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社内掲示板の片隅。いつもは業務連絡やイベント告知のチラシで埋め尽くされているその一角に、最近になってひっそりと、しかし確かに存在感を放つものがある。
それは“匿名意見BOX”のQRコードが印刷された、ただの白いコピー用紙。その上には、手書き風のフォントでこう書かれていた。
「小さな違和感も、組織の未来を変える一歩になります」
それは、この会社で初めて、「自分の身を守ることなく率直な意見や不満を表明すること」が、公式に推奨された瞬間だった。かつて重苦しい沈黙が支配していた職場に、小さく、しかし確かな変化の兆しが訪れていた。
***
「……ねえ、さっきまた山田さん、あの子に小声で何か言ってなかった?」
昼休み、人気のない休憩スペースの隅のソファで、総務の井上が紙コップのコーヒーをそっと口に運びながら、独り言のようにつぶやいた。表情には、いつもの明るさはなく、どこか不安げな陰が差していた。
「“質問が多すぎる”って、新人の吉澤くんに、またちょっときつく注意してたね」
向かいに座る経理の岡田は、戸惑いながらも静かにうなずいた。
「吉澤さん、一生懸命メモ取ってただけなのに……。あれはちょっと、理不尽だったと思う」
井上は辺りを気にしながら声をひそめた。
「でも……面と向かっては言えないんだよね。あの人、時々すごく感情的になるから」
岡田も、重く息を吐いた。
「うちの部署じゃないし……“余計な波風立てるな”って、先輩に言われたことあるから」
二人の間に、沈黙が落ちる。
かつてのこの職場では、そういった“小さな横暴”が、まるで空気のように日常に溶け込んでいた。誰もが不満を感じながら、それを口にしないことこそが“大人の対応”だとされていたのだ。
しかし今は、違う。
岡田は、決意したようにスマホを取り出し、先週掲示板で見かけたあのQRコードを静かにスキャンした。
表示されたのは、匿名通報フォーム。画面の最上部には、こう書かれていた。
「内容は部署をまたいで自動集計され、悪質な言動に関しては人事・総務が正式に対応します」
その一文は、まるで希望の光のように岡田の目に映った。
——これは、ただ我慢するだけの、無意味な自己犠牲じゃない。
——これは、この職場を少しでも良くするための、小さくても確かな行動なんだ。
岡田は、震える指先で、今日見た山田の高圧的な態度について、詳細に書き込んだ。
「新人への高圧的な態度が続いています。本人は明らかに萎縮しており、質問することすらためらっている様子が見られます。これは成長の妨げになっていると感じます」
そして、送信ボタンを、そっと、しかし決意を込めて押した。
その手はわずかに震えていたが、それは後ろめたさではなく、「この小さな行動が、誰かの助けになるかもしれない」という、確かな思いからくるものだった。
***
一週間後——。
営業部の山田は、人事部長の真剣な顔を前に、薄く冷や汗をにじませていた。
「業務上の指導方法について、いくつか確認したいことがありまして」
形式上は“確認”という名の面談だったが、彼自身、心当たりのある言動はいくつもあったのだろう。特定の名前が出ることはなかったが、山田はいつものような強気な態度を見せなかった。
「最近、部下への指導が厳しすぎるという声が届いています。ご自身の指導方法を見直していただき、今後は言葉遣いや態度により一層注意を払ってください」
ほんの数分間の、短い、しかし重い注意。
それは、これまで誰にも届かなかった“誰かの声”が、ようやく会社という仕組みの中で、正式に受け止められたことの証だった。
***
数週間後、部署内のささやかな送別会の帰り道。
藤原は、隣を歩く岡田に、何気ない調子でふと話しかけた。
「岡田さん、最近の吉澤くん、少し明るくなったよね」
それは、本当に何気ない一言だった。
けれどその言葉は、岡田の胸に、じんわりとあたたかく染み込んだ。
——あの日、自分が匿名フォームに書き込んだ言葉が、時間をかけて、誰かの笑顔として返ってきた。
そんな気がしたのだ。
声をあげることは、今でも少し怖い。
でも、この職場は、今ではその小さな声を、ちゃんと、そして温かく受け止める器を持っている。
もう、“我慢できる人”が正しいなんて、美談でごまかす職場ではない。
か細い声が、この大きな組織を、少しずつ、でも確実に、変えていく。
そのことを、自分の肌で実感した。
藤原の言葉が、夜空の下で岡田の心に静かに灯をともす。
——あの時、声をあげてよかった。
そしてこれからも、きっと——。
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