13話 花の裏切り
四月七日月曜日、国立の魔法闘士教育機関では入学式が執り行われる。
「同じクラスでよかったねー」
校舎に入る前、昇降口付近の掲示板に貼られたクラス分け見て喜び、教室に入って再び喜びの気持ちを口にした。千鹿と撫子は小学二年時以来久しく同じクラスになっていなかった。
教室の前方壁面に打ち付けてある講義用ホワイトボードに貼られた座席表を、撫子が先回りして千鹿に伝える。千鹿の席は、窓側の後ろから二列目だった。撫子の三つ後ろだ。
「ちかちゃん、こっちこっちー」
撫子は机をポンポンと叩き、無邪気な声をあげて千鹿を誘導する。
「はぁ……」
撫子の大きな声で教室中の注目を集め、いつものことながら千鹿はため息を吐きながら席に着く。元々のネームバリューに加え、それまでの日常会話を取り上げるには十分な姿だった。
「ちかちゃん、今日の帰りは付き合ってもらうよ。一ヶ月もクーのこと無視したんだから。お花見に行きたいなー。そのあとは映画? ボーリング? スイーツ? うーんとね——」
撫子が妄想に耽っているところでタイミングよく教室前方のドアが開いた。同時に——席に着け、そう言いながら教師としてはまだ見た目の若い男が入ってきた。教卓に置く荷物も持たず、その身一つで。男は真っ先にホワイトボードへ向かい、——神代 翔琉、姓と名に少しの間を空け、しなやかな線で記した。
「千鹿ちゃん、お久しぶり。あたしのこと憶えてる?」
翔琉がホワイトボードに名前を書いている最中、隣から声を掛けられ振り向くと、そこには知った顔があった。人の顔を記憶することが大の苦手な千鹿でもよく知る顔があった。
「あぁ、藁人形を綺麗に並べた人」
名前を憶える気がない千鹿は、しばしば武術や技術で人を呼称するきらいがある。
「ん〜……う、うん。間違ってはないかな。多分」
身嗜みだけに留まらず美を追求する玲桜は、自身の技においても綺麗と称されるだけの自信を持っている。決して謙遜などではなく、初めての覚えられ方に戸惑っただけである。
——困ったことがあったら何でも言ってね。千鹿を見た玲桜の眼差しには、自身の魔法的診察技術に対する悔悟の念が多分に含まれていた。
知ってか知らずか、千鹿はそれを意に介さず、双眸のみで教室を軽く見回す。すると、玲桜の他にも見覚えのある顔がちらほらあった。翔琉もその一人である。
撫子から順番に廊下側最後列の生徒まで二十五人全員の出席確認が取られた。翔琉が一人一人の名前を呼ぶ度に、席に着いた時から覚えていた違和感が胸の内で成長していく。一般的な五十音順ではないこの席順に、千鹿の中で無作為よりも腑に落ちない一つの可能性が浮かんだ。
後の校内選抜戦にて、千鹿が排斥した成績順であると翔琉の口から告げられ、やはり替わることのない隣の席が澱としてつかえるのだった。
「とりあえず全員揃ったことだから訓練場まで行こうか。向こうでの席も今と同じだから覚えていけよ」
翔琉の言葉に続き、各々に教室を出る。自由が校風のこの学園では、廊下で列を作らない。
——お前部活どうする?
——剣道かな。お前はどうすんの?
