第二章「この人がいないだけで、呼吸ができる気がした」
胸糞がしばらく続くので完結してから見るのがスッキリすると思います
就職して二ヶ月目。佐伯は、すっかり職場に馴染んでいるようだった。
いや、「馴染んでいる」という表現は、正確ではないかもしれない。彼は、オフィスという空間に、ぬるま湯のような居心地の良い「自分の場所」を、ちゃっかりと確保した、と言うべきだろう。
彼は、それなりに空気を読むことができる。少なくとも、表面的には。否定的な態度を露骨に示したり、悪意を剥き出しにしたりはしない。
だが、あの異様に近い距離感と、徹底的なマイペースぶりは、相変わらずだ。いや、むしろ、さらに悪化していると言ってもいい。彼は、自分のペースでできることだけを器用にこなし、面倒なことや責任の重いことは、巧妙に避ける術を身につけたようだった。まるで、ずる賢い子どものように。
ある水曜日の午後、営業担当の高橋さんから、内線電話がかかってきた。彼の声のトーンからして、何か穏やかでない事態が起こったことは、すぐにわかった。
「藤原さん、すみません。佐伯くんから送られてきた見積書のファイル、確認されていましたか?」
「え?見積書、ですか?どの案件の?」
「A社の新規案件です。見積書のデータが、佐伯くんから直接送られてきて……念のため、恐る恐る開いてみたら、先方の会社名が、盛大に間違っているんです」
私は思わず息を呑んだ。その見積書作成の案件は、佐伯に任せていたはずだ。しかも、特に、会社名の表記に間違いがないか、細心の注意を払って確認するように、念を押して伝えていた。
「佐伯さんが担当ですよね?いつ送られてきたんですか?」
「ついさっき、送られてきました。あれ、藤原さんを通してないんですか?」
高橋さんの声には、明らかに困惑の色が滲んでいた。本来であれば、私が最終チェックをするはずだった重要な資料を、佐伯が勝手に、直接、営業部に送りつけていたのだ。
「幸い、先方にはまだ送ってません。念のため確認してよかった……」
「ありがとうございます、高橋さん。本当に助かりました」
電話を切り、私は、スマホを握りしめ、何やらニヤニヤと笑っている佐伯の席へと向かった。
「佐伯さん、A社の見積書について、少し、話してもいい?」
「え?なんすか?」
彼は、ようやくスマホから顔を上げた。その表情には、まるで他人事のような、微塵の焦りも困惑もない。ただ、無邪気な好奇心だけが、能天気な笑顔に貼り付いていた。
「高橋さんから連絡があったんだけど、見積書の会社名が、間違っていたんだって。修正するように、何度も言っておいたはずだけど?」
佐伯は、一瞬、私から目を逸らした。そして、いつものように、小さく肩をすくめ、申し訳なさそうな表情を浮かべた。いわゆる、「反省のポーズ」だ。
「すみません。ちゃんと直したつもりだったんですけど……」
「つもりだった」——この言葉を耳にするたび、私の心臓の奥深くで、何かが軋むような、不快な音が響く。
彼は、実際には、何もやっていなかったのだ。
でも、自分が「やっていない」という自覚も、罪悪感も、まるで持ち合わせていない。作業履歴をつける、といった、社会人として当たり前の発想すらないようだった。
彼の中に存在するのは、ただ、ぼんやりとした、「やったつもり」という、無責任な言い訳だけなのだ。
「それと、どうして、私にチェックさせずに、直接、高橋さんに送ったの?」
「え?チェック、必要だったんですか?」
彼の顔には、心底驚いているような表情が浮かんでいた。しかし、実際には、見積書を完成させたら、必ず私に確認を求めるように、何度も、口を酸っぱくして伝えていたはずだった。
「……もちろん、必要だよ。特に、修正が入った場合は。まだ、高橋さんが確認してくれたからよかったけど、もし、あのまま先方に送られていたら、会社の信用問題に関わる事態になっていたかもしれないんだよ?」
「すみません……」
佐伯は、小さく頭を下げた後、すぐに、いつものヘラヘラとした笑顔に戻った。
「でも、僕、こういう細かい作業、マジで苦手なんですよねえ。いつも、細かいところ、見落としちゃうんす……」
