9話 参差たる個
「さあ、お前は何を賭けられる?」
「“賭ける”だと!?ふっ……あっはっはっ。面白い提案ではあるがすまんの。儂はそのようなもんを既に持ってはおらん」
「本当にいいんだな?」
「無論。どっからでもかかって来るといい」
「では遠慮なく——。力は花、法は神罰、石穿の運別つ楼閣の礎〈悪戯好きの神槍〉」
背中のホルスターから取り出した燧石式の銃を構える。
情報知覚の第一感を失った世界で、二つの銃口が一つの直線を成す。
「〈迷目惨花〉……解除!」
——バンッ!!
霧が晴れるみたいに、ぐちゃぐちゃに歪められた視界が元に戻ると、その刹那もまた、酔いのようなものに襲われる。各々が口を押さえ頭を押さえ、そして、力強く瞼を閉じる。そこが花畑ならば、お花摘みなんて美しい喩えもあっただろうが、生憎そこは血に塗れた戦場である。
当然、対峙する二人はお互いから視線を切らすことはなく——。
「っぐ……」
直前までジルクに向けられていた銃口が僅かに逸れ、鉛玉が綺麗に彼の横を通過した。
他方で老爺は片膝をつき、右肩を押さえる手から溢れた血糊が床に滴り落ちる。
「すまんな。賭け事にイカサマは付き物ってこった」
既に懐へと深く潜り込んでいたジルクが、そう一言。
終焉の引き金に掛けた指をゆっくりと引いていく。
「では、これも許してはくれんか」
命乞いや時間稼ぎとしては適さないその言葉の意味は、すぐに判明する。
ジルクは、目の前の左袖が一部裂けた服が引っ掛かった。刺し傷や切り傷の類ではなく、明らかに銃弾のような厚みのあるものが引き裂いている。もし撫子の氷が傷を付けたのならば、周囲が濡れているはずである。しかし、変色等は見られない。
一つの可能性が過り、全方位に複製系の結界魔法を展開した瞬間——パリン、後方の結界が破れた。
ジルクは左方へ倒れながら目の前の老爺に発砲する。
「がはっ……」
すんでの所で逸れた弾道は、ジルクの右側腹部を貫通し、右手が項垂れ腹に大穴を開けた老爺のすぐ隣を通過した。
ジルクの予感は的中した。人の形を為した黒水が流体へと変形し、着弾したすぐ後ろの床に染み入り、しかして弾丸を飲み込んだ。
「儂は粟降 夜霞と申す。お主の名を訊ねてもよろしいか」
無邪気さを胸に畳んで、やおら普段より少しだけ低い声をジルクの背中にぶつけた。
ジルクが恐怖からではなく自分をも欺く平静によって徐に振り向くと、戎具を放り捨て、差し出された右手があった。先程までの物騒な鉄塊でのやりとりを否定するように。
「ジルク……W……クワイル」
差し出された手をとり立ち上がった瞬間、黒い大蛇のような異様な物体が、腕から胴体へ、そして全身へと巻きつき、それを遥かに凌駕する力でじわじわと絞め殺さんとする。
常人を超越した能力を持ってしても、数分もすれば、たちまち全身の骨が砕けるだろう。
「お主、やはり甘いな。賭けるとは、それ相応の覚悟と力をもって初めて口に出来る言葉なんだよ。その魔力をこの程度しか扱えない小童が軽々しく唱えるもんじゃあない。
死悦生憂之鐘成 紛擾一切獄礫無為——。〈文の霊『羞』〉」
夜霞は、既に数歩離れた位置に立ち、新たに魔法を発動した。
死神みたいに大鎌を携えることも、暗殺者みたいに照準を脳幹に合わせることもなく、ただ踠き苦しむ様を傍観し、それに対し埒外な涙を流しながら——。
「おじさん!」
千鹿が駆けつけたのは、十秒、いや、それ以上の時を待った後だった。
抱きしめられたジルクの身体は、既にヒトの形を忘れ、やがて煙の如く霧散する。
しかして、再開の引き金が斜め後方の虚空で引かれると、瞬く間に千鹿の眼前を通り過ぎ、けれども、耳を劈くような銃声の中で、その姿は未だ見えない。
——ぼさっとするな、千鹿!人質の中にいた背の高い子、君なら分かるだろう。彼を連れてきてくれ。あと撫子も。それから——。
外部からの音には影響されない、脳への直接的な情報知覚。これもまた、古くから第六感と謂れてきた勘などよりも先に、世界に体現した「magic sense」の一つである。