——まだ決まってねぇんだよなぁ
高校やそれ以前からの友人か、もしくはたまたま席が近くなったクラスメイトと共に駄弁りながら階段を下る。その内容は概ね月島学園に関連するものだった。部活動や憧れの先輩を語り合う者たちが三割程度。実力的に有名なクラスメイト、もといライバルの情報や噂を勤勉に収集する者たちは一割にも満たぬ少数派に過ぎず、大半の生徒は一週間後から始まる校内選抜戦に参加するか否かである。
入学式後のガイダンスにて出欠をとる、と合格発表の通知と共に一文が添えられていた。一層の自己顕示を促すカリキュラムにかぶれていない十五歳の少年少女にとっては、一般大衆の意見を知りたいのだ。まだまだみんなに合わせたいのだ。
千鹿と撫子が訓練場に着いた時には、席が九割方埋まっていた。その間は、例に漏れず部活動の話で持ちきりだった。
一ヶ月前に来た時には無かったステージがそこにはあり、それに向かって前方に新入生の島が四つ、パイプ椅子が並び作られている。その隣にはステージを横に見るようにして教師陣や来賓方の席があり、後方には大きな島が一つ、保護者の席が同じくパイプ椅子で作られている。
二階の展望テラスも開放され、そこには自由参加の在校生が半分ほど席を埋めていた。参加者曰く、漏れ出ている魔力の量などから部活動の勧誘をしたり、マイナーなところでいうと組み手などの訓練相手を探したり、所謂目利きをしているらしい。
様々な思惑が漂う中、生徒会長鳳楓の声でアナウンスが入った。
撫子は、千鹿との談笑をまたもや遮られ、口惜しそうに千鹿の元を離れた。
——それでは、只今より第一二九期月島学園入学式を開会したいと思います。
ステージ中央に立つ一人の生徒にスポットライトが当たり、訓練場中の幾百幾千の視線が一斉に向く。教師陣と来賓方は椅子を斜めにして身体ごと向ける。
「散りゆく桜に迎えられながら、今日私たちは、魔法闘士育成第一機関に無事入校することが出来ました——」
新入生代表の凛とした挨拶で開式した入学式は恙無く終了し、同時に撫子が席を立ち後ろに向かう。撫子の席から三つ後ろ、不自然に空いたその空間に——全くしょうがないなー、撫子は軽く愚痴を溢し、訓練場を後にする。
一階北側の第一訓練場から中央昇降口までは廊下を埋め尽くす程の人の波が出来、一度それに乗れば、忘れ物を取りに戻ることも落とし物を拾うことも叶わない。
「あれ!? ない」
現に、撫子はエリカの花の柄に彫刻されたブローチが失くなった左胸に手を当て、足元の辺りをキョロキョロと見やるも発見には至らず、その間もずっと流され続ける。
——あとで事務室に行こー。
撫子はやむなく流れに乗って教室に向かうことにした。中央階段で四階まで上がり、正面の一年四組に前方ドアから入室する。
一つ文句を言ってやろうと、まず窓側後方の席を見るもそこに千鹿の姿は無かった。撫子は行き場のない怒りを内に鎮めて、一旦自分の席に着いた。
それから十数分、隣の席のクラスメイトと話している時だった。
「きゃっ」
引き戸の古めかしい音に続き、軟らかい声が、二十五人が教卓に向かう狭い教室に響いた。
その声の元では、女子生徒が車椅子に乗る生徒に覆い被さっている。車椅子の生徒は身動きが取れず、何やら喋っているようだが誰にも彼にも全く届いていない。しかして、こそばゆい感覚に襲われた女子生徒が全身を毛羽立たせる。
「ちょっと何するのよ。このヘンタ……!」
頭の横に平手を構える。けれども、相手を見、殆ど外に出ていた言葉を喉の奥にしまった。
「んあ!?」
弾力のある双子山から千鹿が顔を出し、眼前の女子生徒にメンチを切る。
「ご、ごめん……」
恰好に容赦するではなく勝ち気だった女子生徒は、その顔を見た瞬間表情筋を引き攣らせながら歯切れ悪く謝罪した。
その後、安定しない手摺りに手こずりながら身体を起こし、——本当にごめんなさい、もう一度頭を下げて謝罪したと思ったら、そそくさと逃げるように教室から出ていった。
入学式の浮ついた熱が一気に冷め、それは空気にまで伝染する。
「ちかちゃーん、セクハラはダメだよー」
そのドアから一番遠い窓側最前列の席に座っていた撫子が、居心地の悪い空気を破る訳ではなく、さらに冷たい氷を持って近づいてきた。
平手を構えた女子生徒も、周囲で手をこまねいている生徒たちも、まるで初対面の相手にする反応ではない。
「もーどいてどいてー。ちかちゃん、あっち行くよー」
千鹿がため息を吐く暇もなく、撫子が後ろに回り車椅子を乱暴に押す。
「ちょっと、もっとゆっくり——」
「ちかちゃんが独りで勝手に行っちゃうからー。今日だけじゃないよ。この一ヶ月間連絡しても返ってこないし、何してたのか聞いても応えてくれないし。いつもいつも独りで」
