姿を見て、内心で優越感に浸っているのだ。自分に、少しでも、火の粉が降りかかってくる危険性がない限り、彼は、決して、助けようとはしないのだ。

 その上で、彼は、あたかも、自分が、慈悲深い救世主であるかのように、「よく気づきましたね」と、周囲から褒め称えられ、感謝されることを、心の中で、密かに、ほくそ笑んでいるのだ。

 それは、決して、「人を助けた」などという、高尚な行為などではない。単なる、「自分の保身」という、利己的な行動に過ぎないのに。


 その瞬間、私の中で、佐伯という存在が、生きた「人間」から、感情も、思考も、倫理観も持ち合わせない、「無」へと、急速に、変貌を遂げていくのが、はっきりとわかった。


 この人は、もう、何を言っても無駄だ。どんなに優しく接しても、どんなに厳しく叱責しても、どんなに丁寧に説明しても、彼の心には、何も響かないだろう。

 そもそも、誰かの苦しみを見て、嘲笑うことができるような人間に、仕事に対する責任感など、あるはずがないのだから。


 私は、静かに、音を立てないようにコーヒーカップを置き、給湯室を後にした。

 この、衝撃的な出来事をきっかけに、私は、もう、佐伯に対して、何の感情も抱かなくなってしまった。

 怒りも、呆れも、とうに通り越してしまった。彼という存在は、もはや、私にとって、関わる意味のない、無機質な「物」と、完全に同化してしまったのだ。


 佐伯は、今日も、いつものように、能天気な笑顔を顔中に貼り付け、自分の席に座っている。しかし、もう、彼の笑顔に、笑顔で応えようとする人間は、誰一人としていない。なぜなら、オフィスの住人全員が、ついに、気づいてしまったからだ。


「この人は、他人の不幸を自分の娯楽にして、自分のダメさを誤魔化そうとする、救いようのない、哀れな人間なのだ」と。



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