1 おかしな遊び
おかしな遊びに興じているやつがいるらしい。
それに最初に気がついたのは、残暑のまだ厳しい日の午後だった。
賃貸マンション、メゾン・ド・バーチ管理人室の窓口に、さりげなく置かれていた、オレンジ色の折り紙作品。クリーム色の絵葉書大の台紙に貼り付けられているが、メッセージなどは一切書かれていない。
「なんだこれ。……誰が?」
ちょっとでっぷりしたフォルムの色鮮やかな海獣らしき折り紙は、築三十年以上の年季が入ったマンションのエントランスで、どこか所在なさげに見えた。
「あー、折り紙! 管理人さん、それなあに?」
俺がその台紙を手に取ったところで、声を掛けてきたのは、六階に住んでいる小学二年生、エマちゃんだった。ピアノの鍵盤が大きくアップリケされたかばんを重そうに肩に掛けている。ちょうど、おけいこ帰りの時間だったらしい。
「こんにちはー。……こら、エマ。まず、こんにちはでしょ!」
後ろから追いついてきてすかさず注意するお母さんと、興味津々のエマちゃんに、俺は会釈した。
「おかえりなさい、エマちゃん。これね、今ここに置いてあったんだ。何の折り紙かなあ」
エマちゃんは、俺の手から台紙ごと折り紙を奪い取ると、真剣なまなざしで、顔から近づけたり離したり、上下をひっくり返したり斜めにしたりとじっくり検討してから、おごそかに言った。
「ジュゴン」
「ジュゴン?」
確か、海か大きな川に住んでいる、ひれで泳ぎ回る哺乳類だったような気がする。それでも、小学校低学年の口からポンと出てくる単語とは思えなくて俺が驚いていると、エマちゃんは折り紙を俺に返しながら、誇らしそうに説明してくれた。
「だってね。アシカだったら、もっと鼻がつんとしてるもん。イルカだったらもっと鼻と口がつきでてるし、せなかのここに、とがったヒレがないとおかしいし。セイウチだったら、キバがないとダメでしょ」
「へえ、詳しいねえ」
「うそでしょ。管理人さん、まさかジュゴン見たことないの?」
かわいそうなものを見る目付きで彼女は言う。
「うん、ない。エマちゃん、あるの?」
「あるよ。この前パパとお出かけした水族館で見た! 大きくて、すっごいかわいいの。管理人さんも、おそうじがお休みの日に行ってみなよ! カノジョさん、喜ぶよー」
エマちゃんが挙げたのは近県の観光地にある水族館の名前だった。へえ。そんなのも飼っているのか。
「エマ! ちょっと、やめてよ。年上の人に向かって、そういう口の利き方はダメ。すみませんー」
お母さんは体裁悪そうに俺に頭を下げると、エマちゃんをずるずる引きずるようにしてエレベーターに向かった。
「いえいえ。エマちゃん、教えてくれてありがとね」
俺が手を振ると、「ばいばい」と彼女も陽気に手を振り返してくれた。
彼女なんて、俺、樺田淳人のわずか十六年の人生において、未だかつて存在したことすらなかった。だがもちろん、そんなことをエマちゃんに言うつもりはない。言ったら、実に残念なものを見た、という顔になって、どうやったらモテるかを懇切丁寧にレクチャーしてくれそうだけど。
俺はジュゴンの折り紙カードを受付の窓口の内側に立てかけてから、中断していたエントランスの掃除を再開した。
ここ、メゾン・ド・バーチは、祖父が所有・管理している賃貸マンションだ。祖父の身体が思うように動かなくなってきたので、高校生になったのをきっかけに、俺はアルバイトという形で週に二度ここに通って、共用部分の清掃や花壇の手入れ、その他できる範囲の管理業務を行っている。正式にアルバイトになってからはまだ半年ほどだが、それまでも時折、祖父の手伝いをして小遣い稼ぎをしていたので、作業自体にはもう慣れていた。
集合ポストを磨いて、チラシ用のゴミ箱の中身を片付けているときに、再び、声を掛けられた。
「あ、アツだ。いつもありがとう」
ちょっぴりハスキーな声、ありがとうの、「と」が少しだけ上がる独特のイントネーション。
見るまでもなくわかる。三階の住人で中学までの同級生、虎瀬志緒里だ。
ぎこちなく顔をあげた俺に、にこっと笑って軽く手を振り、こちらの返事を気にも止めずすたすたと通り過ぎてしまった。黒の三本線ジャージに、控えめに黒のロゴが入った真っ白いTシャツ。コンビニにでも行くところなのか、白のショルダーストラップでスマホを斜め掛けにしている以外に手荷物はなかった。透明なアクリルのケースとスマホ本体の間に挟んだポップな虹のステッカーが辛うじて色味を添えているだけの、全体的に飾り気のない服装だが、気にした様子もなく、背筋をすっと伸ばして集合玄関の外の短い階段を下りていく。
わずかに動いた空気に、ほんのり、花のような香りが漂った。
長い髪が踊るその背中を、馬鹿みたいに見送っている自分に気が付いて、内心舌打ちした。
あの時のみじめな記憶に囚われているのは俺の方だけだ。そんなこと、わかっているのに。