3 プランター
「……へ」
気を付けるね、の一言で解放されるだろうと当たり前のように思っていた。もう体半分、帰るつもりで重心を移動しかけていた俺は、意外な答えに思わず上ずった声になってしまった。
「こんな時に、親切につけこむみたいで申し訳ないんだけどさあ」
彼女は眉をハの字にした。
「お母さん、家庭菜園のプランターを何回言っても片付けてくれてないんだよね。もうやめてて、何も育ててないんだけど。土、どうしたらいいかわかんないって言って」
「あー、土か」
「あれって、燃やすゴミなの? 燃やさないゴミ? 問い合わせしようと思ってても、いつも忘れちゃうんだよね。市役所のコールセンター、平日九時から五時って、なかなか電話掛けらんなくない?」
「わかる」
「で、どうしようかと思って延ばし延ばしにしてたら、台風でしょ。お母さんは職場の事前対応で今日の帰りは遅くなるって言ってるし、もう、途方にくれちゃってて。でも、去年の台風で、ニュースでやってたじゃん。一番ひどい地域だと、看板が折れてエアコンの室外機まで動いちゃったって。そしたら、プランターは飛ぶかもなあって。まずいよね」
「ん、外に放置するのはやめてほしいかも」
「それなら、お願い!」
志緒里はおどけて、顔の前で手を合わせた。
「土を片付けるのだけ手伝ってほしい。ゴミの日までは、どうにかして室内に保管するから」
まともに会話するのなんてもう何年かぶりなのに、彼女の話しぶりは、先週まで親しくしゃべっていた友人に物を頼むのとまるで変わらない態度だった。
その気軽なノリに圧倒されつつ、俺はうなずいていた。
「わかった」
「わあ、ありがとう!」
志緒里はまたあの独特のイントネーションで言って破顔した。なぜかその笑顔が直視できなくて、俺は目をそらしてしまった。
「じゃあ台車とってくる。土はいちいち手間をかけて市の回収で捨てなくても、下の共用部分の植え込みに足せばいいから」
結局、志緒里たちの部屋と、階下の植え込みを、俺は台車で三往復した。最初の二往復は、ついて来ようとする志緒里を押しとどめて、まだ出すプランターがあれば、部屋の玄関の外の共用廊下まで搬出しておくように言った。だが、最後の一回は、俺はいいと言ったのに、「アツにばっかりやらせるの申し訳ないし」と、志緒里も無理についてきた。
と言ったって、俺が台車のハンドルを離すわけもなく、志緒里は主にエレベーターのボタンを押すだけの係だ。
最後のプランターの土を植え込みの下に空けると、プランター大小取り混ぜて五個分の土はちょっとした山になっていた。それを移植ごてで平らにならしていると、志緒里がひょいっと隣にしゃがみこんできた。
「やるよ。ホントそれくらいやらせて」
「いや、これ一個しかないし」
「やるって。貸して」
志緒里は俺の手から強引に移植ごてを奪い取る。
「つよっ。お砂場トラブル再燃かよ」
そのあまりにざっくばらんな態度に、俺は思わず笑ってしまった。幼稚園でよく起こった、シャベルの奪い合いを思い出す。
「再燃って、アツとお砂場で遊んだことはないと思いますけど」
冗談めかしてツンと鼻をあげた志緒里は言う。志緒里が母親とメゾン・ド・バーチに引っ越してきたのは、小学校四年生のころだ。当時は学校帰りや放課後に集団で遊ぶ機会もあったけれど、確かに九歳、十歳ともなると、さすがにもう砂場遊びをする年頃ではなかった。
「じゃあ、そこ頼む」
俺は気を取り直すと、水やり用のホースで空になったプランターを洗い始めた。
「あ、どうせ捨てるからいいのに」
「室内に取り込むんだろ。ざっと流しておかないと床がじゃりじゃりになる。後はぼろ布で軽く拭けば、水も落ちないし平気だろ」
俺は軽く振って余分な水気を切りながら、プランターを表裏から眺めた。
「ってか、まだ余裕で使えそうじゃん。これ捨てるの?」
「まあね。もう家庭菜園はこりごりってお母さん言ってるから」
「なんで?」
「青虫、ナメクジ、大量発生。あんなに来るんだねー」
「あー、虫ダメだと確かにきついだろうなあ」
「共用部分の花とかってどうしてるの? 全然いないじゃん、葉っぱも虫食い跡にもなってないし」
「あれは、がっつり駆除してる。食べるものじゃないから、気兼ねとかないしさ。土にも防虫剤入れるし、植木屋さんが植栽に消毒を掛けるときに一緒に掛けてもらう」
「なるほどね」
ふいに、くすくすと志緒里は笑い出した。
「ねえ、花と言えば、覚えてる? 私が引っ越してきたばかりの頃、アツのおじいちゃんにめっちゃ怒られたこと、あったでしょ」
「何?」
「オシロイバナ量産計画」
「あー、あれ!」
俺もつられて笑ってしまった。そう、そんなこともあった。