2 台風の接近
犯人が分からないまま、管理人室の窓口を舞台にしたおかしな遊びはその後も続いた。
次に出勤したときに見つけたのは、濃い青――藍色というのだろうか――で折られた、花のような八角形のモチーフだった。青がぐるりと外周を取り囲み、白いゾーンを間に挟みつつ、中心部分には花芯が立ち上がるデザインだ。同じ色の紙で折った、先のとがった卵型の葉まで添えられている。
その次は、赤いハイヒールと、青い、おそらく男性用のフォーマルシューズ。さらにその次は、紫色の扇。どれも同じ、クリーム色のざらっとした質感の台紙に貼られていた。最初のジュゴンと同じだ。一連の折り紙が、同一の人物によって置かれたことは間違いないように思われた。
念のため、エマちゃんに確認したが、かわいいいたずらの主はもちろん彼女ではなかった。
細部まで気を配って、角をきちんと揃えて折りあげられた作品は、たしかに、幼い子どものものというよりは、もっと指先の力や経験がある年長者の手によることを想像させた。もっとも、扇の中央にあたる、のり付け部分が少し甘いことから、さほど細かいことにはこだわらない性格の作り手かもしれないが。
高齢者施設に通っている住人が、レクリエーションで作ったのだろうか。しかし、さりげなく聞いてみた限りでは、誰も心当たりはないようだった。
もちろん、俺が高校生である以上、平日にバイトに通える時間は午後から夕方に限られている。そのため、めったに顔を合わせない住人もいる。だが、その中にも、管理人室に折り紙を届けようと思いそうな人物の心当たりはまるでなかった。
いつまで続くのかわからないが、俺はなんとなくその折り紙を窓口のガラスの内側に飾り、新しいものが届くたびに取り替えていた。差出人も何も書いていない。だが、それは、明らかに何かの意図を持って窓枠に置かれたもののように思われた。
悪意……ではない、と思う。
怒りやあざけりの気持ち、からかってやろうなどという意図では、こんな風に、文字通り折り目正しい、端正な作品は折れない気がする。もともと、俺自身がかなり不器用なので、折れるというだけで尊敬してしまうけれど。
◇
季節は少しずつ進み、九月の終わりになっていた。
大型の台風が接近する予報に、俺は祖父と相談して、臨時でマンションに出向いた。
高齢者だけ、あるいは女性だけの入居家庭も増えてきている。ベランダの片付けや排水溝の掃除が間に合わず、雨水が溢れたりすれば、物件に被害が出かねない。最悪、物が飛ばされでもしたら、被害はその部屋に留まらず、近隣にまで及んでしまう可能性もあるだろう。飛来物で窓が壊れてケガでもすれば大ごとだ。
備えあれば患いなし、ということわざもある。各戸を訪問して、祖父が用意した注意喚起のチラシを手渡ししながら、片付けや窓の補強が必要だと依頼されれば、簡単に手伝うことにしたのだ。
実際に片づけを頼まれた家庭はそう多くなく、数軒だった。物干しざおや葦簀を外して紐で束ねたり、大きな鉢植えを室内に取り込んだり、窓に段ボールを貼り付けたりした。
一通り終えてから、俺は、留守だったせいで後回しにしていた最後の一軒に重い足を運んだ。
バイトとして以前からの知り合いに接するのには独特の気構えがいるものだ。それが、もう何年も疎遠になっている異性の友人であれば、なおさらである。
『虎瀬』と小さく書かれた表札の下のインターホンを押す。
さっきと同じように、押してから三十秒待って、もう一度同じ手順をくり返す。それで返答がなければ、チラシをドアの新聞受けにつっこんでさっさと帰るつもりだった。じりじりと胸の中で三十を数えている自分が滑稽だ。
いてほしいのか、ほしくないのか。
彼女の母親が出てくれればそれがベストなのだが、フルタイムで働いているので、あまり期待できそうにない。
二十八のところで、インターホンから「はーい」と明るい応答が聞こえた。
「ごめんねー、遅くなって。何かあった?」
ひょいっとドアから顔をのぞかせた志緒里は、相変わらずシンプルでリラックスした服装だった。そっけないTシャツとジャージのせいで、かえってスタイルの良さや整った顔立ちが際立つような気がする。特に来客の予定もなく自宅にいたのだろうから、ラフな服装も当然ではあるのだが、こちらは妙に緊張してしまう。
「あの、これ。台風来るから」
祖父のチラシをぐいっと差し出した。
「ベランダの片付け、出来てなかったら手伝う。やってるならそれでいいから」
「え、確認とか? 全戸? 大変だね」
「しないしない。注意喚起だけ。ほら、お年寄りだけのところもあるから、もし、手伝ってって言われたらやるよって意味で一応言って回ってるだけ」
俺は慌てて、早口で言った。
バイトや台風を口実に、志緒里の自宅に上がりこもうとしているなどと思われたら心外だ。
……そんなのは自意識過剰すぎる思い込みだってことはわかっているけど、つい気にしてしまう。
そんな俺の内心をまるで知らぬげに、志緒里は腕を組んでちょっと考える風情になった。
「本当に手伝ってくれるんなら、すっごくありがたいんだけど。迷惑じゃなきゃ」