12 婚姻解消を勧めてくる悪徳貴族の御曹司
マリオートの中心にあるジーノ君の屋敷。前を通ったことは幾度もあれど、中に入るのはこれが初めて。普段は誰も寄り付かず、辺りは人通りが少ない。どうしてもここを通らなくてはならない人だけが往来している。
「ごめんください」
「はいよ」
出てきたのはジーノ君だった。ドアの向こうを覗いても誰もいない。
「ハゲたち、動こうともしない」
ジーノ君がハゲと呼ぶ人は一人。彼のお父さんである。私と父は案内されるまま、屋敷の中へお邪魔した。広さはあるが、豊かさはない。そんな感じの家だった。矜持ばかりが高くて、他人を受け入れない。ピリピリとした空気が私たちを迎えた。
長い廊下は大きな広間に続いていた。広間の真ん中には椅子があり、そこに彼の両親が座っている。きつい目をした彼のお母さん。言葉を交わしたことはない。私はこの人が普通に苦手だった。苦手だからこそ一番に目に入ったのだが、その隣に座っていた人物を見て、私はぐわっと目をかっぴらくことになる。
「……!? …!」
間違いなくそこにいるのはジーノ君のお父さんのはずなのだが。私は思わずその方とジーノ君を交互に見た。
(ジーノ君はハゲって呼ぶけど……あれ、あれ!?)
確か、3日前に馬車に乗っているところを見かけたが確かに御髪が艶めいていた。まさか今みたいに頭のてっぺんが見えるなんてことはなかったはずだ。失礼は承知だが、私は聞かずにはいられなかった。
「ジジジーノ君。お父さん、この3日の間に……?」
「元々だ」
「昨日喧嘩になったとき、ヅラを火にくべてやった」とジーノ君は無表情で続けた。何て酷いことをするんだ。
(う……うちのお父さんだって負けてないけど! 突然すぎて衝撃が大きい!)
初っ端から思いもよらぬ動揺を強いられ、私はどぎまぎしながら父の後を歩く。
広間の向こうは全面ガラス張りになっていて、日の光が大いに入ってくる。そのせいでジーノ君のお父さんの頭部がより際立つ。当の本人は普段と何ら変わらない、という顔で座っている。私は視線を外すよう努めた。よりによって昨日火にくべなくても。私は心の中でジーノ君を恨んだ。
「よく来たなシャレット」
とても尊大な感じに、ウィルヴィニー侯爵が口を開いた。横の夫人はツンとした表情を崩さない。ジーノ君はあちら側に立たず、私の隣に控えた。
父は侯爵の方へ一歩出ると、この日を迎えられてよかった云々と挨拶をした。そしてとても事務的に結婚契約書を重厚な筒の中から取り出し、侯爵夫妻へと手渡した。無駄な会話はしないという強い意志が伺えた。
「ふん。こんな紙切れで、平民が貴族と婚姻を結べるようになってしまうとはな」
平民が平民としか結婚できなかったのは五百年ほど前の話である。一体いつの時代の話をしているのかと、私は耳を疑った。ジーノ君が小声で「恥ずかしいからやめてくれ」と嘆いている。
侯爵は本当に読んでいるのだか、いないのだか分からないが、とてもサラーッと契約書に目を滑らせる。そして「うむ」と言ってローテーブルに置いてあったペンを取った。その瞬間、私とジーノ君、そして父の間に緊張が走る。
(書け! 早く書け!)
皆の注目を浴びながら侯爵は躊躇いなくサラサラと契約書にサインをした。私はジーノ君と視線を交わし「やったーーーーーー!」と喜び合った。自分がどういう内容の契約書にサインしたか知らない侯爵は、つまらない仕事を片付けたかのように、ペンをぽいと放り出した。
「これでよかろう。シャレット、では約束の持参金と、あと我が家の嫁に早速相談が……」
侯爵が早々にお金の話をし始め、父からピリリとした雰囲気が発せられたとき。隣のジーノ君からクツクツと笑い声が漏れ出した。その声に気が付いた侯爵が「何を笑っている」とジーノ君を睨む。
しかしその視線に怯むジーノ君ではない。彼は一層強気に微笑み、父親を見返した。
「よくやったよ親父。あんたがこれまでしてきたことの中で、今それにサインしたことが一番讃えられることだ」
「何だと?」
侯爵は自分がサインしたばかりの契約書を見ようと手を伸ばしたが、父がそれをサッと回収した。破られてはかなわない。ここを出たら直ぐに役所にそれを提出しに行くのだ。
「見せろ、シャレット!!」
声を荒げる侯爵に、父は至って落ち着いた声で応じた。
「侯爵。これにはごく自然のことしか書かれていませんよ。侯爵の領地がよりよくなるために。そう、例えば——2年以内に爵位をジーノ君へ譲る、とか」
「何? 2年だと? いつかはそうなったとしても2年でそんなことするわけがなかろう」
「いいえ。していただきます。そういう契約で、この婚姻はなされているのですから。破られるのはご自由ですが、その時には相応の賠償を求めますよ」
「何だと、この、下賤な商人風情が!! 契約書を寄越せ!」
「親父さん、逃げろ」
父と侯爵の間にジーノ君が割って入る。父は躊躇なく踵を返し、ドアに向かって駆けだした。どうして婚姻の手続きがこんなにドタバタになるのだろう。私はため息をつきながら父を追いかける。あいにく父は足が速くない。私は瞬く間に父を追い越した。
「アニエス! パスだ!」
私は後ろへ右手を伸ばした。掌にパシンと契約書の入った筒が置かれる。それを左手に持ち替えると、スピードを上げて走った。ぐんぐんと屋敷の出口が近づく。
「待ちなさーーい!」
あと少し、そう思ったところで直ぐ後ろから意外な声が追いかけてきた。
(ふ、夫人だと……!?)
