11 極小のプリズム
「あの、すごく嬉しい。さっきも言ったけど、俺の初恋は志緒里だったし、今もその、好きだと思う」
志緒里は俺が折り紙カードや自分で折ったカバと一緒に持っていた折り紙セットから、白い折り紙を一枚抜き出した。手早く猫のような形を折って、テーブルの上にあったアンケートボックスに差してあるボールペンをとると、ささっと縞模様を描き込んで、俺のカバのとなりにちょんとくっつけた。こちらを見ないまま、おずおずと尋ねる。
「じゃあ、成立?」
こういうことは、ちゃんと言った方がいいのだと思う。モテないなりに、妄想シミュレーションだけは数々のバリエーションで実践済みだ。
俺はカバを指でつついて、志緒里のトラにぶつけた。
「成立というか。ええと、ちゃんとお付き合い、してくれる? ちなみに俺は一切モテないし、未だかつて付き合ってた女の子なんてゼロだけど」
志緒里はトラを指で押さえた。
「よろしくお願いします。ってか、モテないなんて嘘でしょ。周りの女子、見る目なさすぎじゃない?」
口をとがらせてから、彼女は得心がいったように、大きくうなずいた。
「でも、アツ、マジでくそニブだからしょうがないかー」
この罵倒は甘んじて受け入れるべきである。何より、それを言っている志緒里の、力の抜けた笑顔が今日一番でかわいかったので、俺はただうなずいた。
◇
金木犀がどこからともなくほんのり香る夜道を歩きながら志緒里はぽつんと言った。
「アツがさ、虹のこと覚えててくれたの、嬉しかった」
「いや、そりゃ忘れないと思うけど。なんで?」
「あの頃、私、荒れてたんよね」
「荒れてた? どこが。ぜんぜん、すぐクラスに馴染んでたじゃん」
「うん。外向きはね。でも、苗字が変わったのも引っ越したのも、全然気持ちがついて行ってなくて、家ではお母さんとけんかばっかりしてた。お母さんは、今の苗字に馴染んでほしくて、虹の話とか持ち出したんだよね。転校するときに、どうせ持ち物の名前を書き替えるくらいなら、全部新しいのにしちゃおうって、虹の柄のやつ買ってきたの。それが、もうしょうがないんだ、二度と前の通りには戻れないんだってわかってても、嫌だった」
俺はちらっと横目で志緒里を見た。彼女は顔を上げて、まっすぐ、夜の闇の底をにらんでいた。
「お父さんのことが好きとかじゃないの。お母さんにひどいことしたし、その時にはもう完全に嫌いだったからそれはいいんだけど、でも、名前が変わって、引っ越しもして、それまでの自分が何もかもなくなっちゃうみたいなのがすごく嫌だった」
あの話には、そんな裏があったのか。
「そういうので同情されたくもなかったからさ、もう、すごい気を張ってて、離婚のこと聞かれても、全然平気! って言って回ってて。嘘っぽくて、やな子だったと思う。竹内さんが私のこと嫌いって言ってたの、人づてに聞いてたの。でも、そうだろうな、私も自分で嫌いだもんなって思ってた」
でもさ、と志緒里は俺の上着の袖をつまんだ。
「アツは全然そういうこと聞かなかったでしょ。何も聞かないで、ただ、私のしたいこと一緒にして、怒られるときも一緒に怒られてくれたでしょ。虹の話したときも、ただ、ふうん、似合うって言ってくれたんだよ。志緒里に似合うって」
「うん」
当時の俺は本当にお子様で、深い考えがあったわけでも何でもない。ただ、新しい友人ができて嬉しかっただけだったと思う。それでも、志緒里の思い出を否定したくなくて、ただうなずいた。
「虹の似合う新しい私になれるかな、種を植えたオシロイバナみたいに、ちゃんとここの土地の子になれるかな、って、多分、当時の私はすごく気を張ってたと思う。でも、アツは何にも言わずに、ただお世話してくれたし、様子を見ていてくれたでしょ」
「花の世話な」
「そう」
志緒里はくすくすと笑った。
「だから、アツは私にとって特別なの。あの場所も」
「あの場所?」
「裏庭のオシロイバナ。お母さんとけんかしたり、イライラしたりしても、あのマンションの部屋の中じゃ、完全に一人になることなんてできないじゃない」
「ああ」
さほど広くない2LDKである。母子二人、手狭とまでは言えなくても、家のどこにいてもお互いの気配は感じられただろう。