撫子が千鹿の言葉を遮るようにして、けれども、その内容は支離滅裂で至極傲慢な不平不満をつらつらと並べただけだった。
「あぁ、分かった分かった。ごめんって。これからはこまめに連絡するから」
必要以上のことは言わず、我が儘にとことん振り回される。これは撫子と長く付き合って得た一種の年の功である。そして、決して一線は超えない、という信頼の証でもある。
「ほんと?! 前にも何回も同じこと言ったよ。それでも守ってくれないんだよ」
再三、我が儘を言う撫子を千鹿の無に等しい親和欲求が跳ね返してきた。今回もまた、千鹿の殻を破ることが出来ないだろうことは撫子も理解している。
生半可な遠慮の無さを受け入れてなお、千鹿は他人が踏み入ることを拒絶する。
「ホントホント。さっきは、ただこれを試してみたかっただけ。これで階段を上り下りできるかってね。毎回毎回撫子におんぶに抱っこって訳にもいかないでしょ」
そう言って、千鹿はワイヤー型魔工具のストラップに指を通してクルクル回す。
その言葉に偽りはない。誰もいない階段で人知れず転び、車椅子に這いずり上がり、そしてまた転び——。
そんな姿を見られれば、撫子は否応なく手を差し伸べてくるだろう。千鹿は、その光景を想像しただけでも全身から正気を失う程の恥ずかしさで居た堪れないのである。走って逃げ出したいのにそれが出来ない身体に、全身の魔孔が押っ開いて魔力が止め処なく溢れ出るくらいの厭わしさを覚えるのである。
「それもそーだけど、今度からクーが居るのに独りでどっか行くの禁止だからね。いい?!」
「はぁ……」
千鹿のため息が撫子の耳朶を打つことは無い。
教室を見回して自分以外が席に着いていることを確認すると、撫子は鼻息を鳴らしながら席に戻っていった。席に着いてからも、口を尖らせている姿が容易に想像できる。
「はいはい、席に——」
程なくして翔琉が手を叩きながら入ってきた。
席に着け、と言おうとして途中で止め、照れくささ半分嬉しさ半分に口元を緩ませる。それに対し、教卓を隔てた向かいの生徒たちもまた、微笑で返す。
「さっきとは違って随分と殊勝だな。宿題の発表で緊張でもしてるのか?」
誰も答えない。代わりに表情がすんと消える。
最悪の場合は死もあり得る校内選抜戦及びBOS。参加を表明するだけでも、並大抵の覚悟では気圧される。ましてや、彼らは少し前まで中学校に通っていたまだまだ子供である。普通は動揺に顔を歪めて然るべきだろう。つまり、それを見せないだけ彼らは普通ではないのだ。
「まぁいいや。今日はガイダンスで終わりだから安心していいぞ。早速だけど、自己紹介がてら校内選抜戦に参加するか否か聞かせてもらおうか」
騒ぎ立つこともクラスメイトの顔色を窺うこともなく、教卓に両の手をつく翔琉に視線を集める。青二才なりの覚悟をその瞳に宿して。
対して翔琉は、——それから最後に、と前置きして穏やかな表情で続けた。
「この学園に来た理由を一人一人話してもらう。書類審査で書いたやつと同じでも違っててもどちらでも構わないから、自由に話してくれ」
初めに指名された撫子が立ち上がる。
「皆さんご存知かと思いますが、皇撫子と申します」
入学式前や先程の所作と声色を見聞きしていた彼らにとって、撫子の第一声には少々反応に困った。これは笑うのが正解なのだろうか、一様にして、心の中でそう思った。
——コホン、一つ咳払いの後、撫子が皆の心に応えるようにして続ける。
「居心地を悪くしちゃってごめんなさい。挨拶は厳しく躾けられているので許してください」
未だ千鹿と接する時ほど砕けてはいないが、これから知り合いと呼べる間柄になるのだから、あるいは友達になるのだから、十分親しみの持ち易い話し方として間違っていない。
「私は今年のBOSに必ず選手として出場します。部活動は……まだ決めていませんので、何か面白そうなのがあったら誘ってください。そして、私が魔法闘士を目指す理由は、親の敷いたレール以外の道を走ってみたかったからです」
新入生に課された宿題は、校内選抜戦に参加するかである。BOSに出場するかどうかは聞いていない。校内選抜戦で勝ち残らなければ出場できない為、質問の答えとして間違ってはいないか。いや、やはり不適切である。その答えはこれから出すのだから。
「——魔法闘士になりたい理由なんか金しかねぇだろ。毎日朝早く出てって夜遅くに帰ってくるかぁちゃんを楽させてやるんだ」
二十五人目、廊下側最後列の生徒まで自己紹介及び宿題の発表が終わった。撫子が流れを作ったのか、全員が部活動について触れた。
千鹿も話した。というより折れた。物言いたげな撫子の眼差しが先の説教を思い出させたのだ。さっきの今で、千鹿は思った。多少面倒事が増えても、がみがみ言われるよりはマシだと。
——千鹿ちゃん、なんで射撃競技部に入るのか聞いてもいい?
