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最終章「これが報いだ」

 その朝も、佐伯遥斗はスキップするように出社してきた。

 パスケースを首から下げて、スマホをいじりながら、「おはようございまーす」と、声を上げる。笑顔だった。今日もまた。

 心のこもっていない「おはようございます」がちらほらとあがる。社会人としてのマナーだから、そのたった一つの理由で。


 森田がコーヒーを啜りながら、隣の山田に小声で言った。「また来たな」

 山田は苦笑いを浮かべる。「今日も何もしないで一日が終わるんだろうな」

 毎日毎日、彼の尻拭いをさせられ、どれだけの時間を無駄にしたことか。二人は黙って視線を交わした。無言の了解——今日はもう、誰も手を差し伸べるつもりはない。


 月末締めの金曜日。オフィスは通常より忙しく、皆が期限に追われていた。


「山田さん、ちょっといいですか?」


 佐伯が、なぜか今日は珍しく資料を持って声をかけてきた。


「何?」


 山田は冷たく返した。普段なら「どうした?」と聞くところだが、最近は彼に対して最低限の言葉しか費やさないようにしていた。


「これって、このまま送っちゃっていいですかね?」


 佐伯は画面を指差した。取引先への請求処理のファイルだ。

 山田は一瞬、画面を見たが、すぐに顔を背けた。「知らないよ。お前の仕事でしょ」

 いつもなら確認してあげる場面だが、今日はそんな余裕はなかった。それに、どうせ説明しても聞いていないのだ。これまでの経験から、彼には無駄だと学習していた。


「あー、じゃあいいっすよ。送っときます」


 佐伯は気にした様子もなく、自分の席に戻っていった。

 数時間後、会社の電話が鳴り止まなくなった。問い合わせ、クレーム、取引先からの怒りの声。そして、ついに真相が判明した。

 原因は、佐伯が送ったファイル。本来は社内用の顧客データベースに接続するリンクが埋め込まれたファイルを、そのまま取引先に送信してしまったのだ。

 社内専用ファイルには、全顧客の住所と口座情報を参照できる機能が含まれていた。それを送信したことで、外部から顧客データベースにアクセスできる状態になってしまった。重大な情報漏洩事故だ。

 佐伯は送信後、何も知らずに「休憩入ります〜」と言って立ち上がった。スマホを片手に、いつものように休憩室へと向かっていった。彼がのんびりコーヒーを飲みながらSNSをチェックしている間に、会社は地獄と化していた。


「佐伯のファイルが原因だって?」


 経理の村上は、その知らせを聞いて思わず笑みを浮かべた。このままでは終わらないと、誰もが薄々気づいていた。何度も何度も佐伯のせいで長時間残業。何度も何度も休日出勤。フォローの連続で消耗していく日々。今日、ついに終わるかもしれない。


「安藤課長、大変です!」


 総務の田中が事態を報告すると、安藤課長の顔が青ざめた。

 彼は佐伯の直属の上司だ。

 入社以来、一年足らずの間、何度も何度も佐伯を庇ってきた。「まだ若いから」「これから成長するから」と。だが、今回ばかりは違った。漏洩した情報の重大さを考えると、会社の存続にも関わる。


「佐伯を、今すぐ呼べ」


 安藤の声は震えていた。怒りと恐怖が入り混じっていた。彼自身も責任を問われることになる。連帯責任は避けられない。

 休憩室から呼び戻された佐伯は、まだ事の重大さを理解していない様子だった。

 最初に声を上げたのは、営業の島。電話を切った課長が、真っ青な顔で叫んだ。


「……佐伯くん、これ!どういうことかわかってるか!?」


 でも佐伯は、「え?いつも使ってる送信用ファイルですよ……」と笑った。その無知と無責任が露わになった瞬間、フロア全体に静かな歓喜が広がった。ようやく。ようやくこいつの正体が明らかになる時が来たんだ。


「送信用?あれは社内専用のファイルだ!顧客データベースにリンクしているんだぞ!」


 安藤課長が詰め寄る。


「あ、いや、いつも使ってるもので…」佐伯は言葉を濁した。

「誰がそれを送信していいと言った?」課長の声が大きくなる。

「いや、みんな使ってるから…」


 周囲の社員たちは、その様子を静かに見守っていた。佐伯の言い訳の時間だ。いつも通りの展開。しかし今回は、いつものように「申し訳ございません」で終わる問題ではない。


「みんなって誰だ?社内専用と明記されているファイルを外部に送るなんて、基本中の基本だぞ!」

「あの、それは…」


 佐伯の顔から徐々に血の気が引いていくのを、皆が見ていた。彼の視線が定まらなくなり、落ち着きなく動き始めた。言い訳が浮かばないのだろう。いつもならここで藤原や他の誰かが助け舟を出すところだが、今日は誰も動かない。


