表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/20

第四章「誰の尻拭いか言えないまま、ルールだけが増えていく」

 朝の定例ミーティングが終わった後、資料の新しいフォーマットが配られた。配布資料を手に取りながら、部長の声が会議室に響く。


「今月から、見積書にはこの『提出ログ表』を添付してください」

「書類作成のたびに『自己確認チェックシート』を記入してください」

「念のため、提出前にチームリーダーのダブルチェックを挟んでください」


 ——また、始まった。


 心の中で苦々しくつぶやく。また、ルールが増えた。まるで、季節の移り変わりのように、定期的に、そして必然的にやってくるルールの増加。春には桜が咲き、夏には蝉が鳴き、そして会社では佐伯のミスがあるたびに、私たち現場を縛る新たな鎖が生まれる。


 見積書の信じられないような誤り、顧客へのメール誤送信、宛名の不一致、重要な資料の更新忘れ。


 原因は、常に、佐伯だった。表向きに彼の名前が名指しされることは決してなかったが、事の経緯を知っている人間ならば、一体誰の尻拭いをさせられているのか、一目瞭然だった。


 部長は、いつものように「ミス防止のため」と、もっともらしい説明をしていたが、その言葉の薄っぺらな裏側には「いい加減にしろ、佐伯対策」という、切実な本音が透けて見えていた。会議室の空気は、目に見えない重力に引かれるように、微妙に重くなった。誰も、露骨な文句を口にする者はいなかった。しかし、皆の表情には、微かな、しかし確実に蓄積された疲労感が、薄いヴェールのように漂っている。新人の山下さんでさえも、配られた書類の束を手に取りながら、耐えかねるように、小さくため息をついていた。


 紙の束を手に、私は自分の席に戻る途中で、やり場のない感情に押しつぶされそうになった。


(一体、どうして……)


 足取りが、鉛のように重くなる。


(どうして、ミスをした当の本人は、まるで痛痒を感じることなく、私たち周囲の人間だけが、ルールという名の見えない縄で、がんじがらめに縛られていくのだろうか?)


 ルールが一つ増えるたびに、私たち現場の貴重な作業時間が、確実に奪われていく。一枚の紙で済んでいたはずの書類が、今では三枚。上司の承認印をもらうために、フロアの端から端まで机を回る無駄な時間、チェックシートをわざわざ印刷して、手書きで項目を埋めていく煩雑な手間。そのすべてが、本来ならば必要のなかった、後始末のための作業だ。これまでなら、顧客への提案資料作成に集中できたはずの時間が、今は、意味のないチェック作業に浪費されていく。


 頭の中で、簡単な計算をしてみる。チェックシートの記入と確認に五分、上司のサインを待つ拘束時間に十分、提出ログ表への煩雑な入力に三分。一日に作成する書類が平均して三つだとすると、十八分×二十営業日……。一ヶ月で、実に六時間以上もの時間が、単なる「佐伯対策」という名の、無意味な足枷に費やされる計算になる。


 それでも、「これは、今後のミスを減らすための、必要な措置です」と、もっともらしく言われれば、私たちは、反論の言葉を見つけることすら難しい。「必要なことです」と、上から一方的に宣告されれば、ただ、従うしかない。皆、それが、この会社の暗黙の了解だと、骨の髄まで理解しているから、表面上は、誰も文句など言わない。


 でも……思っている。皆、心の奥底では、確実に、同じことを思っている。


「一体、どうして、あの男のせいで、こんなにも面倒なことを、私たち全員がやらなければならないんだ?」


 その、言葉にならない不満は、まるで、静かに、しかし確実に、オフィス全体に、見えない霧のように広がっている。昼食時の、言葉少なな会話、帰り際の、重い沈黙を伴う立ち話、業務連絡のメールの、行間から滲み出る諦念。どこにでも、やり場のない不満が、重苦しい空気となって漂っている。ベテランの森田さんは、新しい提出ログ表を睨みつけながら、小さく舌打ちをした。隣の山田さんは、増えたチェック項目を前に、ペンを持つ手が止まっている。


 書類を抱えたまま、私は、自分の席へと戻る。ふと、斜め向かいの、佐伯のデスクが、嫌でも目に入ってきた。


 彼は、モニターに背を向け、完全に私的な空間へと意識を遊ばせているかのように、スマホをいじっていた。その口元には、まるで、何か面白い夢でも見ているかのような、うっすらとした笑みが浮かんでいる。メッセージか、動画か。あるいは、くだらないネットニュースか。彼が見ているものが何なのかは、どうでもいい。ただ、それが、今、彼が、この時間に、この場所で、真剣に取り組むべき仕事とは、全く関係のないものである、ということだけは、明確にわかる。朝のミーティングで、私たち全員に、まるで重い枷のように配られたばかりの、新しいチェックシートは、彼のデスクの隅に、まるでゴミ屑のように、無造作に放り投げられていた。


