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社内チャットツールの一角に、新しく追加された項目がある。


その名も「アノニマス・レポートBOX」。


形式は至ってシンプル。


誰が、何に、どのように困っているかを、匿名で投稿できる。


直属の上司を通す必要もなければ、所属部署すら伏せることができる。


AIと人事のハイブリッド審査により、悪質な誹謗中傷は自動的に除外されるが、それ以外の「現場の声」は、すべて人事担当者のもとに届き、内容に応じたフィードバックが該当部署へと送られる仕組みになっている。


導入当初は、誰もが「どうせ誰も使わない」と思っていた。

この会社では、「声を上げることは得策ではない」と、皆が経験的に理解していたからだ。


だが、蓋を開けてみれば、最初の週だけで数十件の報告が寄せられた。


──「〇〇さんに確認しても、毎回“知らない”と言われます。実は資料を破棄されているのではないかと疑っています」


──「A課長の言葉遣いがきつすぎて、何人も泣いて辞めています」


──「ミスの指摘をその都度してもらえず、“あとでまとめて怒る”スタイルです。毎日、怯えながら仕事しています」


書き込まれていたのは、パワハラやセクハラといった明確な不正だけではなかった。


むしろ、“業務の隙間”に潜んでいた小さな圧力や、不安の芽、そして長年見て見ぬふりで保たれてきた、澱んだ職場の空気そのものだった。


***


「で、今日も1件、うちの部宛にフィードバック来てました。“共有ファイルの扱い”に関する報告」


木村が、藤原に印刷された紙を手渡す。淡々としたフォントで綴られた文章には、改善案と、それに対する人事の冷静なコメントが記されていた。


「これ……すごいですよね。誰が書いたかわからないのに、ちゃんと改善アクションまで出てくる」


藤原は、思わず感心したように頷いた。


「しかも、報告者が自分の部署の人間だってバレないよう、かなり工夫されてるみたいです。“報告ありがとう通知”だけが、匿名で戻ってくるとか」


「“見て見ぬふりをしない”って、こういうことなんでしょうね」


藤原の声には、少しだけ安堵が混じっていた。


「声を上げなくても、誰かがちゃんと拾ってくれて、動いてくれる。“告げ口”じゃなくて、“職場を守る行動”として認識される。それが制度になった」


木村もうなずいた。


「しかも、通報件数って、業務改善スコアとして加点対象なんですよ。報告された側が“対応した”ことが評価になる。もう、“声を上げること”が悪じゃなくなったんです」


その表情は、どこか誇らしげだった。


「なんていうか、怖がらなくていい会社になってきましたよね」


とはいえ、すべての人がこの変化を歓迎しているわけではなかった。


会議室の隅では、安藤課長が人事の担当者に、低い声で詰め寄っていた。


「こんな匿名で言いたい放題できる制度を作って、現場はどうなるんだ? 管理職の指導権を侵害する気か?」


その顔は険しく、制度に対する強い不満が露わになっていた。


***


午後の終わり。


木村は、新人の吉澤から、小さな声で、それでいてどこか決意を感じさせる相談を受けた。


「木村さん……この入力ミス、やっぱり自分の責任だと思うんです。ちゃんと確認していれば防げたのに。でも、今さら言い出すのが怖くて……」


以前の木村なら、こう答えていたかもしれない。


「すぐに上司に報告しよう。正直になった方が、君のためだよ」


それが“正しい言葉”であると、何の疑問も持たずに。


けれど今の木村は、吉澤の怯えたような瞳をまっすぐに見つめ、穏やかな声で言った。


「大丈夫。今からでも遅くないよ。正直に言ったからって、評価が下がることはない。むしろ、逃げずに向き合ったってことが、ちゃんと伝わるから」


吉澤の目が、驚きで少しだけ見開かれた。


——そんなふうに言ってもらえるなんて、思ってもみなかった。


まるで、心の奥にぽつんと灯る、小さな光のようだった。


***


かつてこの会社に蔓延していたのは、


「正直に言うと損をする」

「黙っていればそのうち忘れられる」

「誰かがどうにかしてくれる」


そんな、“空気”と呼ばれる見えない圧力だった。


でも、今は違う。


誰もが「誰か」に頼るのではなく、「この場所」を自分たちの手で変えようとしている。


“知らないフリをしない”ということは、


誰かを責めることじゃない。


一緒に前を向くことを、選ぶということ。


そして、その小さな一歩が、また次の一歩を生み出し、


職場を「ただ働く場所」から、


誰もが安心して「働き続けられる場所」へと、


温かく、静かに、変えていくのだ。

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