第一章「あ、ここ空いてます?」から地獄は始まった
もう一つのスッキリさせたいお話です。
短編の彼とは別人です。
読みづらいというご指摘を受けて、地の文や言い回しを修正しました。どうでしょう。
「ここって、みんなのスペース、結構離れてるんですね!あ、ここ、空いてますよね?」
初出社の日、佐伯遥斗はそう言いながら、誰に許可を取るでもなく、私の隣のデスクに遠慮なく荷物を置いた。挨拶もそこそこに、まるで自分の場所を当然のように確保する態度に、私は一瞬、言葉を失った。
佐伯遥斗。今日から入った新入社員らしい。
年齢は、私より十歳以上下。
見た目は、特に印象に残るようなところのない、ごく普通の青年だった。真新しいスーツはまあ似合っているし、表情は明るく、人懐っこいようにも見える。
ただ、彼には妙な「近さ」があった。物理的な距離感もそうだが、馴れ馴れしい話し方や、遠慮のない態度——パーソナルスペースにずいずいと踏み込んでくるような、甘えたような雰囲気があるのだ。
「えっ、藤原さんのキーボードの音、なんか可愛いっすね!」
「あの、業務のマニュアルとかって、どこにあるんですか?……あっ、すみません、まだお仕事中でしたか。でも、藤原さん、パソコンの操作、すごく早いですね!」
朝、顔を合わせたばかりだというのに、彼は平気で私の作業に口を挟み、一方的にコメントしていく。まだ、彼に基本的な業務の流れすら説明していないのに。
その馴れ馴れしさと、まるで空気を読まない言動に、私は言葉にはできない、小さなけれど確かな警戒心を覚えた。しかし彼は、そんな私の内心など、微塵も気にしていない様子だった。
私は藤原悠子。この会社に勤めて十年以上になる中堅社員だ。新入社員の教育担当を任されるのは、これで何度目になるだろうか。
だが、今回の新入社員——佐伯遥斗には、これまで担当してきた誰とも違う、言いようのない違和感を覚えた。
(ああ、これは……本当に、手に負えないタイプかもしれない)
初日の、ほんの数時間のやり取りで感じたその直感は、残念ながら、その後の私の社会人生活を大きく左右することになる。
彼の最も顕著な特徴を端的に表すならば、それは——「他人の時間と空間を、まるで自分の所有物のように扱う」という一点に尽きる。しかも、その行為に一切の遠慮がないのだ。彼は、本気でそれが「普通のコミュニケーション」であり、「親睦を深めるための友好的な行動」だと信じているように見える。
集中して作業している最中に、何の脈絡もなく話しかけてくる。
自分で少し考えればわかるような簡単な質問を、すぐに人に投げかけてくる。そして、答えている最中にも、どこか上の空で、こちらの話を聞いているのかどうかすら怪しい。「~っすね」「~じゃないですか」といった、友達のようなくだけた言葉遣いはするものの、ビジネスの場で求められる丁寧な敬語は全く使えない。
仕事中に平然とスマホを取り出し、動画サイトを閲覧している。
隣の私のデスクに、自分の私物を広げ始め、「すみません、ここにコーヒー置いてもいいですか?」と、許可を求める言葉を発するのとほぼ同時に、既にマグカップを置いている。
これらの行動を、彼は何の躊躇もなく、まるで当然のことのように行う。そして、一度でも曖昧な態度で許容してしまうと、それが彼の「日常」として固定化されてしまうのだ。
「佐伯さん、昨日お願いしていた、顧客リストの資料はできましたか?」
「あー、それ……すみません、まだ全然手をつけてなくて……今日まででしたっけ?」
「昨日の午前中に、今日中に必要だと伝えましたよね」
「……あー……えっと、どうやって作るんでしたっけ……」
彼は、形式的に資料のファイルに目を向け、ほんの数秒、考えるような素振りを見せた後、すぐに顔を上げて、ヘラヘラ笑いながら私の方を向いた。
「すみません、なんか、昨日のこと、あんまり覚えてなくて……大学時代から、よく『忘れっぽい』って言われてたんですよね~。申し訳ないんですけど、もう一度、教えてもらってもいいっすか?」
そう言って、全く反省の色が見えない、甘えたような笑顔を浮かべる。
私は、内心で深い溜息をつきながらも、彼が入社したばかりであることを考慮し、仕方ないと自分に言い聞かせた。教えることは、教育担当の私の仕事だ。そう思って、資料の作成手順を改めて説明し始めた。
私が二つ目の項目について説明している最中、彼は何の躊躇もなく、ポケットからスマホを取り出した。そして、私の目の前で、無言で画面をスクロールし始めたのだ。
その瞬間、私の頭の中で、何かが音もなく凍りついた。
(え……?今、一体何をしてるの…?)