そう言いながら、彼は軽く笑って、肩をすくめた。まるで、「仕方ないっすよねえ?」とでも言いたげな、甘ったれた態度だった。
私は、深く、ゆっくりと息を吸い込み、改めて、問題の見積書を開いた。見積書のヘッダーには、確かに、信じられないほど間抜けな間違いで、先方の会社名が記載されていた。しかも、赤字で大きく「要修正」と書いておいた、まさにその箇所が、間違ったままだった。
「これから、私が修正するから、少し、自分の席に戻っていてくれる?」
そう伝えたが、彼は、まるで私の言葉など聞いていないかのように、その場を動こうとしなかった。代わりに、修正版の見積書を作成する私の背後に、ぴったりとくっついてきた。画面を覗き込むようにして、私の作業をじっと見ている。何かを学ぼうとしているのかと思ったが、その表情は、単に珍しいものを見ているかのような、軽い興味を示しているだけで、メモを取るわけでも、質問をするわけでもなく、ただ、ぼんやりと眺めているだけだった。
「あー、そうやって直すんですね。ほんと、ごめんなさい」
その言い方には、微塵も反省の色が見られない。まるで、「甘えれば、許してもらえるでしょ?」とでも言いたげな、図々しささえ感じられた。さらに、言葉とは裏腹に、彼はすでにスマホを手に取り、熱心に画面をスクロールし始めていた。
佐伯に修正させようか、という考えが一瞬頭をよぎった。しかし、彼に任せれば、さらに時間がかかり、ミスの連鎖を招き、会社の信用を著しく低下させるという、最悪の事態になりかねない。そうなれば、結局、私が全てやり直す羽目になるのは、火を見るよりも明らかだった。
実際、私は、もうほとんど彼に仕事を任せることがなくなっていた。彼に任せれば、必ずと言っていいほど、何らかのミスが発生し、結局、誰かが最初からやり直すことになるからだ。
その日の夕方、同僚の鈴木さんが、私のデスクに近づいてきて、申し訳なさそうな表情で言った。
「藤原さん、また、佐伯くんのフォロー、したんだって?本当に、大変だね」
「ええ、まあ……今回は、幸い、先方には送られずに済んだけど」
「佐伯くん、ミスは多いけど……まあ、悪気はないし」
「本人も、ちょっと、あの、変わってるだけ、だしね」
鈴木さんの表情は、どこか、諦めにも似た、複雑な感情を滲ませていた。
みんな、心の奥底では、気づいているのだ。
佐伯は、「変わっている」のではない。「変わろうとしていない」のだ、ということに。
しかし、誰も、そのことを、はっきりと口に出して言おうとはしない。
言ったところで、何も変わらない。彼が変わろうとしない限り、状況は何も変わらない、ということを、みんな、心のどこかで悟っているからだ。
だから、誰もが、見て見ぬふりをする。見て見ぬふりをすることで、自分の精神の均衡を、辛うじて保っているのだ。
「でも、まだ、大学出たばっかりだからね」と、鈴木さんは、まるで自分に言い聞かせるように、小さな声で続けた。「みんなで、長い目で、育てていかなきゃいけないんだろうね」
その言葉に、私は、何も答えることができなかった。
「育てる」——その言葉が、私の心に、鉛のように重くのしかかったからだ。
育つ気のない人間を、一体、どうやって育てればいいのだろうか。
そんな、重苦しい会話を交わした次の日、営業部の高橋さんが、申し訳なさそうな顔で、私のデスクにやってきた。
「藤原さん、本当に申し訳ないんだけど、正直、A社の案件の担当は、佐伯くん以外の人に、代わってもらえないかな……?」
彼の声は、いつになく小さく、遠慮がちだった。
「ええ、もちろん、構いませんよ」
「ありがとう……本当に、ごめんね。でも、あの見積書を見て……さすがに、ちょっと、心配で。A社は、うちにとって、すごく重要な取引先だし……」
佐伯の度重なるミスによって、ついに、営業部からの信頼も、失われ始めていた。
その翌日、部内回覧の書類に、信じられないような記入ミスがあった。明らかに、佐伯の筆跡だった。中村さんが、彼に確認した。
「これ、自分で書いたの?」
佐伯は、書類に一瞬だけ目を走らせ、まるで記憶にない、といった様子で、首を横に振った。