これを直接撫子たちに使えば済むのだが、ジルクがそうしなかったのには理由がある。その一つに、二対一では自衛の出来ない千鹿は邪魔でしかなかったのだ。
「いつか……、いつかあんたとも戦ってみたい!」
青二才の戯言と付き合っていられる余裕なんてジルクにはなかった。
本来ならば。
「ちょっ、お、おい!……っくそ!!」
確かにジルクに向けた言葉を尻目に、彼の銃弾にも及ぶ万死の突進を見せる千鹿。
初撃の一太刀を軽々と防がれるも、彼女はここで初めてある存在に気がついた。
些かの鍔迫り合いの後、彼女が姿勢を屈めて下段蹴りの動作へと移ると、その陰から少し遅れて猛追してきた銃弾が、夜霞に完璧な防御姿勢を作る時間も与えず命中し、体幹を蹌踉めかせることに成功した。その状態で軸足を払われれば、身体が横にならざるを得ない。その上から至近距離での〈十閃〉を見舞う。
一連の連続攻撃に無為なインターバルは存在せず、全てが緻密に計算されたみたいだった。夜霞の対応が遅れたことからもそれが窺い知れる。
これが、無策で打ち合わせなしの、その場の目配せによってのみ起きた連携とはとても信じ難いような、本来、千鹿の位置に立っているはずの誰もが、一様にして舌を巻くほどの完璧な連携だった。
それだけに、涼しげな表情を一切浮べていない当人たちが、ましてや喧嘩を始めようものなら、頭の天辺から足の爪先まで、何か一つでも理解しようとするだけ馬鹿馬鹿しく思えてくる。
「ちょっっと、なんで邪魔するのよ!」
「お前は引っ込んでろ!民間人の前で馬鹿な死様を晒す気か!」
かつて、“両翼”の異名を銀河の果てまで轟かせ畏れられた二人組がいた。
互いをどこまでも信頼し、互いの力量を、性格を、欲求を、全てを把握し、彼らの間にある絆もまた、畏怖の対象だった。どれだけ息を合わせようとも、どれだけ考えようとも、その笑顔を崩すには至らなかった。
そんな彼らでも、短い生涯で一つだけ黒星がついている。
ハブとマングース。まるでデュエットとは言い難い、敵も味方もきらいなく嘲笑いながら、ただ自身の力を誇示するだけ。それなのに、そこにあるのは『個』の怖さだけではなかった。
これが、連携の最高到達点であるはずはないのだが、当時、いや、魔法闘士史をみても、そこに最も近かったであろう二人をもってしても敵わないのだから、どうしても、相応しいと認めるしかないのだろう。
けれども、それは個の最高到達点に立つ二人がぶつかり合った場合に、極めて稀に見られる現象。到底、作為的に起こり得るものではない。
ともすれば、犬猿の仲の二人で共闘するよりは数的優位で闘う方が賢明と言える。二人で無理なら三人。三人で無理なら四人。
そうして数を増やしていった時、個の実力を高い水準で残したまま統率を取れる限界が九人とされている。当然、これは指揮能力に強く依存するところであり、また、彼らが学舎で席に着くような鶏群ではなく、刹那の躊躇もない絶対的な決断力を持つ鶴群であることは最低限の条件である。
偉大なる旗手の下で、彼らは完全服従でもなく、当然、独断専行でもない。数多の選択肢から導き出された局面局面においての最善手を、実行すべきか否か、はたまた第三の選択肢か。そこには、指揮官の思考力や指揮官への信頼、また自身の実力など、ありとあらゆる要素を加味した上で、最終判断は部隊内のおける戦闘員唯一の義務である。
今回の場合、少なくとも千鹿はそれには値しない。今の彼女の戦い方からはまるで聡明さは感じられず、かと言ってそれを屈服させられるだけの地力もない。
「『諦めない』ことをさぞ美談のように語られてきたのだろうが、それはちと違う。それが全力で有ろうと無かろうと他者の力量を正確に測り、どんな些細な癖をも見抜き、隙を探る。そして、細部まで緻密に練られた退却のシナリオをありありと演じる。『諦める』ことは、死を受け入れることではない。敗北を認めることであり、未来の勝利を予見する行為である。一度『諦める』ことで失う未来は、『諦めない』ことで失う未来に比べれば些細なもんだ。それ以上に、『諦める』ことで得られる未来は、儂には到底計り知れん」
