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9 豪商の娘

「え? アニエスかい? あの子なら出かけたけど」


 息を切らしたジーノを迎えたのは、パイプを咥えた父親だった。あっけらかんと言われ、ジーノはガクッと膝を突く。


「な、何だ。出かけただけか……」

「ひと月程」

「ひ……!?」


 ひと月。ジーノは目をかっぴらき、やはりケロリとしているアニエスの父親を見た。何だそれは、聞いていない。ひと月、一体どこに行こうと言うのか。そんな大事、どうして自分に言わなかったのだ。


「まあまあ、お入り。そんなところで侯爵の子息が蹲っていてはいけないよ」


 侯爵の子息、と言われ、ジーノは非常に嫌な思いがしたが、言われた通りに立ち上がり、屋敷の中へ久々に足を踏み入れた。通されたのは父親の部屋で、上質な柔らかいクッションの椅子を勧められる。


「君がこうして来るのは久し振りだね」

「そ、ですね」


 気まずい。自分とアニエスの婚約を結んだ張本人を前に、ジーノは大層気まずかった。何せ、今それを破談にしようと鋭意活動している最中なのだ。それが彼の耳に入っていないことはなかろう。


「色々頑張っているようだね」

「……」


 皮肉にしか聞こえない。ジーノはどう返していいか分からなかった。そんなジーノに、アニエスの父親は「おやおや」と肩を竦める。


「自分のしていることに覚悟があるなら、誰に何を言われても堂々としていないと」

「……親父さんも、覚悟があってアニエスを俺と結婚させようとしていますか」


 ジーノは静かに、向かいに座る豪商を見た。結局何をしても、最終的にこの人が折れなくては目的は達成されないと分かっている。自分で言うのもなんだが、今己は相当最低な感じに仕上がった。それなのに、破談の話は一向に持ち上がらない。近頃手が尽きてきたと、ジーノは焦りを感じていた。


 ジーノの真剣な眼差しを受け、アニエスの父親はしばしジッとその目を見返した。ジーノは怯まず目を合わせ続けた。


「……ふう」


 先に視線を外したのはアニエスの父だった。小さくため息を吐き、眉を下げる。


「どうも、君たちは商売というものを分かっていない」


 一瞬馬鹿にされたのかと思ったが、その沈んだ声色からそうではないと察し、ジーノは目を瞬いた。


「私がどうして君の家の目論見通りになると思うのか。私はそんなに信用がないかね」

「え……」

「これでも、シャレット家を切り盛りしている身だ。いくら身分が上だからと相手の要求ばかりを呑む気はないよ」


 ジーノは思わず立ち上がった。それに構わず続けられる言葉は、更にジーノを呆然とさせる。


「商売っていうのは信用が第一だ。それがなければ何もできない。確かに君の家は最初から信用できないが、私は君が爵位を持ってくれさえすればいい。アニエスは君と結婚するのだから」

「で、でも」

「知っているよ、ウィルヴィニーがもう本当に空っぽなのは。負債ばかりが嵩んで、使用人ももう二人くらいしかいないんだろう」


 ジーノは眉を寄せた。知っていて、まだよく自分と娘を結婚させる気がある、と感心さえ覚える。シャロット家はそれでも何とか出来る程の財力があるのか。そして、そこまでして爵位を持つ者との繫がりが欲しいのか。


「ジーノ。むくれるのは止しなさい」

「……」

「いいかい、君の所の負債を背負うのは家だって大打撃だ。この間調べてみたが、驚きを通り越して笑ったよ。でもね、それでも何故反故にしないかを考えてご覧。家は君が望むように、いつでも契約書を突き返せるというのに」


 それが分からないから、ジーノはあれこれと画策したのだ。既に何度も考えた。しかし結果、それでも爵位を持つ者との繋がりが欲しいからとしか思えず、この父親の無情さに唇を噛むことしかできなかった。


 実際、これまで彼とは深い話はしたことがなく、いつも遠くから自分とアニエスを見ているだけ、という人だったのだ。


 こんなに長く話したのは、初めてなのである。


「正直言って、俺は親父さんが冷酷な人で、娘がどうなろうと自分の目的のために結婚させる人にしか見えなかった」

「……」


 そのまま思ったことを伝えると、アニエスの父親は途端に変な物でも飲み込んだような顔になり、「そ、そうか……」と額を押さえた。


「親父さん、俺、あなたと挨拶しかしたことないと思う」

「…………そうだったかな」

「そう」


 アニエスの父親は「そうか……」と繰り返し、大げさに渋い顔を作る。そして額に手を当てたまま唸って首を傾げた。


「親父さん。ねえ」

「いや分かった。そうか、悪かった」


 宥めるような手つきと声で応じると、豪商の男は商売の時の厳しい表情とは打って変わった顔つきでジーノに向き合った。


「私はね、初めこそ幼い君なら意のままにできると思ったんだ。落ちぶれた貴族でも、次代で持ち直せばいいと。でも君は私が何の手引きもしなくても立派に成長した。物事を見る物差しを自分で持てた」

「あの家に居れば自然とそうなる」

「そうかな。まあいいや、それで、だ。さっき私は信用が第一だと言ったね? 私は君の家ではなく、君自身に信用を置いている。言い換えれば、今となっては君だからこそ再興の力添えをしようとすら思っている」

「な、何で……」


 「何でと言われても」と苦笑する父親に、ジーノは困惑を露わにした。


「君が、アニエスを想ってくれるから。そんなのずっと見ていれば分かる。想ってくれるからこそ、あの子をあの家に入れてはならないと考えたのだろう。そのアイデアと方法はどうかと思ったけど、君の気概はよく分かったよ」

「…………だから、今まで」

「意志の固い君をどうしたものかと思っていたが、そろそろ方向を切り替えようか。婚約者殿」


 ジーノの中で張り詰めていたものが音を立てて弾けた。どさり、と椅子から滑り落ち、床にまた膝を突く。アニエスの父親が慌ててその手を差し伸べ、肩を支えた。ジーノの目に光る物が浮かんでいる。


「悪いことした」


 無言で首を横に振るジーノの背中を、古くからの知り合いで、親しくはなかった男の手が優しく叩いた。ジーノはそれを黙って受け容れる。


 ジーノは自身の中で固く結んでいた紐が、するりと解けたような気がした。


お読みいただきありがとうございました!

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