雨と傘と私と
雨が土を湿らせる匂い。傘布を弾く雨粒の音。手元から伝わる体温。その全てが温かで柔らかで心地良い。
無生物である私がそう気づけたのは主のおかげ。
愛着は物に心を宿す。主の愛が私を目覚めさせたのだ。
今日は雨。
彼女は玄関で傘立てから私を、すっと抜き取る。それは一日を共にする幸福が始まる合図。
水色と白の細い縦縞。手元は木製で大げさに曲がった凝った形。留めボタンには小さな金色のバラの装飾。彼女がお気に入りの自慢のデザイン。
私は彼女を雨から守る。大切に想ってくれている人を守れる幸福。ただただ満ち足りた時間が流れる。
彼女が建物の中に入るとき、私は入り口近くの傘立てに、すとんと置かれる。彼女は建物の奥に消える。必ず現れる待ち人を待つことは心が躍る。
空のオレンジが地平線あたりを染め、目をこらせば一番星を見つけ出せそうなころ、彼女が現れた。
すっと傘立てから抜かれる瞬間がくる。誇らしく愛を実感する瞬間が。
しかし彼女は通り過ぎた。傘立てを見ることなく歩き去る。思いもよらない事態だけれども、彼女はすぐに戻ってくると思った。数メートル歩いて、手持ち無沙汰に気づき戻ってくると。
しかし彼女は戻ってこない。
日が沈み、取り残され心細さが肥大する。しかし努めて冷静に考える。
今まで一度もなかったことに動揺したけれど、彼女も人だ。どんなに大切に思っていても、片時も忘れないというのは不可能だ。日暮れの街は朝方の雨の余韻を残していなかった。うっかりは、いつ誰にでも起こり得る。
私は心が宿るほど大切にしてもらっているものだ。だから大丈夫。絶対に迎えに来てくれる。
でも彼女が迎えに来ることはなかった。晴れの日も、雨の日も。
それでも傘立てで主の手の温もりを待った。
現れない待ち人を待つことは心が塞ぐ。
月日だけが無情に過ぎた。
彼女の愛着が薄れていくのがわかる。迎えに来ないという事実だけでなく、何も思えなくなる心。愛着がなければ心は宿らない。
彼女の愛が消える証拠。記憶がかすむ。思考が鈍る。なぜ迎えに来ない。それを知る術さえ失われる。
心がなくなる。
雨が土を湿らせる匂い。傘布を弾く雨粒の音。手元から伝わる体温。懐かしくて温かで柔らかな心地。
遠い記憶がぼんやりとよみがえる。そして徐々に鮮明に思い出される。
心がなくなって、再び心を持ったということは、私は別の主の元に渡ったようだ。
忘れ去られた物は廃棄される。その前に新しい主が拾ってくれたのだ。
新しい主も私を大切にしてくれた。だからこそまたしても心が宿った。けれども、いつかまた忘れ去られて捨てられる日が来るかもしれない。そう思うと心などいらなかった。
ここ数日は雨続きで、今日も空は雲に覆われていて、いつ雨が降り出してもおかしくない。私は新しい主の手で揺られながら街を歩いていた。
そのときだった。
前方に人が見える。遠くからでもわかる。彼女だ。私の主だった彼女。
あぁ、どうか気付いて。あなたが大切にしていた傘を、知らない誰かが我が物顔で使っている。
忘れていてもいい。思い出してくれさえすれば。だから気付いて。私はぎゅっと願う。
そして彼女とすれ違う。
彼女は通り過ぎる。
真っ赤な傘を手にしながら。
一歩進むごとに離れていく。遠くなる。彼女は振り向かない。そして角を曲がって見えなくなった。
冷たい雨が降り出す。新しい主が私を広げる。雨は傘布を痛いほどに激しく叩く。
しかし心に染みるのは、冷たさでも痛みでもなく、手元から伝わる新しい主の体温だけだった。
彼女が私をなぜ手放したのかを知ることは永遠にない。でもそこにどんな理由があったとしても、私の役目は終わったのだ。物には代わりがある。
さようなら。
悲しみが心に広がる。それでも彼女を恨むことなんてできない。だって私は傘だから。その使命は主を雨から守ること。私の代わりに雨から身を守る別の傘があるのなら、もう私の出る幕はない。悲しくて寂しくて幸福なころに戻りたくても、主の心変わりを責めるなんてできない。幸福な時は有限なのだ。いつまでも続くなんて私の傲慢だ。
悲しみを感じることに、どんな意味があるのだろう。心が幸福だけを感じとるものなら、良かったのに。でも、悲しみを知ったからこそ、心が深くなったと思いたい。
そう思わなければ、悲しみに打ち勝てそうもないのだから。