相手からも諭されているようでは、さらに鶴には至れない。
千鹿が戎具に魔力を貯めていることを知ってか知らずか、夜霞は続ける。
「『諦めなければ——。』なんて言葉がこの世にはいくつもあるが、そのどれもが一つの例外もなく前向きな言い回しをしておる。『諦めなければ死ぬ』であったり、『諦めなければ恥をかく』であったり、言うなれば格好の悪い言葉は、どうも人間の耳には浸透しづらいらしい。お主は特に周りに恵まれておる。醜く生きよ、全てが白紙に返る前に」
千鹿は、このまま無謀な戦いを続けて犬死するか。もしくは、夜霞の言葉を鵜呑みにして敵前逃亡を試みるか。どっちに転んだとしても、彼女の魔法闘士としての未来は暗澹たる展望で、それは、ジルクの指示を無視して突撃した瞬間よりも遥か昔、根底にある思考のスタイルが彼らとはまるで違っているのだ。
また、目の前の強大なる敵から逃げ果せられたとして、とうとう神からも見放された行く末は、自然的でない恣意的な毒牙をもって各地を襲うことになるだろう。
そうなれば、漏れなく討伐対象である。
ただ、千鹿は例外もいいところだ。
彼女の秘める才能がそのどちらかに転ぶとは甚だ考え難い。
タイムリーな不平を並べながら、千鹿の追撃は三度に及んだ。
「そんなに余裕ぶっこいてるから負けるのよっ!」
一撃目は、少し距離を置いてからの〈十閃〉。本来の使い方である牽制と、もう一つ別の目的があった。それに対し、夜霞の行動は迎撃。これは、千鹿にも予測できていた。
しかし、彼女の意図も、自身の行動が予測されていることも、全てを見透かした上でのこの行動である。決して千鹿の手のひらの上ではない。
ただ、これは千鹿を侮蔑する目的があったわけではなく、避ける必要がないだけである。その後にどんな攻撃が構えられていようとも、それをも迎撃できるだけの力量差があると、これは夜霞が些かほどの驕りもなく確信している事実だった。
ところで、千鹿もなぜ回避されないかは理解している。その上で〈十閃〉の陰から二撃目に備えた。相手の行動も、自分の行動が読まれていることも分かっているのだから、素直に、そして彼女が培った個性をぶつけた。
夜霞の攻撃は、千鹿が想像していた以上に単純なものだった。
目には目を。歯には歯を。魔力には魔力を。手のひらから放出された属性的情報を持たない魔力塊——通称、魔法——が、同じく魔力によって体を成す斬撃を払い除け、その威力は無慈悲にも微量しか衰えていない。
それは、実力の差が開けば開くほど有効で、曰く、
——闘いを煩わしくばかり思っていたら老獪さしか残らなんだ。元々、口上で諭すような大器とは縁遠い生き物だからな、儂らは。
とのことらしい。
千鹿の眼前まで迫る強大な魔法に対し、彼女にそれを避けられるだけの猶予はない。正面から見ていた夜霞がそう思うのも無理はなかった。
自身の魔法が彼女を弾き飛ばそうとした瞬間、その横で半分背を向けているもう一人の千鹿が夜霞の目には映った。
彼女は、背後の状況など一切構うことなく回転の反動そのままに一気に懐へと潜り込んだ。
「そもそも、あんたなんかに言われる筋合いはないわよっ!」
しかし、なぜだか剣はその手中にあらず、数メートル後方、今し方千鹿と魔法が交錯したところの床に突き刺さっていた。
代わりに握られているワイヤーは、誰一人として扱うことが出来なかった幾つもの伝説がある魔工具である。
——っ!?なんと……。
刀身に巻き付けられても切れることのない硬質化や意のままに伸縮を操れる弾力性、自然界での生き方を知っている保護色など。まだまだこんなものでは済まない。
片時も剣を離すことのなかった相手の渾身の右ストレートには、完全に虚をつかれながらも擦りすらせずに躱せるだけの技量と経験を兼ね備えた夜霞。そして、嫌というほど見せつけられ、思い知らされたそれらは、当然、千鹿の知るところでもある。
身体が入れ替わるところで踵を突き上げ、ガラ空きの下顎を狙う。そして、躱される。
