その2
「民を想わぬ者にこの位を譲るつもりはない」
皇帝桜が言った。
陽炎は皇帝桜に控えながら、その言葉を聞く。
淡々と吐かれた言葉に、玉座の間に立つ女が彼女を睨む。そんな醜い表情ができるのならば、もっと別にやることがあるのではないか。陽炎はそう思ったが口にはしない。
きっかけは些細なこと。
この日、謁見の時間に来た女を見て、陽炎は眉を寄せた。その女は、皇帝桜や皇帝凜夜と生ける時代と世界線を同じくし、二人と面識のある者だ。くわえて、皇帝凜夜に傾倒しており、異様に皇帝桜を厭うていた。
皇帝がトップの行政局では、危険人物として全員に共有されている女だ。
今後、皇帝桜に危害を加える恐れがあり、この城にトラブルを持ってくるだろうと予想されていた。その危険人物が謁見の時間に現れたのだ。この女が皇帝凜夜に執心しているという情報から、彼が心から愛している相手である皇帝桜の警備を強化している。民がこの城の中に入るタイミング、といえば謁見の時間。それゆえに、元より皇帝桜の傍に控えている文武官長官である陽炎、それにくわえて武官のトップ二人もこの玉座に控えさせていた。
――役に立ちましたね
今回の配置が無駄になることを願っていたのだが、そうもいかなかったらしい。
謁見に来た女の様子から面倒なことになったな、と思った。しかし皇帝桜に控える者として、表情に出すわけにもいかない。
陽炎は皇帝桜の玉座の前に控える。あの女が一定以上、玉座に近寄らないようにするために。
武官のトップであるエーベルハルトとセレスティナも同席しているため、何もないとは思う。だが、万が一を備えて、である。
「アンタね、恥知らずもいい加減にしなさいよ……! アンタみたいな出来損ないが、国のトップで良いわけがないわ! だから、私が代わってあげる!」
ビシッと皇帝桜を指さしながら言う女に、その指折ってやりたいと思いながら陽炎は様子を見る。正しく不敬罪な姿に糾弾してしまいたい。皇帝桜が望んでくれれば、陽炎達はすぐさま女を排除することができるのに。この玉座の間では皇帝の指示がすべてなので、今は本当になにもできないことがもどかしかった。
女はジッと皇帝桜を睨むのみで周囲に関心を寄せていない。女の味方は一切いないというのに、迷いがない姿が逆に清々しいほどだ。
だが、女は皇帝桜を出来損ないと言った。
生前の偏見のままに、迷いなく。陽炎は皇帝桜の生前を知らないので、この女の言葉の真偽を確かめるすべはない。だが、人に向かって出来損ない、などと宣う女の言葉など高が知れている。
陽炎達は、女の言葉を気に入らないと思ったし、女の方が愚鈍で愚かだと言い切れた。陽炎は皇帝桜ほど優秀な女性を知らないし、彼女に憧れる行政局の女性職員は数えきれない。
「例えば、キミが皇帝を代わって何になるのかな?」
静かな皇帝桜の声に陽炎は彼女を見る。
温度のない視線や声は、彼女の味方たる者には向けられないもの。なかなか見られない、美しい冷ややかな瞳を眺めておく。普段は淡々としていても、基本的に穏やかな様子を崩さない皇帝桜が、この女のせいで温度を持った。その事実は、不愉快極まりない。だがせっかくなので、普段見られないお姿を堪能した。
陽炎は女へ視線を移す。しばしの沈黙をしてから、動く気配を感じたから。
「アンタより、ずっと良い政をするわ」
堂々言い放つ女に陽炎は溜息を吐きたくなる。
しかし、女は陽炎達の様子に気付く様子もなく、聞いてもいないことを話す。
生前の父が政をしている人物だったから政が分かるだとか、学校で学んだ経験があるから政を行う上での相応の知識があるだとか。
この場所では何の役にも立たないことを言う。
武術や芸術、裁縫の技術などは、この国でも役に立つ能力だ。だが、学び舎で学んだことについては、数学や哲学などの大原則くらいしか役に立たない。なにより、政やそれに関わる制度などは、彼女達の生きた場所とこの場所とでは大きく異なるはずだ。価値観や倫理観、道徳なども、恐らく違う。
皇帝達は、生きた時代の制度や法律などの決まり事を良しとしていない。その彼女達が中心となって作っている決まり事や願いの何をこの女が知ろうというのか。
そう思ったのは陽炎だけではないだろう。
エーベルハルトは呆れたように肩をすくめ、セレスティナは馬鹿じゃないかと言いたげに女を見ている。
「僕より、善い政?」
こてんと首を傾ぐ皇帝桜に、女が笑うのを見た。
