10話 老兵の弱さ
千鹿はおおよそ三階の高さから自由落下している。慣性に逆らえない左脚と右腕が、空中で体勢を整えることを許さない。このままでは十中八九、またはそれ以上の確率で着地に失敗する。身体強化魔法を全身に付与すれば、どこから落ちようが外傷は防げるだろう。しかし、頭から落ちた場合の脳への衝撃は、いくら鍛えようとも防ぎようがない。
相手が魔法の使えない一般人であるかどうかに関わらず、持てる全てを以て要救助者に一切の手傷を負わせない。これは魔法闘士としての矜持であり、責務である。
地上では、彼女の異常事態に気がつき齷齪している。瓦礫のせいで足場が非常に悪く、干渉系魔法や風属性魔法では完璧に対処できるとは言い難い。クッションになる物やその代わりとなる魔法を捻り出しているが、そんな時間的余裕はない。
その只中、千鹿を蹴落とした湯端速は梁の上で呆然と立ち尽くしていた。
それは、決して彼女を仕留め損ったからではない。彼女の野心が、絶えず自分の先を、自分の上を捉えて離さず、ほんの一瞥すらも被らない事実に、妙な居心地の悪さを覚えたのだった。
洟垂れ小僧から腰の折れた老人まで、自分の生死を握っている相手には、その一挙手一投足にまで怒りや憎しみといった類の感情をぶつけるのが常である。あるいは、自身を値踏みして薄命の上で舞踊を試みる者もいるだろうが、無関心を貫くというのは、魔法闘士であろうとなかろうと平等に訓練で身につけ得られるものではない。
また、一種の悟りを開いている者は顔を歪ませたりはしない。とても穏やかな表情で、相手の神経を逆撫でする意思が頭の片隅を掠めることもない。しかし、心根から無我に至ると、なぜだか結果的にそうなってしまうケースも少なくない。
千鹿は、彼らと一線を画しているのだ。人間と思うことすら憚っても不思議ではない。
死へと歩みを進めるたびに、心の奥底で燃ゆる闘志が大きく膨張し、剥き出しとなった本音は、やがて自身をも喰らう。建前は、肉体も地位も延命させるが、やがて自分を見失い、そしてヒトとしての末路を歩むことは許されない。
「力は花、法は蕣、連綿たる滄溟、至るは厚生の淵源〈弍拾壱ノ舞−マナノガワ〉」
千鹿が自力で着地してから少し遅れて、ジルクの魔法が網状の足場を虚しく形成した。
「って、おい——」
風早千鹿は、それでも歩みを止めない。同胞の制止が届かぬところで、彼女は凡才たる野心だけをもって、全能の神に八つ当たりをする。
数年前から軍籍に身を置く男の前に、未だ学友とべそをかく少女が立ち塞がる。小さな身体を目一杯に広げて、その凛とした眼差しでただ一点を捉えて離さない。
「ジルさん!私に免じて許してください。千鹿ちゃんは、自分の剣を賭けているんです。今止めたら、千鹿ちゃんが…………ちかちゃんが死んじゃうよー!」
千鹿のことを信じてか、あるいは尊重してか、初めは気を張って耐えていたが、すでにその面影は見え隠れすらもしていない。
「無理なものは無理だ。散々好き勝手に暴れて、結果はあのざまだ。彼らが間に合ってなかったら、今頃ここは地獄絵図だぞ。今度は何をされるかわかったものじゃない」
ジルクの反応は至極真っ当である。月島玲桜を含めた、干渉系魔法を扱うことのできる魔法闘士が瓦礫を止めていなければ、民間人の避難は間に合っていなかっただろう。
結果として、その重さに耐えきれず二階の床も崩壊してしまったが、あるいは、北側エスカレーターを使用して避難していた民間人が、これの下敷きになっていた可能性もあった。
民間人に怪我がなかったのは、彼らの活躍もさることながら奇跡としか言いようがない。
撫子の必死の懇願は、ジルクには決して届くことはなかった。しかし同時に、たった一人の、我儘娘に振り回され心中穏やかでないはずの青年の心を動かした。
それは、器が大きい小さいではなく、民間人を顧みない無作為な戦闘は咎められるべきであり、それを庇おうものなら世間の恰好の的になるのは当然の帰結である。
「どうか、千鹿ちゃんを闘わせてあげてください!差し出がましいことも重々承知しておりますが、どうか、お願いします。今の彼女にはこれが必要なのだと、なんの根拠もないただの青二才の直感ですが、それでも、私にはそう思えてならないのです」