「これは…俺だけのせいじゃないと思います」


 ついに佐伯の本性が出た。彼は周りを見回し、助けを求めるように視線を送った。


「だって、山田さんにも確認してもらったし、他の人も見てたはずです。なのに、誰も言ってくれなかった…」


 山田が顔を上げた。


「何だって?確認なんてしてないぞ。お前が画面を見せに来たのは事実だが、俺は『お前の担当だろ』と言っただけだ」

「でも…一応見てもらったじゃないですか…」


 佐伯の声は弱々しくなっていた。

 社内が騒然とする中、佐伯はキョロキョロと周りを見る。その顔には、いつもの調子が残っていた。「誰かがフォローしてくれる」「なんとかなる」「俺はそんなに悪くない」そんな顔。


 誰も動かない。全員が動かない。


 安藤課長は拳を握りしめていた。殴りたい。本当に殴りたかった。目の前のこの男を。自分の信頼を、キャリアを、全てを台無しにした男を。しかし、それは許されない。課長として、最後の務めを果たさねばならない。彼は深呼吸をして、感情を抑えた。


「佐伯くん、会議室に来なさい。弁護士と人事も呼んでる」


 冷たい声だった。それは、もはや救済の余地がないことを告げていた。

 藤原の机の上には、佐伯のミスを修正した資料の山が積み上がっていた。徹夜で直した企画書。休日を潰して整理したデータ。彼女の評価にも影響が出た。全部、全部、あいつのせいだ。彼女は静かにコーヒーを飲み干した。口元には微かに、満足げな笑みが浮かんでいた。

 若手社員の木村が、藤原の横を通りがかり、小声で言った。


「藤原さん、ついに来ましたね」


 藤原はうなずいた。


「そうね」

「皆、ずっと待ってたんですよね。こんな日が来るの」

「ええ」


 藤原は淡々と答えた。


「だって、彼はいつもそう。自分が困らない限り、他人が困っているのを見て楽しんでた。今日は、彼が私たちに、その楽しみ方を教えてくれる番よ」


 木村は目を輝かせた。入社して以来、佐伯の特別扱いに疑問を抱いていた一人だった。

 誰も佐伯を助けない。みんな黙ってる。総務も黙ってる。経理も無言。営業も視線すら合わせない。人事はファイルを閉じた。会議室からは役員の厳しい声だけが漏れ聞こえる。

 安藤課長は会議室のドアを閉めた後、窓際に立った。外は晴れていた。皮肉にも、素晴らしい天気だった。


「佐伯君、君は会社の機密情報を漏洩させた。これは重大な違反行為だ」


 弁護士と人事部長が並んで座っている。彼らの表情は厳しい。その弁護士は、周囲の社員たちが微かに笑っていることに気づき、一瞬眉をひそめた。この状況で、この反応は、常軌を逸していると感じた。


「でも、僕だけじゃ…」

「責任転嫁はやめなさい」


 人事部長が冷たく言った。


「証拠は全て揃っている。あなたが送信したファイル、あなたのPCからの操作履歴、全て」


 安藤課長は窓の外を見つめたまま、佐伯に背を向けていた。彼の肩が震えているのは、怒りを抑えているからだった。入社以来、一年足らずの間、何度も何度も、警告してきた。何度も何度も、チャンスを与えてきた。それなのに…。

 静観する時間が最高に心地よかった。

 皆、静かに佐伯が追い詰められていく様子を見守っていた。

 会議室のガラス越しに佐伯が青ざめる姿。いつもスマホばかり見ていた顔が、今は蒼白になっている。その表情を見るだけで、これまでの鬱憤が晴れていくようだった。


「今日は流石にスマホを見ないんだな」と森田が笑いを噛み殺す様にしてつぶやいた。「いや、これでンなことやったら頭いかれてんだろ?」

 廊下では小声の会話が交わされた。

「ついに責任を取らされるな」「あいつがいなくなれば、仕事がスムーズになる」「やっぱりな」

 これまで佐伯に振り回されてきた社員たちの間に、見えない連帯感が生まれていた。誰も言葉にはしなかったが、全員が同じことを望んでいた——佐伯の失墜を。


 会議室から出てきた佐伯は、完全に打ちのめされていた。今まで見たこともないような表情だった。

 事故は発覚し、取引先から正式なクレームと損害賠償の連絡が入った。社内調査が始まり、メールログ、ファイル操作記録、送信時間……全てが、"佐伯遥斗個人のミス"を明確に指し示していた。動かぬ証拠。言い訳できない現実。

 弁護士が言った。「民事上の責任は会社が負うことになりますが、あなた個人の責任も問われます。場合によっては、刑事責任も」


 佐伯の顔から血の気が完全に引いた。


「ようやく気づいたか」


 長年、彼のミスをフォローしてきた中村は、その様子を見て心の中でつぶやいた。何度も何度も、彼のせいで私生活が犠牲になった。どれだけの時間を奪われたか。どれだけの労力を無駄にしたか。全部返せよ。