千鹿が想定した通りの質問だった。剣を扱う千鹿にとって、魔法闘士としての経験に生きる訳でもなければ、そもそも現時点で部員が〇人の部活に何を求めるのか疑問を抱いて当然だろう。——なんとなく、その言葉だけでは余計に興味をそそるだけである。
——あっ、と既に背を向けている車椅子に手を伸ばす玲桜を、聞き覚えのある声が遮った。
——私にも教えてくれないのー、後ろから聞こえてくる撫子の声にも振り返らず、車椅子を操作し後方ドアから教室を出ようとした時、車椅子が少し押されるのを千鹿は感じた。
左手を膝を上に置き、けれども改めて振り返ることはしない。千鹿は解っているのだ。自分の後ろに立っている人間が、今どんな表情をしているかを。
「ちかちゃんはなんでストライカーになりたいのー?」
まだ日が高い住宅街だった。車椅子の車輪が回る音だけが鼓膜を歩く白けた空気を撫子が切り裂いた。千鹿の背中に問いかけたその内容は先程の翔琉と同じだが、その内に孕んだ意味は別のところにあった。
「さっき話したでしょ」
千鹿は、軽く遇らうように言葉を投げ捨てる。勿論、撫子の言いたいことを解った上で。
「もー、ちかちゃんが何か隠してることぐらいわかるよー」
撫子の言葉に、千鹿は毎度のことながらため息を吐く。お互いのことがなんでも見通せてしまう関係に。そんなに上っ面だけで半生以上を共にしてきていないことに。
「はぁ……それを言うなら撫子もでしょ」
千鹿もまた撫子のことが分かってしまうのだ。撫子が魔法闘士を目指す理由は他にある、と千鹿は言う。そして、自分自身もそうであると。
「別に隠していたわけじゃないよ。ただね、他人に言えるような素晴らしいものなんかじゃないだけ。旧家のお家騒動ってみんなが思っているよりもっとドス黒いんだよ」
撫子の声が強張る。吐露する言葉一つ一つにまるで冷気でも纏わせているみたいだった。
「クーはね——」
かと思えば、撫子の一人称が普段の柔らかなものになる。
「“空”は本来、蔑称として用いられているの。“花”の魔力が発現しなかった子供を、種子無しの空っぽって意味を込めて差別するの。しかも、タチの悪いことに親も標的になるんだよ」
撫子の口から語られた、日本一の名家、礎生家に関する衝撃の事実。魔法的差別は、魔力の発見より一世紀を経てかなり少なくなっている。そのきっかけとなったは、幾つかの名家が声を上げたことである。礎生家も勿論そこに連ねていた。その家の中で未だ差別が続いているとなると、ただ事では済まされない。
撫子が産まれた当時、母えりかの心労は相当なものだった。元々、政略結婚によって重圧にも感じる程に受けていた期待が一八〇度変わったのだ。その眼差しは、この世ならざるものでも見るように。その口舌には、無数のかえしが付いた棘を含ませる。母親として我が子を守らなければならず、けれども自身もその渦中に置かれ、無視するにも限界があった。
えりかは、来る日も来る日も礎生本家に通い続けた。我が家に、特に夫の言司郎に、その手が及ばないように。
そんな、異常を普通と思い込んでいたいつも通りのある日。とうとう、撫子がその歪な空気に気がつき、年頃の近い男子に暴力を振るった。中庭での取っ組み合いは、すぐさま本家中で大騒ぎとなった。たまたま近くに居た大人が止めに入り、すぐに落ち着いたものの、一〇〇対〇で撫子の有責らしい。そして当然、えりかも執拗に責め立てられた。相手の親からは、加減のない平手も見舞われた。それを観る周りの大人は誰も止めに入らない。
その日、えりかは久しぶりに撫子を抱き抱えながら帰った。——ごめんね、ひたすらにその言葉を口にしながら。
言司郎が帰ってきたのは午後六時を回った時だった。えりかはすぐに日中のことを報告し、しかして、——なぜ撫子はそんなことをしたんだ、当然の疑問が返ってくる。えりかは黙ることしか出来なかった。数秒、いや、数十秒経っただろうか。その間も、言司郎は静かに妻が口を開くのを待った。えりかはそんな夫に観念し、とうとう口にする。この五年間の真実を。
