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第三章「このまま、大きなトラブルでも起こらない限り」

 もう、彼に何かを期待している人間など、このオフィスには、誰一人として存在しなかった。

 それなのに、佐伯は、今日も、当たり前のように出社してくる。皮肉にも、誰もが心の奥底で「もう、二度と来ないでくれ」と、切実に願っているというのに。

 毎朝、まるで遊びに来るかのように軽い足取りで現れ、「おはようございまーす」と能天気な声を響かせる。


 そして、自分の席に座るとパソコンの電源ボタンを押し、起動を待つ間、まるでそれが仕事であるかのように、スマホを手に取り、熱心に画面に見入っている。パソコンの画面が、お決まりのデスクトップ画面を表示し始めても、彼はスマホから目を離そうとせず、ようやく起動が完了した頃に一瞬だけ顔を上げた。しかし、その顔はすぐにスマホへと戻される。


 彼が今、スマホの画面に釘付けになっているという事実が、それが「今、この瞬間に、彼がやるべきことではない」ということを、雄弁に物語っている。


 しかし、誰も、彼に何も言おうとはしない。


 何を言っても無駄だ、ということを、このオフィスの住人たちは、すでに、心の底から、深く、深く、悟ってしまっているからだ。


 入社から三ヶ月が過ぎた頃、私のすぐ隣の席に座る、物静かな後輩の木村さんが、昼休みが終わる直前、私の席にそっと近づいてきて、小さな声で話しかけてきた。


「藤原さん……」

「ん?どうしたの?」

「佐伯さんって……あの、もしかして、入社してから、ずっと、あんな感じなんですか?」


 木村さんの瞳には、深い困惑と、隠しきれない戸惑いの色が、複雑に混ざり合っていた。入社したばかりの新入社員とはいえ、彼女は、仕事熱心で、要領も良く、周囲の状況を的確に把握できる、聡明な女性だ。当然、同期の佐伯の、あまりにも異様な働きぶりを、常軌を逸した異常事態だと感じていたのだろう。