 安藤課長は疲れた様子で席に着いた。


「全社緊急会議を開く。15分後に全員集合だ」


 全社員が会議室に集められた。佐伯も含めて。安藤課長は事態の説明をし、会社としての対応を発表した。


「情報漏洩の原因は特定されました。今後の対策として…」


 そして、最後に。


「佐伯君は、今日付けで懲戒解雇とします」


 会議室に静寂が広がった。誰も驚いていないようだった。むしろ、「やっと」という雰囲気すらあった。佐伯だけが、その言葉の重みをようやく理解し始めたように見えた。彼の呼吸が荒くなり、頬が引きつっていく。

 その瞬間、彼は立ち上がった。顔は真っ青だった。


「……誰も、なんで教えてくれなかったんですか……?」


 その言葉に、会社全体に積み重なっていた怒りの堰が決壊した。これまでの鬱憤、何度も何度も繰り返されてきた同じミス、振り回された時間、全てが一気に溢れ出した。


「教えてくれなかった?」


 藤原が立ち上がった。その声には長年抑え続けた怒りが満ちていた。


「何百回教えたと思ってるの?」

「初日から言ってきたよな」


 山田も続いた。


「内部資料と外部資料の区別、何度説明した?10回?20回?」

「入社研修でも説明したぞ」


 IT部の佐藤が冷たく言った。


「お前だけがスマホいじってたのを、皆覚えてる」

「マニュアルにも書いてある」


 人事の鈴木が資料を掲げた。


「第一章、赤字で書いてある。"社内専用"って」

「何度注意しても、同じミスを繰り返す」


 経理の高橋が吐き捨てた。


「お前はいつも『記憶がない』『教えてもらってない』と言う。でも皆、覚えてるんだよ。何度も何度も同じことを説明したのを」


 会議室の隅から、小さな笑い声が聞こえた。それから、別の場所から笑い声が上がり、あちこちから同様の笑いが広がっていった。やがて、オフィス全体が笑いに包まれた。


「いつかやらかすと思ってたよ、俺」


 IT部の佐藤が、コーヒーカップを持ちながら言った。彼の目には憎悪が光っていた。何度も何度も、佐伯のせいでシステムの急な修正を強いられた男だ。


「ずっと見てたもん、こいつのやばさ」


 営業の山本が続けた。彼は佐伯の間違った資料のせいで、大きな商談に影響が出た。全部あいつのせい。


「まぁ、俺には関係ないから、楽しませてもらってただけだけど」


 総務の井上は、冷たく笑った。彼女の部署では、佐伯が勝手に備品を持ち出して二度と戻さないことで悪名高かった。「練習で使った」と平然と言う神経。


「最高の娯楽だったよな、マジで」


 会計の高橋は、もはや隠す必要もなく声を上げた。彼女も佐伯の不備だらけの処理に何度も頭を悩まされた被害者だ。


「ほら言わんこっちゃない」

「後始末係、誰も残ってなかったからな」

「当然の結末」

「ざまあみろ!」


 藤原は静かに立ち上がった。「佐伯さん、覚えてる?池田さんが困ってた時、あなたが言ったこと」

 佐伯は黙っていた。

「『面白そうだったから見てただけっすよ』って」


 藤原は続けた。


「今日は私たちの番よ」


 笑い声が、増幅していく。席を立つ者。吹き出す者。スマホを取り出す者。誰もが、この瞬間を記憶したいと思った。

 佐伯は立ち尽くした。彼の周りにいた全ての人間が、彼に向かって笑っていた。親切そうに話しかけていた人も、いつも静かだった人も、全員が—嘲笑していた。


 彼がやってきたこと、全部が—何も返ってこないどころか、笑いになって返ってきた。笑いと憎しみの渦に飲み込まれていく。

「自分に火の粉が飛ばない限り、見てるだけでいい」。それを繰り返してきた彼に、いま、世界はその言葉をそのまま返していた。全ての因果応報。全ての報い。


 安藤課長は、机に両手をついて深く頭を下げた。


「取引先と関係各所には、私から直接謝罪に行きます。会社としての責任は、私が取ります」


 彼の声は震えていた。怒りではなく、疲労からだった。入社以来、一年足らずの佐伯との付き合いで、彼の精神は摩耗していた。


「でも、最後に一つだけ言わせてくれ」


 安藤は顔を上げた。


「佐伯君、君は最悪の社員だった。君には、働くということの意味が、最後まで理解できなかったんだな。周りの人間との繋がりも、信頼も、何もかも。そんな空っぽの人間が、社会で生き残れるわけがない」


 佐伯は消えた。でも噂は残った。次の就職先も、短期間で消えたらしい。誰も彼を信用しなかった。

 ネットに名前が出た。裁判情報も載った。誰かが"あの人です"とSNSで書いた。誰かが"やっぱりね"と返信した。報いを受けた人生。自業自得の人生。


 そして今日も、会社には日常が戻っている。

 誰も、彼の名前を呼ばない。誰も、彼のことを話さない。でも時々、誰かが言う。


「……あれが、社会勉強になったってことで、いいんじゃないですか」


 痛烈な皮肉だった。ここまで騒ぎになってしまった彼に次の社会なんてないだろう。

 人の苦しみを楽しむ奴は、いつか自分が一番の見世物になる。それが、この世界の法則なのだから。

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