私の言葉が途切れたことにすら気づかず、彼はスマホの画面に集中している。私は数秒、無言で彼の異常な行動を眺めた。私の言葉が何も聞こえてこない事に、ようやく気づいた彼が顔を上げ、「あ、すみません、続けてください」と、まるで私の説明が、彼のスマホ操作の邪魔にならない程度のBGMに過ぎないと言わんばかりの態度で言った。
これは、一体何なのだろう?
ジェネレーションギャップ、という言葉が頭をよぎった。これが、最近の若い人の、当たり前のコミュニケーション方法なのだろうか?
いや、違う。断じて違う。これは、ただの社会人としての常識の欠如だ。相手への敬意とか、仕事のルールとか、そういうものが、完全に欠落している。
教えを請う立場でありながら、平然とスマホを操作する。しかも、その言葉遣いは、友達に対するようなくだけたものばかりで、まるで相手が目上の人間だという認識がない。
この男は、本当に「働く」ということが、どういうことなのか、理解しているのだろうか。
私の中で、長年培ってきた社会人としての常識が、微かに音を立てて軋み始めた。それは、静かに崩壊していく音だった。
「佐伯さん、あの……人に何かを教えてもらっている時に、スマートフォンを操作するのは、ちょっと失礼にあたると思いますよ」
冷静に注意したつもりだった。しかし、あまりの衝撃と信じられない光景に、私の声は予想外に震えていた。感情をコントロールすることができなかったのだ。
顔を上げた彼は、全く悪びれた様子もなく、あっけらかんと笑顔で「あ、すみません」と言った後、まるで何事もなかったかのように、スマホをポケットにしまった。その顔には、ほんの少しの反省の色すら見られなかった。
「佐伯くんって、ちょっと変わってるけど、なんか憎めないんだよねえ」
数日後、休憩室で、同僚の佐々木がコーヒーを飲みながら、そう言った。隣にいた田中も、「まあ、うちの会社、そんなにカチカチじゃないしさ」なんて同意する。
「そうそう。松本さんなんか、いつもイヤホンしながら仕事してるしね」
確かに、私たちの会社は、まあまあ自由な社風なのかもしれない。音楽を聴きながら集中して資料をまとめる松本さんや、お菓子を頬張りながらチャットで連絡を取り合う中村くんもいる。私だって、業務時間中に個人的なメールをチェックすることもある。
しかし、皆、社会人としての基本的なラインは守っている。締め切りは必ず守る。質問されたら、ちゃんと相手の目を見て、丁寧な言葉遣いで答える。話している最中は、相手に集中する。
(この人の非常識さが「ちょっと変わってる」で済まされるレベルなの?)
私は、休憩室から見える彼のデスクを横目で見た。今日もまた、彼は熱心にスマホの画面を見つめている。今日の業務は、もう終わったのだろうか?いや、昨日からずっと保留になっている、重要な報告書はどうなったのだろうか……。
入社して二週間目のこと。丁寧に作成された業務マニュアルを渡したにも関わらず、彼は一度も開いた形跡がない。「はい、ありがとうございます。後でちゃんと見ときます」って、その場しのぎの返事をしただけで、その後は、まるでマニュアルの存在など忘れてしまったかのように、常にスマホに夢中だった。
三週間目には、彼が入力した既存の顧客データに、複数の重大なミスが発覚した。「あの、このデータの入力方法って、前、教えてもらいましたっけ?」って、まるで初めて聞くような、間の抜けた顔で尋ねてきた。確かに、先週、彼にマンツーマンで丁寧に説明したはずなのに。しかも、その時の言葉遣いは、相変わらず友達に対するような調子だった。
入社して一ヶ月が経った頃、私たちの部署で毎日使っている業務用マクロが、突然、原因不明のエラーを起こし、完全に停止してしまった。データ出力ができなくなって、各部署で業務が滞り、課長が対応に追われるという、小さな騒ぎが起きた。
「誰か、このマクロのファイル、最近触った人いますか?」
「念のため、操作履歴を確認してみましょう」
「もしかして、誰かが上書き保存してしまったとか……?」
部署内が慌ただしくなり始めた時、私はふと、自分の席で相変わらずスマホをいじっている佐伯の方を見た。まるで、周囲の騒ぎなど、全く耳に入っていないかのように。
中村くんが、エラー表示が出ているモニターを覗き込み、眉をひそめた。「あれ……最終更新者が、佐伯さんの名前になっていますね……」
彼の言葉に、周囲から抑えたような「え?」という声がいくつか漏れた。
全員の視線が、否応なく、佐伯に集まる。
「佐伯さん」
課長の安藤さんが、少し語気を強めて声をかけた。彼は、ようやく顔を上げた。
「このファイル、さっき、何か操作しましたか?」
彼は、一瞬だけモニターをちらりと見た。そして、何かを思い出したかのように、わざとらしく驚いた表情で目を見開いた。「え?いや、僕、このファイル、開いてもいないと思いますけど……」