堰を切ったように涙が溢れて止まらないえりかを、言司郎は背中を摩りながら、その広い胸板で包み込む。その間、撫子は向かい合う二人の太腿に顔を伏せていた。一定のリズムで身体を揺らしながら。頭の上に置かれた父の手を、温かくて大きかった、と撫子は言う。
二人が泣き止んでからは慌しかった。礎生本家を三人で訪ね、相手の家族に腰を九十度に曲げて謝罪した。暴力は振るわれなかった理由は、その誠実さからではなく言司郎が居たからだろう。大きな屋敷を後にした三人は、その足でさらに大きな屋敷に向かった。
旧皇邸である。言司郎が一人で行くと言ったのだが、えりかと撫子が無理やり着いていったのだった。撫子は、物心ついてから初めて見る屋敷に感嘆を漏らすと同時に、礎生本家と重なり、母の手を握っていた右手に力が入る。それをみたえりかは右手で撫子の頭を撫でた。その時の手を撫子は、柔らかくて力強かった、と言う。
敷居を跨ぎ庭に入ると、そこは見慣れた玉砂利とは違い、一面に青々とした芝が広がっていた。随所に樒や沈丁花、金木犀などの常緑樹が三〜五メートルくらいで綺麗に手入れされ、一部の樹は花を咲かせている。これがまた緑一色の庭に調和を齎している。
それを二つに区切るように並ぶ敷石の上を歩いていくと、厳然とした引き戸がある。古式ゆかしい正門に比べて、建て付けを直すために戸を新調した分、威圧感だけが残っている。
——ガラガラガラ、玄関戸を開けると、上り框には三人分の履きものが用意されていた。
——ようこそいらっしゃいました
白髪が混じった還暦そこそこの男性が取次で正座をし、膝の前で手をついて頭を下げる。
——貢細さん、お久しぶり。親父は居る?
沓脱石、式台と足を運びながら言司郎は言う。対し、——どうぞこちらへ、と立ち上がった貢細が、腕を廊下の方へ差し出し歩いていく。
応接間の襖を開け、鴨居を潜ると、一枚板のローテーブルの上座にこの国の王、皇公衛が鎮座していた。——それではここで、と応接間を後にしようとした貢細を、——待て、と皇公衛が呼び止めた。
公衛の隣に貢細、正面には言司郎とその両隣にえりかと撫子の五人で話し合いが始まった。
内容は、公務の地を変更したい、詰まるところ引越ししたいと言うものだった。理由を聞かれた言司郎がこの五年間のことをつらつらと言葉に起こす。話し終わると、公衛が貢細に事の真偽を確かめる。
——おそらく本当かと存じます。以前、ご婦人の間でそのようなことが行われていると小耳に挟んだことがあります
貢細の言葉に、——そうか、と少し項垂れる公衛。
その間、硬く握ったエリカの拳を言司郎が優しく包み込む。少し考えた後、公衛は言った。
——分かった。皇言司郎、これより第一支部及び第二支部での公務を許可する
翌日、言司郎一行は北の地にいた。貢細が運転する黒塗りの外車が待つ北の地に。
あの後、——貢細を連れていくことが条件だ、と続いていた。
トラウマが癒えぬ内に礎生家の人間と生活することは、言司郎としては避けたかった。しかし、首を縦に振ったのは他でもない、えりかだった。
「あの日……、千鹿ちゃんと初めて会った日、実はこっちに引っ越してきた日なんだ。お父さんと喧嘩して家出したの。すぐに戻されちゃったけどね。クーはね、礎生の人間の誰よりも強くなりたいの。誰よりも強くなって、お母さんの鼻を高くしてあげたいんだよ」
間髪入れずに撫子は続ける。
「次は千鹿ちゃんの番だよ」
撫子が話し始めて十分以上経っている。二人は、いつの間にか皇邸の前まで来ていた。
——また後でね、と千鹿が車椅子を旋回しようと操作しようとするも、撫子はそれを許さない。力づくで門へと向かわせる。
「だーめ。クーの部屋に行くよー」