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星乙女

作者: 水無飛沫

正義を司る女神テミスはゼウスとの間に御子を孕んだ。

やがて産まれてきた女児は、ぱちりとした大きな目に愛くるしい唇を持った大変愛くるしい姿であった。

その大きな瞳がまるで星空のように輝いていたので女神は大層慈しみ、その娘をアストライア(Astraea)―輝ける星の乙女―と名付けた。


時は太古。人々が未だ神々と暮らしていたころ。

実りは豊かで争いごともなく、人はお互いを尊敬し、神々を敬っていた。

そんな中でアストライアは育った。

まだ幼く愛くるしい彼女は、人神を問わず誰からも優しく接してもらい、彼女もまた愛情でもって彼らに応えた。

人はこの頃を黄金時代と呼んだ。

今では失われてしまった様々なものが、そこにはごく自然に存在していたものだから、

この名を呼ぶときに人々は失ってしまったものに寂しさを覚えたという。


やがて大きな戦争が起きた。

人々は富裕と貧困に分かたれ、富を独占しようとする者、富を簒奪しようとする者が現れた。

人は武器を取り、人と争った。

富める者は貧しい者から奪い、貧しいものはさらに貧しい者から奪う。

至る所で殺し合いが発生し、大地は血で穢れてしまった。

神々はその喧騒がいやになり、天の世界へと逃げていく。

これを鉄の時代と呼んだ。


女神テミスは『正義』を失ってしまった人類を粛正しようと剣を手に取る。

アストライアは母親がそれを行った時に、一体どれだけの人間が死を迎えることになるのだろうと想像しただけで恐ろしくなり、テミスに思いとどまるように嘆願する。

それもこの数年で何度繰り返されてきたことだろう。

テミスは怒りに身を任せて、今にも飛び出してしまいそう。

「もう我慢なりません。

 人は人を敬うことを忘れ、神を畏れることを忘れ、一体どれだけの悪行がこの大地に蔓延っているのでしょう。

 かくなる上は人間を殲滅するか、洪水でもって大地ごと浄化するか……」

アストライアはそんな母に縋りつきます。

「いいえ、お母さま。

 人は優しいものです。きっといつかわかってくれます。

 私は彼らに愛されて育ったのです。彼らは少し道を間違えてしまっているだけなのです」

「このやりとりも、もう何度目になりますか?

 私はもう我慢がなりません。けれどお前がそう言うのならば少しだけ猶予を与えます。

 私は他の神々とともに天へ帰ります。お前が彼らを正しく導いてごらんなさい。

 それが出来なかった時は……わかっていますね」


他の神々が全て大地から消えてしまった後も、アストライアだけはそこに残り続けた。

信仰を残したわずかな人々を率いて、あまねく人間を愛して、信じて、人の道を説き続けた。


「女神様。ご慈悲を……。

 村が飢えてしまいます」


ある日、遠くの村から彼女の救済を求めて旅人がやってきた。

飲まず食わずといった体で随分とやつれてしまっている。

彼女は旅人に水と食料を与えると、彼はポツリポツリと語りだす。

その村は戦争で全てを簒奪され、村人たちはもう生きることもままならないのだという。


「せめて少し、わずかばかりの食料を分け与え下さい。

 娘もまだ小さく、せめてこの冬を越えるだけのお恵みを……」


アストライアは旅人に大層同情して、彼女の取り巻き立ちに施しを与えるように告げた。

けれど帰って来た言葉は

「あなたは優しすぎる」

「それでは私たちが生きていけない」

「知らない人間と私たち、あなたはどちらを救うというのか」

といった心ないもので、女神は途端足元が瓦解したような心持になった。

「わずかばかり分け与えれば、誰も飢えることはないでしょう」

女神がそう説くものの、目に怒りを湛えた人々は誰一人として自らの分け前を与えるようなことはしなかった。

彼女は寂しそうに笑うと、神殿の奥の自室へと入っていった。


人は分け与えることすら忘れてしまった。

この世界は既に虚偽と傲慢で構成されている。

……認められない。認めたくはなかった。

自分を愛し育んでくれた世界が、もうどこにもないだなんて。

現実が自分をどこまでも追い立てる。

けれど私は……それでも……。


女神アストライアは母親から授かった剣を手に取る。

私は母の言いつけ通り、人々を正しく導けなかった……。

暗鬱たる思いで剣を鞘から抜く。

私は正義の女神テミスの娘。

堕落してしまった人間を裁かねばならない。


「制裁と審判は大きく異なります。

 あなたはより苦しくて辛い、茨の道を歩むことになるのですよ」


いつかの母親の言葉が身につまされる。

――わかっております。

誰にともなくそう答えると、彼女は剣を掲げる。

刀身に映る自らの顔が、恐ろしいほど青白い色をしていた。


剣を手に女神は佇む。

これは断罪の剣。

私は誰よりも平等でならなければならない。


窓から外を眺める。

至る所で火の手が上がり、とても平和とは言えない世界だ。

けれど私が愛し、愛された世界だ。

その光景を目に焼き付けると、女神は星を湛えた両目をその剣で断ち切った。






かつて人を愛した女神は罪びとを前に佇む。

魂の罪を量る天秤と、その罪を罰する剣をそれぞれの手に持って。

剣の傷跡が人々を怖がらせないように、その(めしい)た目には布が巻かれている。


私はアストライア。

正義(テミス)の娘にして、裁きの女神。





――正しい人が、正しく生きていける世界になりますように。








私は今日も剣を振るう。




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