4
春の終わりを感じさせる、どこかぼんやりとした午後。
藤原悠子は、部署の会議室で開かれていた「業務改善フィードバックミーティング」に出席していた。
議題はいつもの通り、月次の進捗確認、業務効率化の提案、社員のストレスヒアリング、そして最後に——
「相互フォローと貢献度の可視化について」。
かつてなら、こんなテーマは冗談のように受け流されていただろう。
「誰が誰を助けたかなんて、数字にできるわけがない」
「見えない努力なんて、どうせ報われないし」
そんな冷めた声が、当然のように会議室を支配していた時代があった。
でも、今は違う。
会社は、確かに変わり始めていた。
***
「今回の制度改定で、チーム内でのサポート履歴は“連携貢献スコア”として評価に反映されます」
人事部の川島がそう説明し、壁に投影されたスライドを指差す。
そこには、個々の社員が誰にどれだけ助言・支援を行ったかを記録した、シンプルなマトリクス形式のグラフが映し出されていた。
「たとえば藤原さん。今期、新人の吉澤さんに対するOJT支援の記録が、木村さんや岡田さん、そして山本さんからも複数回報告されています。記録も具体的で、非常に好印象です」
その場が、わずかにざわついた。
これまで、「評価」とは成果を出した者、もしくはミスをしなかった者にだけ与えられるもので、裏方に徹した人の貢献が表舞台に上がることなど、ほとんどなかった。
しかし今、それが堂々と「評価理由」になる。
川島は、言葉を続けた。
「もちろん、結果を出した人の評価も重要です。ただし、結果だけを追うあまり周囲に過度な負担をかけている場合には、そのマイナスも記録されます。“自分さえよければいい”ではなく、“皆と進む”姿勢こそ、これからのスタンダードになります」
誰か一人のヒーローが黙って周囲を支える時代は、終わったのだ。
その言葉に、腕を組んで黙って聞いていた安藤課長の表情が、一瞬だけ歪んだ。
「……まあ、そういう評価も、一部には必要だろうな」
誰に聞かせるでもない、低い声でぽつりと呟いたその表情には、制度改革によって自身の過去の“見て見ぬふり”や“特定社員の甘やかし”が明るみに出ることへの、苛立ちと不安がにじんでいた。
***
ミーティング後。
藤原は、社内のカフェスペースでコーヒーを手に、木村にぽつりと話しかけた。
「……昔はね。どれだけ人のために頑張っても、“あの人は優しいからやってくれる”で終わるのが普通だったの。誰かの代わりに残業しても、ミスを直しても、感謝もされないし、“助かる〜”って軽く流されて……それでも、そういうものだって思おうとしてた」
木村は、手元の紙コップを軽く回しながら静かに言った。
「俺、知ってますよ。藤原さんが、ずっと“見えないヒーロー”だったって。たぶん、誰よりも見てました、みんな」
藤原は、少しだけ目を伏せて微笑んだ。
「ようやく、“そういう人”が、ちゃんと評価される仕組みができたんだなって、今日思ったの。私が褒められたことが嬉しいんじゃなくて、それを“仕組みとして評価する”っていう会社の姿勢が、嬉しかったの」
木村はしばらく黙ったあと、ふっと笑って言った。
「今の会社、ようやく“ちゃんとした大人”を守るようになった気がしますね」
カフェの隅では、安藤課長が人事部の川島を呼び止めて、何やら低い声で話していた。
「……そんなことまで評価するのかね? 仕事は結果がすべてだろう」「余計な仕組み入れて、現場を混乱させるなよ」
周囲を警戒するようにひそひそと話していたが、その中身は、制度改革に対するあからさまな抵抗そのものだった。
***
孤独に戦ってきた人の背中を、誰かがそっと押す。
それだけで、救われる心がある。
それだけで、また前を向ける力になる。
評価されるのは、強くて声の大きな人間ではなく、誠実に積み重ねてきた人間であること。
それは、職場にとっても、そこで働く人間にとっても、革命だった。
だが、その革命の道のりが平坦ではないことを、安藤課長の存在が静かに物語っていた。
——変わりゆく風景の中で、変わらない者が、最も取り残されていくのかもしれない。
ブックマーク、★★★★★等で応援していただけると、励みになります。