何もしてないのに、疑いたくなる人
昼前、備品棚を整理していたとき、ふと手が止まった。記録してあったコピー用紙の残数と、目の前の実物が微妙に合わない。
(……あれ?)
棚の中の用紙を再度数え直してみた。確かに二百枚ほど少ない。カウンターをチェックしても、その分の使用記録はない。業務日報にも出庫記録はない。誰かがカウントせずに持ち出したのだろうか。一瞬だけ、脳裏をかすめた名前がある。
——佐伯。
「また勝手に使ったんじゃないか?」
その考えが、まるで条件反射みたいに浮かんでしまった。だが、口には出さなかった。まだ確証もない。とはいえ、彼ならやりかねないと思ってしまったのも事実だった。
俺は宮本直樹。営業一課の中堅社員だ。佐伯遥斗とは直属の関係ではない。彼は業務支援課に所属している。営業と接点は多いが、あくまで社内調整や資料作成を担うポジション。俺とは直接の接点は少ない。けれど、部署を跨いでも噂は届いてくる。
伝達ミス、記録漏れ、提出忘れ。資料のバージョンを間違えて印刷したこともあったと聞く。備品に関しては、以前、封筒が大量に消えたときに、「練習で使ってみたんですけど、全部捨てました」と悪びれもせずに言ったそうだ。会社の備品を「練習」と称して勝手に使い、しかも「全部捨てました」と平然と言ってのける神経。それを聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。"そんな人間が同じ会社で働いてる"というだけで、少し空気が重く感じた。あれは確か入社して一ヶ月目の出来事だったはずだ。
私は棚の奥を見直し、床にも目を配った。もしかしたら落ちているのかもしれない。一枚や二枚なら誤差の範囲だが、二百枚となると話は別だ。誰かが大量に持ち出したとしか考えられない。
「あ、宮本さん。これ……裏に滑り落ちてました」
後ろから声がして振り返ると、同僚の桐野が用紙の束を持って立っていた。彼女は総務課の新人で、いつも几帳面な仕事ぶりが評価されている。
「え、マジか」
「箱の奥、段ボールの影にありました。業者さんの補充分かも」
桐野が持っているのは確かにコピー用紙の束だ。ぱっと見、二百枚くらいはありそうだ。
「そっか……ありがとう。助かった」
胸の奥で、ホッとする感覚と、それと同時に、妙な気まずさが混ざり合う。安堵感と後ろめたさ。相反する感情が交錯して、なんとも言えない空気が生まれた。
(……完全に俺の早とちりだ)
言葉にこそしていないけど、内心では完全に佐伯を犯人扱いしていた。何の証拠もないのに、頭の中では彼が黙って用紙を持ち出し、何か個人的な資料を作っている姿までイメージしていた。そして、それが間違いだったとわかった今、自分が少し嫌になる。
でも——すぐに、心の中で言い訳を始めていた。
(いや、でも……しょうがないだろ。あいつ、前にもやってるし)
(封筒の件もある。ミスは繰り返してたじゃないか)
(今回が違っただけで、いつもの延長に思えるのも無理はない)
そうやって、自己弁護が止まらなかった。自分の"偏見"を正当化しようとする頭と、それでも感じてしまう後ろめたさとが、せめぎ合っていた。
棚の整理を済ませ、昼食へと向かう。食堂のドアを開けると、案の定、混雑していた。空いている席を探すと、窓際に藤原と佐伯が座っているのが見えた。藤原は資料を広げながら食事をしている。佐伯はというと、スマホを片手に持ちながら、もう一方の手で箸を使っていた。その姿を見ると、また胸の奥でモヤモヤしたものが広がる。
佐伯は、その日の午後も、モニターに顔を向けながら、スマホをいじっていた。廊下を通りがかりに、ちらりと見ただけだが、その姿は印象に残った。仕事をしているように見せかけて、でも実際には何もしていない時間が積み重なっていく。藤原さんはそんな彼の隣で、疲れた表情で画面と向き合っていた。
(……何もしていないように見える人間を、“何かやったんじゃないか”って思ってしまうのは、俺が悪いのか?)
この思いは、今回のコピー用紙だけの話ではない。佐伯に対する不信感は、会社全体で徐々に広がっていた。だが、表立って非難する人はいない。誰も怒らない。誰も責めない。でも、何かおかしいという空気は、確実に蔓延していた。
社内でのミーティングが終わり、夕方になった。窓の外は徐々に暗くなりつつあった。帰り支度をしていると、藤原が疲れた様子で廊下を歩いているのが見えた。彼女の表情は曇っていて、肩を落としている。佐伯の指導をしている彼女の苦労は、部署を超えて伝わってくる。
何もしてないはずなのに、周囲の神経だけがすり減っていく。そんな存在だった。彼がミスをしたわけではない。彼のせいではなかった。——それでも、「また佐伯か」と思ってしまった俺が、そこにいた。
会社を出る前に、もう一度備品棚を見に行った。すべてが元通りになっていて、安心する。だが同時に、自分の中にある「佐伯=問題」という図式がいかに強固になっているかを実感した。それは私だけではなく、会社の多くの人間が持っている印象だろう。
そして明日もまた、何かが起これば、最初に頭に浮かぶのは、おそらく——また、彼の名前だ。それが正しいことかどうかは別として、これが現実なのだ。信頼は一瞬で崩れ、その再構築には何倍もの時間がかかる。佐伯はまだそのことに気づいていないようだった。
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