煙草に酔いしれて
百年後の世界。
”彼”と”私”の愛は、小説みたく綺麗で醜くて、優しかったらしい。
『星も月も見えない。
小説みたいにはならないんだな』
知らないよ、と言い返す私は薄情だろうか。
かけた眼鏡の縁との境で歪んでいる彼は、ベランダでまた煙草を吸っていた。
開けっ放しにした窓から生温い風が頬をかすめ、煙草の煙が気持ち悪さを誘う。
「いい加減、やめて」
『ごめん無理。
俺、これしないと』
手すりに煙草を押しつけて、黄色っぽい歯をにやりと見せた。
普通白くあれよ。
小説みたいには、やっぱりならない。
彼と同じ思考回路になって、大きな溜息をつく。
『あ、見られた』
「冗談言わないでよ」
答えない彼を見つめると、歪みがきつくなっていることに気づく。
人差し指で眼鏡を持ち上げ、ようやくくっきりした彼が現れた。
煙草の箱をいじっている彼は適当な返事さえ寄越さない。
仕方がない。
そうしてしまったのだから。
「やっぱり無駄な会話はあった方がいいか」
彼には聞こえないように独り言ち、立ち上がろうとしたけど面倒で溜息と一緒に座りこんだ。
それと同時に眼鏡がまたずれて、丁寧とは言えない手つきで机に置いた。
『何か言った?』
「何も」
風と一緒にまた煙草が匂うけれど、もう何も言わないことにした。
全開の窓のおかげで机に置いていた本の頁は簡単にめくれ、読み途中の場所を探す手間が増える。
ああ、億劫だ。
デスクには乱雑に置かれた資料と冊子、起動させたままのパソ。
皺くちゃのベッドの周りには足下が見えないばかりのごみ袋。
散らかった、という言葉がよくお似合いの一室。
片付けないのも、ここで過ごすのも、何日目に突入するだろう。
もうすぐ夜明けが来る。
ああ、億劫だ。
「片付けといてほしいんだけど」
『……………』
やっぱり、テンプレ以外は反応してくれない。
見直す必要と改善の余地はまだまだ山のようにあるらしい。
「窓の外、見るのやめて」
『無理』
「あっそ。…やり直すから、こっち来て」
重だるい身体を起こして、彼を手招きする。
パソのマウスを適当に動かして反応するのを確認した後、彼の胸に触れた。
硬い。押してみても何も反発しない。
『俺が外を見ればすぐそうするんだ』
「煩い」
『冷たいなあ』
彼の後ろから風が吹いて、煙草臭さが鼻腔を遊ぶ。
煙草はやめてもらうか。
真顔でいることに気づいたのか、彼は渋々服を脱ぐ。
半裸になった彼の肌は、私の肌の色と同じ薄橙色。
ただ違うことと言えば、柔らかさも弾力も皆無だということくらいだろうか。
決心して胸を軽くノックした。
すると胸の扉が開き、あらゆるコードが顔を出す。
コードをパソと繋ぎ、プログラムを変更――
『…やめよう』
「は…?」
『もう、無理だ…』
彼は腰が抜けたように座りこみ、虚ろな目を揺らして私を覗き込む。
眼鏡がない私には、彼の表情はうかがえなかった。
けれど、その声色と手の震えで彼の感情は手に取るように分かる。
こんな風なテンプレは入れていないけれど、焦る私の脳は動かない。
「生きたいって、二人で生きようってゆったじゃん」
『言ったよ、言ったけど。窓の外を、見たことはある?』
喉が痞える。
まだ、世界は変わっていなかったらしい。
今日もまた何処かで、爆弾が爆ぜた音がする。
今日もまた誰かが、血肉に汚れた武器を手に取る。
今日もまた何かが、意地汚い正義を持って人を殺す。
そんな世界。
変わらない世界。
変えられない世界。
『俺は機械になった。多少のことじゃ死なない』
「私がプログラムしたからでしょ」
『そうだね、でも、俺だけしか機械になれてない。それじゃ一緒に生きられない』
いつの間にか私の冷たい両手は彼の手の中に収まって、体温のないそれに包まれていた。
機械になった―違う。機械にしたんだ、私が、彼を。
こんな世界じゃすぐ死ぬから。彼には生きていてほしくて。
『俺はプログラムするのが出来ない。だから』
「いいから黙って。手放して」
力を入れても全く動かない。
怪力、なんてテンプレには入れていないのに。
『俺を見て』
強引、なんてテンプレには入れていないのに。
『一緒に生きられないなら、俺はもう、機械じゃなくていいよ』
冗談を言う、なんてテンプレには入れていないのに。
煙草を吸う、なんてテンプレには入れていないのに。
窓を開ける、なんてテンプレには入れていないのに。
手を握る、なんてテンプレには入れていないのに。
『もうすぐあいつ等が来る』
「いいよ、私くらい死んでもいいよ」
『俺が、嫌なんだよ』
泣きそうな顔で、苦しそうな顔で、そう告げた。
視界は半透明になって、頬に温かいものが伝う。
「生きてよ!凌真くらい生きて…!!」
『俺はもう、”凌真”じゃないから。機械だから』
そんなに声が震えているのに、彼の顔色は一切変わらない。
故に私の感情が、本の頁のようにすぐ裏返ることを知る。
群衆の声が耳を貫いた。
この国の兵士らしい。残念ながら、逃げ切るのは無理だった。
『ねえ』
「はやく逃げて!」
『爆弾は線を切れば爆発するでしょ』
凌真は自身の胸に手を置いてノックする。
動かない頭でも何とか理解して、凌真の手を強く握りしめた。
「何のために、凌真は”凌真”を消したの!?生きるためでしょ!!」
『うん、君と一緒に』
冷たい手が私の涙を拭って、そのまま頬に触れられた。
寂しそうな笑顔と、近づく足音に感情が高ぶって、半ば叫び声が出る。
「私は機械じゃないから生きられない。外に出ても結局死ぬ。凌真は自分を犠牲にしたんだから、その分生きろって言ってんじゃん!」
『君と一緒じゃないと、生きる理由も価値もない。こんな世界じゃ君がいないとつまらない』
瞬きの間に彼は両手をコードにやる。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの頼りない視界だけを信じて、首を横に振り続けた。
「駄目だってば、ねえ、凌真!!」
『なに、茜』
その凌真のままの優しくてあったかい声が、静寂を生み出す。
ひくついた喉も、嗚咽も、全て消えたみたいに。
「な、んで、私の名前知ってるの?」
『それは―』
「なんで泣いてるの?そんな風に…」
設定してないよ。
掠れた声では伝わらないようで、ドアを叩かれる音に交じっては聞こえないようで。
凌真は静かに笑った。
『愛の力で?』
黄色っぽい歯を覗かせて、嘘っぽい冗談を言う。
それを見つめる時間は虚しいほど短くて、すぐにドアが破られた音が貫いた。
大勢の兵士が私たちを睨み、銃をこちらに向ける。数人の兵士が引き金を引く。
何でハッピーエンドじゃないんだよ。
小説みたいには、やっぱりならないらしい。
凌真は煙草をごみ袋や資料、冊子に瞬きの間にばら撒いて、ライターを付ける。
私を抱きしめたまま、兵士たちから距離をとり、燃える炎に飛びこんだ。
「茜?」
「…なに?」
「愛してる」
もう、刺すような熱さなんて。痛いほどの心臓なんて。
何にも、気にならなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。