「でも、小学生じゃ、夕方以降は一人で外に行くってわけにもいかない。そんなとき、『敷地の外には出ないけど、オシロイバナの世話に行く』って言えば、お母さんはぎりぎり、許してくれたの。マンションの外を通る人からは絶対に見えないし、逆にお母さんからは、西側の部屋の窓から見下ろせば、私がそこにいるのは見える場所だったから」
俺はぼんやりと思い描いた。夕闇が次第にわだかまっていく裏庭で、小学生の志緒里が、学校では見せないような暗い表情で、ぽつりぽつりと闇に浮かぶ鮮やかな色のオシロイバナをじっと眺めている。それを階上の部屋から確認して、少なくとも娘がそこにいることに安心する志緒里の母親。
それは、想像もしたことがなかった二人の姿だった。
「今はもう、全然、そんな深刻なケンカとかしないよ。せいぜいプランターをまだ片付けてないけどどうするの、とかそれくらいで、二人とも笑っちゃって、平和なもん。だから、小学生の頃のあれが私の反抗期ってやつだったと思うな。あの反抗期に、小さくても居場所を作ってくれたのが、アツと、アツのおじいちゃんだったんだ」
志緒里は小さくため息をついた。唇の端に、柔らかい笑みが浮かんだ。
「急に告白とかして、嘘コクとか疑われたら嫌やし、言ったけど。こんな恥ずかしいこと、二度は言わない。まさか、白黒つけろって意味に取られるとは思わなかったよねえ」
「残った折り紙の色?」
「うん。どの折り紙を買ったかまではわからなくて当然だから、これは自分だけの意味のつもりだったけど、残ったのが黒と白で、こくはく、だと思ってた」
「その発想はなかったわ。ってか、ダジャレかよ」
へへっと笑う志緒里に、俺は一番聞いてみたかった質問を投げかけた。
「志緒里はさ、あの頃、プリズムが誰からだと思ってたわけ」
ぺろっと舌をだして、彼女は肩をすくめた。
「その件についてはさ、本当に悪いと思ってる。お礼も言わないで」
「何で? え? わかってたってこと?」
「アツさあ、ラッピング、文具店で頼んだでしょ。一番シンプルな、無地のネイビーのやつ。あの包装紙、この辺ではあの店しか使ってないんだよね」
俺はうっと言葉に詰まった。小学生探偵はここにもいた。
「それで、文房具屋のおばさんに、おばさんから聞いたって絶対言わないから、お礼を言いたいだけだから、誰が買ったか教えてって拝み倒して」
女子は怖い。志緒里が、贈り主の正体に気が付いていたなんて、その素振りからは一切全く、一ミリも想像できなかった。
「でも、アツ、何も言わなかったでしょ。だから、これは聞く方が野暮なのかなって。私はアツのこと好きだったけど、あんな風にからかわれたら、アツはそういうつもりじゃなかったら言い出せないだろうし、言いたくないのかなって思って、大事にしまってあった」
今でも、机の上に飾ってあるよ、と志緒里は微笑んだ。ちょうど、街灯の下を通り過ぎた瞬間で、その目じりの辺りにわずかに光を反射する極小のプリズムが見えた。
俺の袖をつまんでいた志緒里の手を、俺はとっさに捕まえた。志緒里をがっかりさせない自分になる、という誓いを込めて、夢みたいな時間が逃げてしまわないようにぎゅっと握りしめる。
今度こそ、後悔したくない。
「あのプランターさ、何か植えよう。種、探して」
とっさに言った俺の一言に、志緒里は嬉しそうに、えへへ、と笑った。親指に返ってくる彼女の指先の力が、これは夢でも妄想でもないと教えてくれる。
「じゃあ、一つは植えたいのある」
何? と問い返すと、志緒里は小さい声で言った。
「あのね。……オシロイバナ」
「それ、よほど気をつけないと、はびこるぞ。こぼれ種も管理していかないと、裏庭にとどまらなくなる」
まあ、そんな苦労も楽しいかもしれない、と思いつつ俺が言うと、志緒里はうなずいた。
「今度は私も、フリだけじゃなくてちゃんとお世話するよ」
その笑顔は雨上がりの虹みたいに晴れやかだった。
最終話までお付き合いいただいて、ありがとうございました。
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