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エピローグ

「……お疲れ様です。今日の新人面談、共有メモにアップロードしました」


 夕方、蛍光灯の白い光だけが残る静かなオフィスで、木村は背もたれに深くもたれたまま、そっと藤原に声をかけた。

 その声には、一日の業務を終えた安堵と、明日へのほんのわずかな希望がにじんでいた。


 モニター越しに見える藤原の横顔は、以前のような張り詰めた険しさを纏ってはいなかった。

 目の下の隈は薄くなり、口元には、かすかな笑みが浮かんでいる。


「ありがとう。新しい子、どうだった?」


 藤原の声も、かつてのような疲れきった調子ではなく、どこか柔らかく、関心と期待が含まれていた。


「んー……飲み込みは正直、ゆっくりです。でも、質問も積極的にしてくるし、素直ですよ。前の……“あいつ”みたいに、教えたことをすぐ忘れたり、平然と嘘をついたりはしません」


 “あいつ”。


 もはやこの部署で、その名を口にする者はいなかった。

 まるで最初から存在しなかったかのように。

 誰もが、彼の引き起こした騒動と、残していった重苦しい空気を、心の奥深くに封じ込めていた。

 言葉にするまでもなく、その存在の爪痕は、記憶の底に静かに沈んでいる。


 藤原はそっと目を伏せて微笑んだ。


「大丈夫。今回は私一人じゃないから」


 彼女の視線の先、ディスプレイには、新しく導入された『新人育成進捗管理シート』が表示されていた。

 育成対象の習熟度、課題、それに対する具体的な支援履歴、OJTに関わったメンバーのコメント。

 すべてがクラウド上に集約され、誰もがリアルタイムで状況を共有できるようになっていた。


 新人育成は、もはや“藤原悠子の個人戦”ではない。


 かつて、この部署では、新人教育という名の重責が、真面目で責任感の強い誰かに一身にのしかかっていた。

 そして、その疲弊が見過ごされるのは、当たり前のようになっていた。

 だが今、その歪んだ構造は、完全に解体されたのだ。


 誰かひとりに負担を押しつける風潮も、見て見ぬふりを「優しさ」や「空気を読む」と言い換えてやり過ごす時代も、このオフィスからは静かに、しかし確実に、消えつつある。


「山本さんも、さっき進捗を見に来てくれましたよ。気になった点は、チャットに細かくメモを残してくれてました」


 木村の言葉に、藤原は少しだけ目を見開いた。


「……あの山本さんが?」


 営業部のエースとして知られ、新人教育にはまったく関心を示さなかった山本が、進捗確認をしているという事実に、思わず驚きを隠せなかった。


「ええ。今じゃ“新人育成への貢献度”が、きちんと評価項目に反映されますからね。山本さん、そういうのにはめちゃくちゃ敏感なんで。営業のエースは、抜け目ないですよ」


 ふたりは、思わず顔を見合わせて笑った。

 以前の、冷たい風が吹き抜けるような職場の雰囲気が、まるで幻だったかのように思えた。


 変化のきっかけは、皮肉にも——

 あの、忘れもしない事故だった。


 顧客の住所や口座情報が漏洩した、会社の信用を揺るがす前代未聞の事件。

 他人の善意に無自覚に乗りかかり、迷惑を迷惑とも思わずに振りまいた男が、ついに“会社の地雷”として表沙汰になった。

 あの日を境に、「知らないふり」や「見て見ぬふり」は、単なる傍観では済まされない“共犯行為”として扱われるようになったのだ。


 藤原はふと、懐かしむように語り始めた。


「……新人の頃って、こんなに誰かに気をかけてもらってたかなって、ふと思って。私は放置されてたの。黙ってやるしかなくて、いつの間にか、“なんとなくできる人”でいることが当たり前になってた」


 木村はその言葉を静かに受け止めながら、穏やかに言った。


「藤原さんの時代とは違いますよ。今の新人はちゃんと見てもらえてる。記録も残ってるし、チーム全体でフォローする体制もある。課題があればすぐに共有されて、誰かが一人で抱えるようなことはない。……きっと、育ちますよ。前の誰かみたいには、絶対に」


 藤原はゆっくりと、力強く頷いた。


「そう。私たちが、そうならせないようにしてるから」


 その言葉には、ただの楽観でも理想でもない、過去を知る者だけが持ち得る確かな決意が込められていた。

 彼女の目は、ディスプレイの中ではなく、その先にある、新しい職場の風景を見つめていた。

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