 私は、何と答えていいのかわからず、曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。


「ええ……まあ、最初から、ずっと、あんな感じ、かな……」

「そっかぁ……なんか、逆に、すごくないですか……?」

「逆に?」

「いや、だって、あれで、よく、クビにならないで、会社にいられるなって……普通、どこかのタイミングで、辞めさせられるじゃないですか」


 木村さんの、あまりにも率直な言葉に、私は、また、乾いた笑いを返すしかなかった。

 だって、私も、心の底から、全く同じことを思っていたからだ。

 佐伯の起こすミスは、もはや日常茶飯事だった。

 確認漏れ、伝達ミス、提出遅延、誤送信……

 彼が犯すミスの種類は、多岐にわたり、枚挙に暇がない。そして、それらのミスに気づき、修正するのは、いつも、私たち、彼の同僚の役目だった。


 佐伯本人は、自分の犯したミスに気づいていながら、見て見ぬふりを決め込むか、あるいは、そもそも、自分がミスを犯したことすら、全く気づいていないか、どちらかだった。

 しかし、誰も、彼を、強く叱責しようとはしない。

 なぜなら、彼を叱ったところで、疲弊するのは、いつも、私たち、叱る側の人間だからだ。


 一ヶ月ほど前、課長の安藤さんが、ついに堪忍袋の緒が切れたように、佐伯を呼び出し、こんこんと説教をしたことがあった。


「君は、入社してから、一体、何回、同じミスを繰り返しているんだ?少しは、自分の行動に、責任と自覚を持ってもらわないと、本当に、困るよ」


 安藤課長は、珍しく、厳しい口調で、そう言った。

 佐伯は、いつものヘラヘラとした笑顔を引っ込め、殊勝な面持ちで、小さく頷いた。


「はい。わかってます。気をつけます。すみません」


 その、あまりにも「真面目な顔」が、まるで、砂漠に染み込む一滴の水のように、殺伐としたオフィスに、ほんの一瞬だけ、奇跡的な潤いをもたらした。


「ほら、やっぱり、あいつも、ちゃんと反省してるじゃないか」


 誰もが、そう思った。誰もが、そう信じたかった。

 しかし、その希望は、あっけなく打ち砕かれることになる。

 なぜなら、その一週間後には、佐伯は、まるで叱られた時のことなど、すっかり忘れてしまったかのように、再び、全く同じミスを、何食わぬ顔で、堂々と犯していたからだ。


 そして、安藤課長は、といえば……


「まあ、まだ若いし、これから、少しずつ、成長してくれるかもしれないし。もう少し、長い目で、様子を見ていこうよ」


 そう言って、結局、私たち現場の人間だけに、この、手に負えない問題児の面倒を、丸投げするだけだった。



 ある日の昼休み、私は、同期の田中さんと、会社の近くにあるカフェでランチをした。

 その日の会話の半分以上が、佐伯の話題で埋め尽くされた。


「正直、もう、佐伯くんに、何かを言うこと自体、疲れちゃったよね」


 私が、深いため息混じりにそう言うと、田中さんも、心底うんざりした表情で、深く頷いた。


「うん、わかる。もう、何を言っても無駄だって、心の底から、悟っちゃうと、人間って、本当に、諦めるんだなって、改めて実感したよね」


 田中さんは、目の前に置かれたコーヒーをゆっくり啜りながら、苦虫を噛み潰したような顔で、小さく呟いた。


「このまま、佐伯くんが、会社を揺るがすような、大きなトラブルでも起こさない限り、たぶん、この状況、ずっと、変わらないままなんだろうね」


 そう言った彼女の表情には、深い諦めと共に、まるで、乾ききった大地が、恵みの雨を待ち望むかのような、微かな、しかし、確かな期待めいたものが、奇妙に同居していた。

 それは、おそらく、このオフィスの住人全員が、心の奥底で、ひっそりと抱いている、しかし、普段は、決して口に出して言うことのない、「本音」だった。


「願わくば、佐伯くんが、会社を震撼させるような、とんでもない大事故を、盛大に、やらかしてくれますように……」


 そうすれば、ようやく、重い腰を上げ、見て見ぬふりを決め込んでいる会社も、私たちを苦しめ続けるこの異常事態を、何とかしようと、本気で動き出してくれるかもしれないから。

 もちろん、誰も、佐伯に、本当に、そんなことをしでかしてほしいなどとは、微塵も思っていない。

 しかし、今の私たちには、もはや、それくらいしか、この膠着状態を打破し、現状を良い方向に変化させるための、希望の光が見当たらないのだ。


 つい先週のことだ。後輩の木村さんが、提出期限が間近に迫った重要な資料が見つからない、と、大慌てで探し回っていたことがあった。

 佐伯は、自分の席から、その様子を、ただ黙ってじっと観察していた。その表情は、どこか、状況を面白がっているように、目が輝いていた。


「佐伯さん、この資料、どこにあるか、知りませんか?」


 木村さんが、藁にもすがる思いで、佐伯に尋ねても、彼は、「いや、わかんないです」と、まるで他人事のように、素っ気なく答えるだけだった。


 ところが、そこへ、安藤課長が通りかかり、「佐伯も、少しは、木村さんの手伝いをしてあげなさい」と、軽い調子で指示した途端、佐伯は、まるで、スイッチが入ったロボットのように、急にテキパキと動き始めた。


「どこまで探しました?手伝いますよ!」


 先ほどまでとは、まるで別人のように、熱心に資料探しを手伝う佐伯の姿を、私は、冷めた目で眺めながら、心の中で、深く、深く、首を横に振った。

 結局、こいつは、上司からの指示がなければ、絶対に動こうとしないのだ。チームの一員として、協力し合い、助け合う、という意識が、決定的に欠落しているのだ。


 その日の夕方、私は、給湯室で、一人、コーヒーを淹れている佐伯の姿を、偶然、見かけた。

 彼は、紙コップを片手に持ち、もう片方の手でスマホを操作しながら、何やら、気持ち悪いくらい、ニヤニヤと笑っていた。


 その顔を見た瞬間、私の心の奥底から、これまで経験したことのない、どす黒い感情が、マグマのように、激しく噴き上がってきた。


 殺意——。


 正直に言えば、私は、あの時、心の底から、佐伯に、今すぐ、このオフィスから、私の視界から、永遠に消え失せてほしい、と、強く、強く願った。


 しかし、私の口から、実際に発せられた言葉は、それでも——


「お疲れさま」


 だった。

 自分でも、情けなくなる。

 ここまで、ひたすら、耐え忍び、ひたすら、笑顔を貼り付け、ひたすら、仕事をこなし、

 それに見合うだけの、感謝の言葉も、ねぎらいの言葉も、労いの言葉も、何一つ受け取ることもなく、

 それどころか、ストレスという、目に見えない、しかし、確実に私の心と体を蝕んでいく、毒のようなものだけを、大量に抱え込みながら、毎日、生きているというのに。

 それでも、私は、佐伯に対して、反射的に、儀礼的な言葉を吐き捨ててしまうのだ。


「お疲れさま」って。


(本当に、私は、バカみたいだ……)