「いや、僕じゃないと思いますけど……」
それを聞いた私たちは、全員、言葉を失った。あれほど特徴的な、彼の筆跡に、見間違えるはずがないのに。
(いや、お前だよ。なんで誤魔化せると思ったんだよ)
そう、心の中で叫びながらも、誰も、その言葉を口に出すことはできなかった。
もはや、彼に責任を押し付ける気力さえ、残っていなかったのだ。
しかし、その日を境に、私たちは、佐伯のことを、完全に「信頼して仕事を任せる」という選択肢から、除外することにした。
大きな案件は、絶対に彼には回ってこない。
関係各所との重要なやり取りは、私や、他のメンバーが、代わりに担当する。
事務的な作業でさえ、彼に任せるのは、必要最低限のことだけに留める。
しかし、彼は、そんな私たちの変化に、全く気づいていないようだった。
いや、正確には、「気づかないふりをしている」のかもしれない。あるいは、本当に、心の底から、何も気づいていないのかもしれない。もはや、私には、彼が何を考えているのか、全くわからなかった。
むしろ、彼にとって、今の状況は、理想的なのかもしれない、とさえ思えた。仕事は減り、誰も彼に期待しない。彼は、その空いた時間を利用して、心置きなくスマホをいじったり、好きなお菓子を摘んだりして、のんびりと過ごせばいいのだ。
「できないふり」をすればするほど、彼の肩の荷は、どんどん軽くなっていく。彼は、それを、狡猾なまでに計算し、狙っているのではないか、とさえ思えるほどだった。
彼は今日も、自席で、意味ありげにファイルを開いたまま、ぼんやりと固まっている。
そして、ほんの数分後には、もうスマホを取り出し、熱心に画面に見入っている。
そこにいるのに、まるで働いていない。
そこにいるのに、まるで責任がない。
そこにいるだけで、オフィスの空気を、鉛のように重くする。
彼の存在そのものが、害悪だった。
ある日、課長の安藤さんが、私の席に立ち寄った。
「藤原さん、佐伯くんのこと、どう?何か、少しは、進歩、あったりする?」
私は、一瞬、言葉に詰まった。
「正直に申し上げますと……あまり、変化はない、と言わざるを得ません……」
安藤さんは、小さく、疲れたようなため息をついた。
「まあ、そうだよね。人それぞれ、得意不得意があるからさ。そのうち、彼ができることも、見つかるかもしれないし。焦らず、もう少し、様子を見ていこうよ」
そう言いながら、安藤さんは、すでに次の予定に向かおうとしていた。何の具体的な解決策も提示せず、結局は、私たち現場の人間だけに、この問題を丸投げする気満々の彼の態度に、私の心は、さらに深く、重い疲労感に沈んでいった。
「じゃあ、よろしく頼むよ」
最後に、まるで他人事のような、無責任な言葉を吐き捨て、安藤さんは、さっさと立ち去ってしまった。
こんな夢を見た。
その夢の中で私は、誰もいない、静まり返ったオフィスで、一人、黙々と書類を整理していた。
佐伯が、いない。ただ、それだけのことで、夢の中の私は、現実では決して味わうことのできない、信じられないほどの開放感と、心の底から湧き上がるような安堵感に包まれていた。
目が覚めたとき、あの夢のような光景が、現実ではないことに気づき、私は、まるで全身の力が抜け落ちてしまったかのように、深い絶望感に苛まれた。
「誰か、私を、この悪夢から、助け出してほしい……」
そう、心の奥底で、何度も何度も叫びながらも、誰も、本当の意味で、私を救い出してはくれないのだということを、私は、すでに、心のどこかで悟ってしまっていた。
上司は、「そのうち、彼ができることも見つかるかもしれない」と、他人事のように言いながら、自分では、何一つ具体的な行動を起こそうとしない。
同僚たちは、「佐伯くんって、ちょっと、変わってるよね」と、まるで伝染病患者に接するかのように、私と佐伯との間に、目に見えない距離を置き始めている。
この、まるで宇宙からやってきたかのような、理解不能な問題児を、一体、どうすればいいのだろうか。
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