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何もする気がない、あいつのせいで

 最初は、誰か一人の苛立ちだった。

 気づけば、それが全体に伝染していた。


 提出物の締切が、ほんの少しずつ遅れ始める。

 報告内容の精度が、かつては鋭かったのに、どこか曖昧になってくる。

 社内チャットに既読がついても、誰もすぐには返事をしない。相手の反応を気にして、打つ手が止まる。


 誰もそれを咎めない。

 なぜなら、みんな疲れていた。

 佐伯遥斗という一人の存在が、毎日じわじわと、確実に神経をすり減らしていくからだ。


 月曜の朝。営業の宮本は、出社早々、取引先からのクレーム電話に追われていた。

「先方、予定より一週間早い納品って言ってきたんだけど……そんな話だったっけ?」

 その声に、宮本は頭が真っ白になった。確認はした。何度も見返したはずだった。でも、もしかすると……使っていたのは古いデータだったのかもしれない。


 その最新版を整理したのは、前の金曜日、体調を崩した藤原に代わって任された佐伯だった。

 しかし本人に確認すると、「夕方には藤原さん戻ってきたし、最終確認はそっちだと思ってました」と、他人事のような口調。

 イヤホンをつけたまま、まるで悪気も自覚もないその態度に、宮本は言葉を失った。


 側で聞いていた木村は、何か言いかけて、結局黙った。

 言っても無駄。巻き込まれたくない。

 多くの社員が、そうやって黙るようになった。


 月末、経費精算で桐野が一桁間違えた。

 きっかけは、佐伯の誤送信事件を受けて導入された、やたらと複雑なチェック表。

 そこには本来不要な記入欄が大量にあり、見るだけで混乱する。


「これ……何をどう書けばいいのか……」

 桐野のか細い声に、木村も苦笑する。

「例の“対策”だよ。まただよ、もう……」


 誰も声を荒げない。ただ、諦めたように肩をすくめるだけ。

 課長の安藤は、それを見ても何も言わず、コーヒーを片手に立ち尽くしている。


 昼、藤原は給湯室に隠れるように立っていた。

 紙コップを両手で抱えたまま、壁の一点をじっと見つめている。

 その朝、佐伯の報告書から数字が一行ごっそり抜け落ちていて、月次レポート全体を修正する羽目になったばかりだった。


「あの……課長の指示書には、書けとはなかったので……」

 佐伯の言い訳に、藤原は何も返さなかった。

 返したところで、また翌週には別のことで彼女が修正するのだ。もう、無駄だと思っていた。


 午後の会議。安藤課長は、部長の前で声を荒げた。

「なんでこんなミスが続くんだ。最近、報告が雑すぎる!」


 けれど、皆が知っていた。

 その“ミス”の多くは、佐伯が関わった資料に由来するものだった。

 その確認作業に、藤原をはじめとする社員たちは神経をすり減らしていた。


「現場の連携不足って思われるぞ!」

 責任を全体に拡散させるその言葉に、木村は天井を見上げて黙った。

 反論する気力すら、もう残っていなかった。


 佐伯はというと、今日も机でスマホをいじっていた。

 彼だけは、新しい報告フォーマットを一度も正しく提出していない。それでも、誰も注意をしない。


 どうせ言っても無駄。面倒が増えるだけ。

 誰もがそう思い、黙ることで自分の心を守っていた。


 夕方、藤原の席に、新人の女性社員が立っていた。

「チェック表……前のバージョンで提出しちゃって……すみません」

「大丈夫。私が直しておくから」

 そう答えた藤原の目は、まるで何も映していなかった。


 数日後、今期の顧客評価アンケートが発表された。

 過去最低のスコア。「対応が遅い」「知識不足」「書類ミス」

 その内容に、誰もが原因を思い当たったが、名前はどこにも書かれていない。


 そして安藤課長の報告書には、こう記されていた。


「今回の評価低下は、社内全体の意識の問題と判断。再発防止に努める」


 責任は、曖昧に拡散されていく。

 誰のせいでもない。けれど、誰の心もすり減っていく。


 オフィスには、どこにも行き場のない重苦しさだけが残された。


 何もしていないはずなのに。

 けれど、気づけば皆がすり減っていた。

 まるで、心の中に冷たい風が吹き込んでくるように。


 その中心にいる男は、今日も平然と笑っていた。

 あたかも、自分は何も知らないという顔で。

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