 私はもう、佐伯の犯したミスを、一つ、また一つと修正するたびに、自分の寿命が、一日、また一日と、確実に、しかし、静かに、削り取られているような気がしていた。



 ある日の昼休み、私は、いつものように、窓際の席でお弁当を広げていた。すると、すぐ隣のテーブルで、営業部の高橋さんと、経理部の山田さんが、深刻そうな表情で、何やら話し込んでいるのが聞こえてきた。


「ねえ、佐伯くんってさ……」


 高橋さんが、まるで、何か、恐ろしいものでも見るかのように、声をひそめて言った。


「今度の合同企画に、無理やり、参加させられることになったんだって?マジで、大丈夫なの?」


 山田さんが、大袈裟なほど大きく肩をすくめて、呆れたように言った。


「課長命令らしいよ。『佐伯くんにも、良い経験になるからね』だってさ」

「はあ?でも、安藤さん自身は、絶対に、佐伯くんのフォローなんて、する気ないよね?」

「そりゃ、しないよ」


 二人は、顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。


「いつもの通り、全部、私たち現場の人間任せ、ってことだろ」


 私は、二人の会話に耳を傾けながら、熱いコーヒーを、苦いと感じることなく、機械的に口に運んだ。

 この、異常としか言いようのない状況下で、また、佐伯を、重要な合同企画のメンバーに加えるなんて……。しかも、安藤課長は、いつものように、何の責任も取ろうとしない。


 誰かが、強く、はっきりと「NO」と言わない限り、佐伯は、まるで、何もなかったかのように、これからも、このオフィスに居座り続け、私たちを苦しめ続けるだろう。


 それが、何よりも、恐ろしかった。


 佐伯のデスクの前を通りかかったとき、彼のパソコンの画面が、たまたま、私の視界に入った。


 メールソフトが起動しており、表示されていたのは、件の合同企画に関する、重要な情報が記載されたメールだった。


 そして、そのメールの文末には、送信者である、先週、別の部署に異動したばかりの山本さんの名前と共に、こう、はっきりと書かれていた。


「お手数ですが、このメールを、合同企画チームのメンバー全員に、転送していただきますよう、お願いいたします」


 日付を見ると、三日前。


 ——つまり、佐伯は、このメールを、チームの誰にも転送せず、三日間も、放置していたのだ。


「佐伯さん、ちょっと、いい?」


 私は、足早に歩み寄って、彼のデスクの前で立ち止まり、彼のパソコンの画面を指差した。佐伯は、少し、驚いたような顔で、私を見上げた。


「あ、これ、何ですか?」


「このメール、合同企画チームのメンバー全員に、転送するように、山本さんから、頼まれているようだけれど、私には、届いていないけど?」


「あ〜、すみません。山本さんから来たんですけど、誰に送ればいいのか、よく、わからなくて……」


 言い訳をしながら、彼は、慌てた様子で、転送操作を始めた。


「それ、三日前の日付だよね?どうして、三日間も、放置していたの?」


「いや……あの、山本さんが、ちゃんと、誰に送ればいいのか、説明してくれなかったんで。あっちの問題っすよ。あと、自分も、ちょっと、忙しかったんで……」


 もはや、単なるミス、というレベルを遥かに超えた、故意に近い怠慢。しかも、いつもの悪い癖で、自分の非を認めず、平然と、他人のせいにしている。しかし、私は、深く追求するのを、やめた。


 彼の行動を正そうとして、何度も何度も、根気強く、声をかけてきた。


 しかし、結局、それは、私自身の心身を、ただただ、無意味に消耗させるだけの、徒労に終わった。


 次第に、私の心は、静かで、深い、諦観の色に染まっていった。


 毎朝、佐伯が繰り返す、能天気な「おはようございまーす」も、


 夕方、私が、半ば反射的に口にする、「お疲れさまです」という言葉も、


 それらの言葉に応えること自体が、どこか、虚しく、無意味な行為のように感じ始めていた。

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