その後も何手か交える中で、これら全て玄人の武術ながら、隙とも言い難いような一瞬の淀みを見つけた千鹿が小さく唱える。
——〈十閃〉。
目の前の強敵を打ち倒すこと以外の思考を一切放棄した広範囲攻撃。
脳を直接揺らされるような爆発音と、その中にガラスが割れるけたたましい音を伴って、剣が刺さっていた地点を中心に、既に脆くなっていた床が一気に崩れ落ちる。
足が地につかない状況で、唯一こうなる事が事前にわかっていた千鹿はわずかばかりの迷いもなく動く。目の前の強敵を打ち倒すためだけに。
ワイヤーで煙の流れを撹乱し、瓦礫を正面を除いた全方位から飛ばす。
そして、時間差で夜霞の正面に飛んできたのは——。
「っていうか、話長いしっ!」
夜霞の背後の煙が再び揺らめく。そこには、今までの瓦礫や剣とは明らかに大きさの異なる影が落ちていた。
千鹿の縦一閃はついに傷をつけることが出来たが、それはかなり浅く、赤水がゆっくりと筋を作りこそすれ滴り落ちるほどではない。
勢いそのままに空中で身体を回転させ、すかさず後ろ蹴りを顔面に見舞うが、もはや不意打ちではないその攻撃は通用しない。両腕をクロスさせて完璧に防御された。
そのことは千鹿も理解した上で、それでも一旦距離を置くために牽制として、そして反動を使って後ろの壁に殆どぶつかる形で着地する。
「くそっ!滅茶苦茶なことしやがって……こいつらがいなきゃ何人か死んでたぞ」
激しい戦闘のあった二階の床もまた脆くなっており、そこに大量の瓦礫が降り注げば、当然の如く連鎖崩壊が起こったことだろう。月島 玲桜を含め、優秀な干渉系魔法の使い手が少しでも遅れて合流していたら、ジルクの言った通り全員生存はまず有り得なかった。
「お、おい!あれって……」
砂埃が晴れ、敵の援軍と対面する夜霞は余裕そうに屋根上から見下ろしていた。そして、傍に佇む彼らもまた。腕を組んだり、あくびをしたり、最前線に立っているとは思えない自由奔放ぶりである。
先刻拘束した輩の方が纏まりがあったような、誰も彼もが初顔ながらに、ジルクはそう思った。しかし、右から流し見て最後、一番左で頭を掻く人物を見た瞬間に連中の正体を確信し、同時に先ほどの浅慮にも納得がいった。
「……あれ?ちかちゃーん、そんなところで何やってるのー?早く降りて来なよー」
彼らの少し下で、天井の梁にワイヤーを巻き付けて宙吊りになる千鹿。
一階まで大穴が開いたといっても、十メートルにも満たない。下は瓦礫の山で足場が不自由ではあるが、日頃の鍛錬から思えば対して変わりはない。それらを目で見て測れるこの状況に魔法闘士が竦む要素がないにも関わらず、彼女は一向に降りてこない。
「…………そゆことね。あんたが爺さんに切り傷を入れたわけか」
剥き出しの梁に飛び移った不健康なくらい線の細い長身の男が、両手をポケットの中に入れたままワイヤーの位置を足だけで雑にずらしていく。
その先は柱ではない。屋根の一部と一緒に撫子たちが立っている足元に転がっている。
「…………っ」
本来であれば無意味なこの行為も、夜霞の能力を知る宿敵ならばこそ、今の千鹿の状況が理解できる。苦悶に歪むその顔も、身体を起こそうと必死に踊るその様も、幾度となく見てきた光景だった。
ただ一つ、視線が一切交わらないことだけが、そんなに深くないところで記憶を掘り起こしてみたが、類似したものもあわせて先例はなかった。
「相手との力量差すら測れない分際で調子に乗るから、そんな無様を晒すことになるんだよ。一人相撲なら他所でやってくれ。お前のせいで我々の格はだだ下がりだ」
もう一つ、抵抗できないところからの攻撃が千鹿に向けられた。
露ほどの労わりもない、ただ侮蔑するためだけに並べられた言葉にすら一瞥もくれることなく、千鹿は自身のこだわりを優先する。
「だから?」
幻舞を前にして初めて気後れし、柄にもなく落ち込んでいた千鹿は、しかしながら、この戦いの中で再認識していた。
——あぁ、よかった……。私、まだ戦える。
それは、自身の強さを肯定する、彼女を彼女たらしめてきた言葉だった。