その、あまりにも信憑性の低い返答に、部屋の空気が一瞬、完全に静止した。明らかに、パソコンの操作ログには、彼の名前と操作時間が記録されている。皆、その事実を、モニターを通して確認している。
「でも、ログには、確かに佐伯さんの名前で、『編集・保存』という記録が残っていますが……」と、中村くんが冷静に指摘した。
彼は、その言葉に一瞬だけ目を伏せた。そして、本当にありえないことに、彼の表情には、焦りとか狼狽の色は全く見られず、まるで何かを計算しているかのような、奇妙な冷静さが浮かんだ。「いや、あの、ファイル開いて、ちょっと見ただけだと思いますよ。そりゃあ、マウス動かしてるときに、うっかりクリックしちゃった、みたいなことは、あったかもしれませんけど……」
その言い方は、「僕は悪くないですよね?」と言わんばかりで、まるで、一度、言い逃れが通用するかどうかを試しているみたいだった。
「もし、どこか触った場所、思い出したら、教えてもらえませんか? 復旧作業に必要な情報なんです」
私は、平静を装いながら、そう言った。
彼は、軽く肩をすくめて、ヘラヘラ笑った。「はい〜、まあ、たぶん僕じゃないと思うんですけどね〜」
そう言って、何事もなかったかのように、またスマホを手に取り、画面に視線を落とした。
オフィスには、重苦しい静寂が広がった。明白な証拠があるにも関わらず、全く自分の非を認めようとしない。そして、その態度に、なんの恥じらいの色もない。
私の胸の中で、長年積み重ねてきた社会人としての倫理観のようなものが、カチリと音を立てて、静かに崩れていくのを感じた。
この一ヶ月で、彼の行動パターンは、もうハッキリわかってた。
自分で調べようとせず、すぐに人に安易な質問を繰り返す。しかも、その質問の仕方は、まるで人にものを頼むという意識が希薄で、当然のように「教えてくださいよ」といった甘えた口調だ。
丁寧に説明を受けても、まるで記憶に残らない。
自分の仕事に対する責任感が、ありえないくらいに欠落している。
形式的に謝罪はするものの、その言葉に心がこもっていない。語尾に軽く「へへ」という擬音語が付きそうなほど。
そしてスマホは、まるで彼の体の一部であるかのように、常にその手に握られている。
何か問題が起こった時、彼はいつも言い訳から始まり、責任から巧妙に逃れようとする。言い逃れができないか試してくるのだ。
私が何度も彼のフォローに回っていることを、彼は一度でも、「申し訳ない」と思ったことがあるのだろうか?
おそらく、ないだろう。
だって、私が彼のミスを無言で修正していることを、当たり前だと思っているから。
注意をすると、ほんの少しだけ目を伏せて、「すみません」と言う。だけど、その数秒後には、もうスマホの画面に釘付けになり、まるで別の世界に意識を飛ばしている。
「僕、ちょっと、あの、抜けてるところあるんで……」
その、まるで免罪符のような言葉で、全てが許されると、彼は本気で信じているのだろう。
私は、ようやく気づき始めていた。
彼は、「きちんと叱られないための方法」を、本能的に知っている。
上司や先輩が少しでも語気を強めると、すぐに声を小さくして、俯いて、いかにも反省しているかのような態度を示す。しかし、彼らが場を離れた途端にスマホをいじる姿を見てしまったら、彼が本気で反省しているようには全く見えない。
ただの「自分を守るための演技」だって、もう見抜いてしまった。
周りの社員たちは、決してルーズなわけじゃない。自由な社風ではあるけど、みんな、自分の仕事に責任持って、最低限のプロ意識持って働いている。彼だけが、その当たり前のラインから、ありえないくらい逸脱している。
私は、自分の立場に、深い戸惑いを感じていた。教育係として、私は一体どうすればいいんだろう?何を言っても、まるで暖簾に腕押しみたいに、彼には全く響かない。何を丁寧に教えても、すぐに忘れてしまう。だけど、教育担当である以上、簡単に見捨てるわけにもいかない。
この、堂々巡りのようなジレンマを、他の教育担当者は、一体どうやって解決してるんだろう。
もっと厳しく接するべきなのか?それとも、もっと根気強く、丁寧に教え続けるべき?
いや、それらは、もう既に試した。
教えること、間違いを指摘すること、彼の尻拭いをすること——その全てが、私自身のエネルギーだけを一方的に吸い取って、彼には、まるで何も届いていない。
誰がどう見ても彼のせい、っていうような、決定的なミスが起こらない限り、きっと彼はこのまま、「ちょっと不器用な、愛嬌のある新人」って顔して生き延びていくんだろうな。
十年経っても、ずっと新人の顔で。
ブックマーク、★★★★★等で応援していただけると、励みになります。