「そうよ! 私だったら、もっと丁寧に決まり事を作るわ」
あんなお粗末な物で、犯罪者を野晒しになんかしない。
凛とした立ち姿で言うのは構わないが、お門違いだと思いながら陽炎は女を見る。
お粗末な決まり事と言うが、決まり事を決めたのは皇帝桜だけではない。むしろ、建国当初からいた者達の意見を聞きながら、彼女達がまとめただけだ。女は犯罪者を野晒しにしていると言う。だが、ここに来てから決まり事に反した者は司法局が管轄し、そこで監視されながら過ごしている。
国民達が生きていた頃のことを言っているのならば、それこそ関係がない。
――恥知らずですね
ここでの生活のことを何も知らないのに意見するとは。
「そう。……ふむ」
聞こえた声に驚いて皇帝桜の方を見れば、少し考える様子を見せている。彼女が皇帝、という地位を明け渡すとも思えない。だがなにより、これほど的外れな発言を理解しようと努力していることが陽炎達には理解できなかった。
さっさと馬鹿なことを言うなと断じてしまえば良いのに。
「つまり、キミは生前の立場があるから、何も持たない僕が烏滸がましい、と言いたいということで合っているかな?」
僕はそのように理解したのだけれど。
皇帝桜が言う。
まさか彼女の口から、「生前」という言葉が出るとは思わなかった。
恐らく控えている武官達も同じだろう。
ここに来る前の出来事に執着する必要はないと、彼女はよく口にする。それまでに何をしていようが、どんな立場だろうが、何をしていようが関係ないと。
彼女は、皇帝桜は、この国の民の希望なのだ。
「僕は努力をしていたつもりなのだけれどね。僕の民は皇帝を選ぶための全国民達による投票、という形で、その努力を評価してくれていると嬉しかったのだけれど。――さて、キミは僕の民の目が間違っていると、そう言うのかい?」
温度がグッと下がった。
皇帝桜がスッと目元を鋭くし、玉座から降りてこちらに寄る。その一歩はしっかりとしていて、ゆっくりとしていた。まるで段差の数を数えるように、確かに一歩を踏み込んでいる。
「桜様」
彼女の進路に腕を伸ばし、行く先を止める。陽炎のその行動を咎めることもなく、そのまま立ち止まった。しかし、その視線は真っ直ぐ女を射貫く。
「僕達の決定や決まり事を疑うということは、僕の大切な民を軽視していることに他ならない。それは気に入らないね」
珍しく苛立っているらしい皇帝桜は、刺々しい言葉を選んでいる。
陽炎は、次の行動を迷っていた。皇帝桜を止めることは容易いが、女が調子に乗るのは気分が悪い。なにより、陽炎の心は彼女寄りだ。寄り、というよりも、彼女と共にあるというべきだろうか。
「ここで過ごしていれば知っているはずだよ。決まり事への不満は、行政局ではなく立法局へ持っていかなくてはいけない。僕ら皇帝のリコールは立法局を通す必要があるからね。それすらも知らないとは、キミはこの国で生きてゆく気がないと捉えられてもおかしくないのだよ」
分かるかな。
皇帝桜はそう言った。
確かに、この国に定住することが決まると、皇帝桜を始めとした皇帝達の認印のある書類に自分の名前を渡す。皇帝に名前を渡すことで、この国の民として正式に加護与えるという契約を皇帝達と行う。それから住む場所を決定し、保護官の役割を持つ者が新しい民に、ここで生活するための知識を与えるのだ。
その流れに例外はない。
なにより、生前については皇帝達からきちんと話がある。この世界は、ここに来る前の世界とは全く異なることや様々な者達がいること。
つまり、この女が生きていた頃の話を持ち出した時点で、この国を理解できていないのだ。
そんな女が皇帝になったら、そう思うだけでゾッとする。
「何が言いたいかっていうとね?」
珍しく皇帝桜は口元を歪める。
ゆるりと弧を描くそれは、女にとっては恐怖対象でしかないだろう。
「民を想わぬ者にこの位を譲るつもりはない」
軽やかに、笑うように、皇帝桜は言った。
「僕はこの国の民が大好きだ。彼等がいるから、僕がいる。僕は、彼等のために強くありたいと願うし、彼等のためであれば、ある程度の願いは聞き入れたいと思っているんだ」
皇帝桜の言葉に陽炎は笑う。
陽炎に名前を与えてくれたのは、皇帝桜だ。何も持たなかった自分に、名を始めとして大切なものをたくさん与えてくれた。同じように何も持たなかった者達が、彼女達皇帝から様々なものを頂いたことを知っている。
それは、一重に、彼女達が、陽炎達この国の民を愛しんでくれているからだ。