 その、あまりにも無神経で、無責任な姿に、私の胸の奥で、これまで押し殺してきた何かが、今にも、音を立ててはじけ飛びそうになる。心臓の鼓動が、わずかに早くなり、手のひらが、じっとりと熱を帯びてくる。それは、激しい怒り、という単純な感情ではなく、もっと複雑で、どうしようもない感情の塊だった。この不条理に対する、拭いきれない無力感、この理不尽さに対する、深い諦め、そして、それでも、見て見ぬふりをすることしかできない、自分自身への、激しい苛立ち。


 ルールが作られた、その根本的な原因が、まさしく、目の前に、今日も何事もなかったかのように、平然と存在しているというのに。


 彼の、信じられないようなミスによって生まれたルールは、私たち、真面目に働く人間の時間を奪い、不必要なストレスを増大させる。しかし、肝心の、そのルールの生みの親である彼自身は、まるで、蚊に刺された程度の、取るに足りない影響すら受けていないように見える。むしろ、ルールが増えれば増えるほど、彼の責任は、曖昧になっていく。「ルール通りにやっていなかった」という、まるで他人事のような、組織全体の、構造的な問題へと、巧妙に、そして、ずる賢く、すり替えられていくからだ。


 自分のデスクに、重い足取りで腰を下ろし、冷たい感触のパソコンの電源を入れる。画面が起動するまでの、わずかな時間、私は、目の前にある、新しいチェックシートを、無言で見つめた。以前のバージョンよりも、明らかに項目が増え、さらに細かくなっている。まるで、私たち現場の人間を、より細かく監視し、管理するための、新たな手枷、足枷のように。


「加納さん、すみません。この、新しいチェック表、これで合っているか、念のため、確認してもらえませんか?」


 後輩の木村さんが、不安そうな声をかけてきた。手には、先ほど配られたばかりの、まだインクの匂いが残る、新しい様式の紙。慣れない手つきで、一生懸命、記入していたのだろう。真面目な彼女の書いた文字は、いくつかの箇所で、わずかに、しかし、確かに、震えて、曲がっていた。


 私は、疲れた声で「うん」とだけ言って、彼から、その頼りない紙の束を受け取った。木村は、この会社に入ってきてからずっと、まるで、増え続ける理不尽な重力と戦うかのように、増え続けるルールと、懸命に、そして、孤独に戦っている。彼女が、まだ知らない、そして、知る由もないのは、以前は、もっとシンプルで、もっと、人間関係における信頼という、目に見えない絆で成り立っていた、この職場の、温かい過去の姿だ。


(……もう、佐伯を、直接、責める気力さえ、残っていない)

(……でも、だからといって、こんな、歪んだ状況が、正しいとも思えない)


 責めるのは、もう、うんざりするほど疲れた。何を言っても、彼には、まるで、暖簾に腕押しのように、何も響かない、ということを、私は、嫌というほど、知っているからだ。しかし、だからといって、この、まるで、ゆっくりと進行する病のように、職場全体を蝕んでいく、この異常な状況を、ただ、黙って受け入れることも、私には、どうしてもできなかった。ルールが増えれば増えるほど、私たちの仕事は、本来の目的から、どんどん乖離し、形骸化していく。まるで、魂のない抜け殻のように、ただの「ルール遵守のための仕事」へと、変質していく。


 木村さんのチェックシートを、まるで間違い探しのように確認しながら、先ほどの会議室の、埃を被ったホワイトボードに、無機質な黒色のマーカーで書かれた「チェックフロー改定案」の文字が、私の脳裏に、冷たく、そして、重く蘇ってきた。あの、飾り気のない、無慈悲な文字が、まるで、私たち現場の悲鳴を嘲笑うかのように、やけに、冷たく、そして、無機質に見えた。


 増えていくのは、無意味な書類と、私たちを縛り付けるルールだけ。減っていくのは、同僚との間に存在した、ささやかな信頼と、この理不尽な状況に対する、静かに、しかし確実に沸騰しつつある、私たちの怒りの沸点だった。


 チェックシートを木村さんに返しながら、私は、心の奥底で、深く、そして、重い、諦めのため息をついた。窓の外は、どこまでも広がる、抜けるような青空だった。まるで、私たちの心の奥底に巣食う、鉛色の絶望を嘲笑うかのように。しかし、このオフィスの中は、目に見えない、重苦しい何かに満ちていた。その沈黙を破るように、斜め向かいの席から、佐伯が、やおら顔を上げた。木村のチェックシートをちらりと見て、彼はまるで親切な助言をするかのように、屈託のない笑顔で言った。


「あ、木村さん。新しいチェック項目、一番下の『添付資料との整合性』のチェック、まだついてないですよ。念のため、確認した方がいいっすよ」


 その言葉に、私の胸の奥で、堪えきれない怒りが、静かに、しかし確実に、燃え上がり始めた。まるで、ゆっくりと、しかし確実に、私の精神を蝕んでいく、悪性の腫瘍のように。

ブックマーク、★★★★★等で応援していただけると、励みになります。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