何と。夫人が俊足で私を追ってきているではないか。既に父を追い越している。彼女があんなに速く走れると、誰が知っていただろうか。
「アニエス! 振り返るな! 行け!」
夫人の背後からジーノ君が追い上げる。私は彼に従い、前だけを見て走った。背後から「きゃあ!」と小さく悲鳴が聞こえた。きっとジーノ君が夫人に追いついたのだろう。
「はあ、はあ……!」
光でいっぱいの外を目指し、私は懸命に駆け、ついにドアの向こうへ跳び出した。
「御者——!」
「あいよアニエスさん!」
外で待ち構えていたのは私の御者。ウィルヴィニー領に付き合ってくれた信頼の置ける家人。私は彼に向かって筒を投げた。筒はくるくると回り、宙に弧を描く。御者は危なげなくそれをキャッチした。
「確かに! 行って参りやす!」
「よろしく!」
膝に手を突いて息を整えていると、雪崩れるようにドアから皆が出てきた。もみくちゃになってボロボロである。
「な、なんてこと……!」
「契約書の内容についてはさっきご覧になったと思いますが、もう一度確かめたいときは正式な手続きを取って役所に照会してください」
「ははは! よくやったアニエス!」
「ジーノ君!」
「どけ!」
抱き合っている私とジーノ君を押しのけ、侯爵がまだファイトを見せた。もう遠くまで走っていってしまったうちの御者を追いかけ、屋敷の外へ走る。しかしそこへタイミング悪く、人影が飛び出した。
「あ」
ドン! と影と侯爵はぶつかり、地面に侯爵が転がった。
「いってー! げ、こいつ!」
知った声に、私とジーノ君は顔を見合わせ、慌ててまた走る。あの声は。
「カルロ!」
ぶつかった衝撃で花籠を落としたのだろう。地面には花が散らばり、その中心には「やべー」という顔をした少年が立っていた。
「カルロ、怪我はない?」
「あ。アニエス。うん、花はアレだけど、俺は大丈夫。でも……このおっさんが」
カルロの視線の先には、尚倒れている侯爵。当たり所が悪かったのだろうか、目を回しているらしい。
「普段あんなに走んないから。酸欠だな」
「あ、そ、そうか。よかった頭をぶったんじゃなく……あ……」
そこで私はまた余計なことに気が付いてしまった。これこそ見なかったことにしよう。そうしよう。いくら何でもこれは沽券に関わる。どんな相手だろうと、守るべき尊厳はあってしかるべきであって。
「あ。ファスナー開いてる」
「…………」
残酷な程大きな声で、カルロが発見を口にした。私はいたたまれなさに耐えかね、きれいな空を見た。真っ青で雲一つない。快晴とはまさにこのこと。
そうして現実逃避をしていると、「だめだ、ファスナー壊れてて上がんない。仕方ないからこれでも差しておこう」と不穏な発言が聞こえてきた。
(これでも差しておこう?)
不安に駆られ、もたげていた首を下ろすと、侯爵の問題のズボンのファスナーのところが丁度隠れるように、一輪の大きな花が差し込まれていた。
「…………」
果たして、これでいいのか。いやいいわけがない。しかしこれをここからどうしたら。私は茫然として立ち尽くした。ジーノ君も流石にこれはいただけないのか、変な汗をかいている。
「二人とも! 上着でもかけなさい!」
「はっ」
茫然自失状態だった私たちの意識は父によって取り戻され、事件現場はあっという間に適切に対処された。医者が呼ばれ、侯爵は担架で屋敷に運ばれていった。診断は、ジーノ君の言う通り酸欠だった。
「……何か、分かんないけど、終わったね」
「終わったな」
私たちは高台で二人、ベンチに座ってマリオートの街を眺めていた。
達成感のようなものはありつつ、何だかすっきりしないような、複雑な気持ちが胸を渦巻いている。
「アニエス」
「何?」
「2年は待たせない。明日から親父と交渉を始める」
ジーノ君の目はもう未来を見ている。私は彼と同じ方向を見つめ、明日を想像した。彼はやると言ったらやる人だ。何せ、行動力の化身のような人なのだから。
「これからまた大騒動だ。お前がうんざりするようなことが幾度もあるかもしれない」
「うーん、そうでしょうね」
「結婚なんてしない方がよかったかもしれないぞ、お嬢さん」
いたずらっぽく笑うジーノ君の両頬をペチンと両手で挟み、青い目をのぞき込んだ。そこにはにんまりしている私が映っている。
「……台本もらったって乗らないよ」
「そうしてくれ」
互いに笑い合い、そのまま唇を寄せた。風が潮と花の香りを運ぶ。いつでもこの空気を二人で吸ってきた。今までも、これからも。
例え話であろうと、そうでない人生なんて、決して考えられないのだから。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。出オチが書きたくて書いておりました。ふざけすぎただろうかと案じています…。改めて、お読みいただきありがとうございました。