彼女達が強くあろうとしているのを知っている。だから、陽炎達も強くありたいと願うのだ。その強さは様々だが、確かに自分達は同じ方向を向いている。彼女達皇帝のために強くなることはすなわち、この国を守ることにも繋がるのだ。
「でもね、私の、この気持ちを分かってくれない者に、この皇帝という肩書を渡すわけにはいかないのだ」
私を信じてくれている民のためにも。
真っ直ぐに女を見ている皇帝桜に陽炎は声をかけた。
「桜様、一人称が戻ってますよ」
思わず表情が緩む。
気持ちが昂ると生前の一人称である「私」に戻るようだ。皇帝達の生きた世界では、公の場では「私」というのが普通だったという。くわえて、皇帝桜は生前公人であったので、ますます「私」と言う機会が多かったのだと聞いている。
一人称を変えると決めた時、生前からの決別だと、彼女達は笑った。
今では、意識せずとも一人称が混ざることはない。
だが、こうして感情が高ぶるとダメなようだ。皇帝桜はそこまでではないが、皇帝凜夜が「私」と生前の一人称を使う時は、体感気温が確実に下がる。
「……あぁ、ありがとう、陽炎」
そう言って陽炎へ向けられた瞳は、いつものように、風のない水面のような静けさだった。
皇帝桜はそっと瞳を閉じて、穏やかに深呼吸を三度し、それから緩やかに目蓋を開き、女へと向き直る。その様子は、いつも陽炎達が知る通りの彼女だ。
その温かな雰囲気も、瞳の穏やかさも、静けさを宿した表情も、全て。
彼女が冷静さを取り戻したのだと、陽炎は目礼を彼女へする。
「一つ、確認したいのだけれど」
皇帝桜は淡々と女に声をかけた。
声をかけられた張本人は、その声が聞こえないとでも言いたげに顔を背ける。だが、皇帝桜は特に気にした様子もなく言葉を続けた。
「凜夜へ懸想しているというのは本当かい?」
意味の分からない問いに、陽炎は傍にいるエーベルハルトやセレスティナへ視線を送る。
しかし、彼等も揃って首を横に振るところを見ると、皇帝桜の言葉の真意が掴めていないらしい。
彼女を見れば甚く真剣で、その問いかけがとても大切なことだと言うことが分かる。
「そうよ。だったらなんだっていうの? 自慢? 言っておくけど、アンタは凜夜様に慕われるような女ではないわよ」
忌々しいとでも言いたげに皇帝桜を睨む女は、しかし、しっかりと彼女の問いに答えた。まだ何か言っているが、彼女の耳には入っていないようだ。
――懸想の有無だけが重要のようですね……
恋慕や懸想、悋気など、彼女の理解に及ばないことが多い。くわえて、彼女はそれを「大切なものを護るためには不要」と断言している。
その彼女が、この質問。
不思議というか、嫌な予感というものだ。
皇帝桜を見れば、いつも通りの静かな表情を女に向けるのみで、特に変わった様子もない。
「そう。――セレスティナ。僕の侍女として、この子を城に召し上げたい。だから、使えるように教育してもらってもいいかな? イザベルと二人で」
セレスティナへ向いて皇帝桜は言う。指名された本人はビクリと肩を揺らし、彼女を見返す。それから、少し間を開けて、戸惑ったように口を開いた。
「本気で、おっしゃってはるんです? 桜様。ウチ等で、これを面倒見るんで?」
これ、と力なく示すのはもちろん、件の女で。
分かり切っているのに問い返すところが、彼女の戸惑いを分かりやすく表している。なにより言外に「嫌だ」と言っているところが面白い。言っている本人も分かっているだろう。言外に含められたそれを、皇帝桜が察することはできないことを。普段なら、決して言外に言葉を含めることなく、すべて音にして伝える。それが頭から抜けるほど、件の女を新人として受け入れることが嫌なのだろう。
人の好いセレスティナが新人の世話を厭うことはない。その彼女がここまで嫌だと前面に出すのだから、かなり珍しい案件だった。
――まぁ、私も嫌ですけど
この様子なら、この女を行政局に召し上げたいということではないようなので、皇帝桜の侍女を兼任しているセレスティナが指名されたのだろう。この女を侍女として教育するということになれば、女が慕う皇帝凜夜の弟も参加することになる。彼が様々補佐をしながら、何かあれば上手く調整してくれるだろう。
なにより、皇帝桜が何も考えずにこんな者を近くに置くとも思えなかった。
――だが、
どうなるのだろう。
陽炎は今も、訳の分からないことをつらつらと並べている女を見て溜息を吐いた。