8 誕生日の朝(後)
志緒里がガラス玉を欲しがっていたことだって、その様子から推測しただけだ。今はさして親しく遊んでいるわけでもない。なのに、こんなプレゼントをもらったら、重く感じるのではないか。
むっつり黙って、じっと観察してたなんて思われたら。というか、そう受け取られても無理ないことをしてしまっている。
(キモいし怖いよな)
そう気がついてしまったら、どうにも、面と向かって渡す勇気が絞り出せなくなってしまった。
けれど、俺は一夏を、志緒里のためのプリズムにまるごと掛けたのだ。その労力を無にするのも嫌だった。
俺にとって、このプリズムは、手に入れた瞬間から志緒里のものだった。なにか見返りを求めて渡すつもりではないのに、受け取れないと突き返されるのも、なけなしのプライドが許さない気がした。
苦肉の策で、俺は志緒里の誕生日当日、誰よりも早く登校した。差出人を書かないまま、無地の包装紙で素っ気なくラッピングが施されたプリズムを志緒里の机の中に押し込むと、ランドセルを背負ったままトイレに隠れた。他のみんながどっと登校してくるタイミングでさりげなく人波に紛れ込み、教室に着くと、志緒里の机の回りを数人の女子が取り囲んで騒いでいるところだった。
『うそー、誰からなのっ?』
『でもこれ、男子からだよね? 女子ならもっとかわいいラッピングするもん』
『高そうだし、絶対、本命じゃん? 告白ってこと?』
『えー、じゃあ名前を書かないのおかしくない?』
無記名の誕生日プレゼントは、女子たちの好奇心を刺激する格好のカモになってしまったのだと、どんくさくてニブい俺は、ようやくこの時気がついたのだった。
志緒里を取り巻いた女子たちはすごいテンションで問い詰めた。
『志緒里、心当たりないの?』
『もっと、ヒントとかあるんじゃない?』
志緒里は心底困った、という顔で、笑うばかりだった。その態度に、彼女たちはますます、好奇心を募らせたようだった。
『誰だろ。志緒里にコクるなんて、よっぽどカッコいい男子じゃないと釣り合わないよね』
『え、三組の小田くんとか? サッカークラブの十番の。前ちょっと志緒里のこと気になるって言ってたって、三組の女子が』
きゃあ、と悲鳴が上がる。
『全然、違うんじゃない?』
眉をハの字にして志緒里が言うのと、きつい一言が割り込むのが同時だった。
『バッカじゃないの』
クラスの女子で一番気が強い竹内だった。
『ブサイクのくせに、名前も書いてない意気地無しのプレゼントにヘラヘラしちゃって、チョロいやつ。小田くんなわけないじゃん』
志緒里の顔色が青ざめるのを通り越して真っ白になった。
『どうせ、正面切って渡す勇気もない底辺のゴミ虫野郎か、こうやって浮かれてるあんたを陰で笑ってるか、どっちかでしょ。ちょっとでも自分のこと、かわいいとか思っちゃってるわけ? うぬぼれてんの、ださっ』
――竹内、小田にコクってフラれたらしいぜ。
――あー、わかる。竹内こえーもん。
次の瞬間、誰からともなくそんな囁きが聞こえて、竹内の顔は志緒里とは対照的な真っ赤に染まった。
このとんでもない騒動の原因を作ったにもかかわらず、何もできなかった俺は、竹内の言うとおり、意気地無しのゴミ虫野郎だったと思う。今にして思えば、弁解の余地は一切なかった。
そもそも告白のつもりなんかじゃなかったのに、目立つところも取り柄もない、冴えない俺が名乗り出れば、よけいに騒ぎが大きくなって、志緒里までもっとからかわれる、とか、そんな考えは所詮後付けの言い訳にすぎない。
心底情けないことに、その瞬間の俺にできたのは、まるで他人事のように、教室全体に向かって大声をあげることだけだった。
『もう予鈴です! 席に着いてください』
『お、何だよアツト、急に』
『日直なんだよ』
声に驚いた近くの男子に尋ねられ、俺は、黒板を指差した。隅っこに、先生が消えない黒板ペンで書いた四角四面な「日直」の二文字がある。その下に、いささか不器用なチョークの筆跡で書き込まれた『かば田あつ人』の六文字。前日の日直が、次の当番の氏名を書いていくルールだった。
『いちいち集まって騒いで、うるせーよ女子。もう先生来るぞ』
もやもやと高まっていた教室の中の緊張が、それでぷつっと途切れた。志緒里も、はしゃいで志緒里を問い詰めていた女子たちも、竹内でさえそれ以上は何も言わず、その言葉を待っていたかのようにそれぞれ自分の席に戻った。
下り坂でふいにブレーキが壊れてしまった自転車のように、加速度をつけて険悪なムードに落ち込んでいったその場の状況に、みんな戸惑っていたんだろう、と今ならわかる。
戸惑ったというなら、実際のところ、一番戸惑ったのは俺だったのかもしれない。
好きとか告白とかそんな話題は、漫画や本で目にすることはあっても、自分には関係ない世界の話だと思っていた。
お子さま過ぎた俺は、一足早く人生の階段を上っていた周囲の変化に完全に気付きそこね、乗り遅れていたのだった。
その結果、よかれと思ったプレゼントで、俺は志緒里の誕生日の朝を台無しにしてしまった。
みじめで情けなくて、志緒里に合わせる顔がなくて、俺は彼女を避けた。当の志緒里は、俺の行動の変化に気が付いていなかったわけはないと思うが、なぜかと問いただすようなことはなかった。
もとよりその頃には、男子は男子どうし、女子は女子どうしで行動することが増えていたし、塾に行き始めるやつが増えるのにともなって、放課後に誘い合って外で遊ぶ機会はどんどん減っていたから、そうした行動が悪目立ちすることもなかった。
そのまま、俺たちは小学校を卒業した。祖父のマンション管理人室に帰宅する習慣もそれと同時に終わりになった。
中学校は、二人とも同じ地元の公立中学校だった。だが、近隣の小学校と合流して一学年六クラスもある環境では、同じクラスになることもなかった。体育館の二階で活動する地味な男子卓球部の俺と、講堂外のピロティで活動するダンス部の主力メンバーになっていった志緒里では、校内ですれ違うことすら稀で、もう縁は切れてしまったも同然だった。
ろくに言葉も交わさないままそれぞれ別の高校に進学したところで、俺に降ってわいたのが、このマンション管理のアルバイトだった、というわけなのだ。