2奥さん
「蜂蜜……」
が無くなってきている。と、言おうとしたが声が途切れた。蜂蜜の入っている瓶を照明に当てる。まん丸い月のようにきらきら輝いていた。
「塗り傷薬一つおくれ。」
「……。」
顔が整っている雑用が来た。無言で作っておいた薬を手渡す。
「ちょいっとあんた、」
ずいっと前のめりで顎を触られる。
「前から思ってたんだけどねぇ、どんな顔をしているんだい?」
顎のラインに沿って指で焦らされる。
「……。」
指をはじく。邪魔だ。
「……あぁ、黙ってるってことはいいってことだかねぇ?」
どんな神経してんだこいつ。面に触られる。口が空気に触れる。
「……!やめろ。」
「痛っ!あんた、良い度胸だねぇ。このあたしに手ぇ出すなんて。あたしはもうじき長の奥さんになるんだから。」
胸に手を当てどうだと言わんばかりに主張した。
「なら、内儀か。」
女が驚く。すると、蛇みたくニヤリと笑う。
「そう、ないぎ、内儀さぁ!あはは。内儀か、いいねぇ。良い女って訳だ。」
勝手に、はしゃいで出ていった。馬鹿かあいつは。内儀っていうのは遊郭での呼び名なのに。
(長に奥さんか。んなわけあるかろう。たかが、雑用だ。)
蜂蜜を欲しいと申請するために、内に行こう。内、というのは旅館の中の事だ。
「口無しがきてるぞ……。」
「何しにきたんだここに……。」
こそこそと耳打ちされる。聞こえとるぞ。
「きゃーー!!」
耳から警笛。襖隣りで女性が頬を抑えてうずくまっている。客と揉めたのだろう。無視して行こうとした。
「止めてこい、無薬。」
背後から長の音。耳元で囁かれる。近い。
「……。」
驚いた事を隠しながら、横目で見る。
「わしに用があるのだろう。なら、あれを片付けろ。」
長い爪で「あれ」を指差す。面倒だ。
「黙っているということは、喜んで、という意味だな。では、頼んだ。」
ドンと後ろから突かれた。足がもつれる。木の床が鉄砲の様に鳴る。
「……っ?!」
無薬の体が前に倒れる。だらっと腕を重力に任せて、こちらを睨む。おぉ、怖。眼なぞ見えとらんのに。あの若者は。
女性に近づく。見下ろしながらただ歩いて来るので、女性は無薬に恐怖心を抱く。目の前で跪く。
「ひっ!」
顎に手を当てながら顔をじーっと観察する。
「この程度なら冷やすだけで十分だ。」
誰にも聞こえない声量で言った。
ゴッ
頭に重い衝撃。一瞬、何も考えられない。部屋の方へ目を移す。
「責任者を早く呼べ!」
客が怒鳴り散らかしている。こいつが皿を投げてきたのだろう。
客に近づく。
(くふふ、さぁ無薬はどうするのか。)
「あ゙ぁ?お前が責任者だな?飯がまずいぞ!あとなぁ、」
無薬がいきなり客の口に何かを放り投げる。まるでピッチャーだ。
「んぐ!……っかはっはっ、何を入れた!」
すると客はバタンと床に倒れた。
「ち、力が入らないぞ、意識が……。」
客は眠り込んでしまった。
「藥だ。」
「天晴れ天晴れ!騒ぎがあると聞きつけて来たが、もうわしはいらんようやなぁ!くはは!」
扇子を持ち、満面の笑みで部屋に入って来た。
「客を外に運べ。」
雑用に一声。ずりずりと足を持ち引きずられ
「お客様、この旅館はどれも天下一品。不味いと仰りましたがお客様の舌が馬鹿だっただけでは?」
意識が無い客に煽る。
「……。そうかそうか!お客様は意識無いのか。くははは!」
なんだこいつ。どっかのねじが外れてんのか。長がこちらを見る。
「おいおい、そんな顔で見るな。」
顔?面はしてるはず……。
面を手で触る。
「くはは。大丈夫、着いとるぞ。こんなんに引っかかるとは、まだまだ若いのう。」
羽織りを舞わせる。
「さぁ、わしに用があるのじゃろう。来い。部屋まで案内する。」
――――――――
「んで、用とはなんぞ。」
机に頬杖をつきながら、上目で見る。ニカっとこちらを見てくる。
「蜂蜜が無くなってきたので、」
「ちょうだい、というわけか。」
喋っている途中だろ。うんうんと頷きながら話を聞いてくださる。
「良いだろう。しかし、」
襖から誰かが来る。会話が途切れた。
「なんだ、今話しているだろう。」
「長、縁談の件で急用が……。」
縁談……。あの女が自分と勘違いしたのだろう。しかし、長に嫁と言ったら……。
考え込んでいると長が先に口開く。
「あぁ、無薬や。蜂蜜は高級品なんでなぁ。丁寧に扱えや。」
「善処する。」
無薬はそそくさと部屋から出て、早足で仕事場に戻っていった。
長に嫁など吾輩の願望に邪魔だ。