ジルクの右腕を掴み、刹那の静寂と共に名だたる魔法闘士の好奇な視線が集まった。彼の所論は純然たる精神主義で、けれども、普段よりも三つか四つかキーの低い声音が断然たる正論を誑かす。
「うーん……」
普段は残酷なまでに冷静なジルクが、珍しく居心地の悪そうに両手を首に強くあてがう。
「根拠なんてありません。出会ってまだ数日しか経ってないので、彼女が今、何を考えてあそこに立っているのかすらわかりません。ただ、私の経験が囁くのです。深さも濃度もあなたの足元にも及びませんが、知見が狭いからこそ、その一つに特化してきたからこそ、彼女に賭ける価値は十分にあると、そう囁くのです」
渦中の千鹿は何も口にしない。
それは、誠意などでは決してない。原因が自分にある論争であろうとも、まったく興味がないだけである。どれだけすったもんだと長引こうとも、視線はただの一度もその先から離さず、ワイヤーが巻き付いた右脚が踵を返すことは万に一つもあり得ない。
「君の助力のおかげで我々に最悪なイメージがつかなかったことには感謝している。が、君たちには、今すぐ戦線を離脱してほしいと思ってる。勿論、あいつも含めてな。これは私一人の意見ではなく、ここにいる全員の意見だ。外にいる人間を含めたって同じだろう。今更言うようだが、戦場は腕試しの場ではない。ゴミと命は拾えるうちに拾っとけ」
格好よく言葉を締めようと思うほど格好悪くなるこは往々にしてよくあることである。
というのはさておいて、それは当然の帰結だ。
プロでもない一学生が一対多の勝算の薄い勝負を、さらには、余力が十分にある魔法闘士を差し置いて、そんなものは賭けでもなんでもない。
しかしながら、彼女が歩みを止めないのもまた事実である。
ジルクにとっても、その光景は散々見せられた。対処法はもう解っている。
自身で編み出したこの場において最適な魔法。催眠系の幻覚作用を齎し、対象者にとって都合のいい夢を見させることで行動不能にする。千鹿のように剥き出しの欲望に忠実な利己的な人間には専ら有効的な魔法である。それは部隊長としての責務だけではなく、どこか作為的な悪意を内包したまま行き場を見失う。
「参拾ノ——」
立ちはだかるは、やはり一人の少女だった。大きく深呼吸を一つおいてから細い細い声を懸命に絞り出す。
「不自然に残された窪地に建てられたこの商業施設、その名前の効果もあって、覚えている人は少なくないでしょう。かつて、この場所で起きた凄惨な事件……小さな孤児院や教会を含む計三棟が全壊し、多くの子供と大人がほぼ即死。救出されたのは、数人の少年少女だけでした。彼女にとって、ここは……誰にも犯されたくない大切な思い出が眠る場所なのです」
口調が普段のそれとは明らかに異なる。
涙はもう拭い取られ、真っ赤に腫らした瞳だけが生き証人だった。
「……」
ジルクには何も言い返すことが出来ない。
こういう時に想い起こすのは、決まって親友の笑った顔だった。
「私は、彼女がいなければ生きていける自信がありません。友達なんて間柄に収まる存在ではないんです。だからこそ『逃げろ』なんて言いません。私には言えません」
話の筋なんてなく、ただぶつけるみたいに言葉を投げた。
若気の至り、と言えば聞こえがいいかもしれないが、都合のいい免罪符を盾に、己の粗末な裁量で周りの命まで危険にさらす。無謀な戦闘も美化されて映る初めての戦場は、既に肥沃であるが為、簡単に彼らを殺すことが出来てしまう。その反面、上手くサポート出来れば、得られる経験値は見習いの期間を遥かに凌駕する。
前途有望な若人は、同時に、少しの衝撃でも崩れてしまいそうなほど脆く、彼らの行く末を決めるにはあまりに時期尚早というもの。しかして、相手も妥当ではない。
千鹿の足が地面から離れる。時間的猶予はもうない。魔法発動時間と反映するまでの時間を考えると、これがラストチャンスである。止める術がある以上、迷うところなどあるはずもない。
——風早千鹿を生死に問わず制圧し、速やかに照準を改める。
彼らにとって、造作もないことだが現状において最高の確定的成果を得られる選択肢。
他を探す時間も理由もない。はずだった。
「皇撫子、今からお前が部隊長だ」
ジルクの選択は、この場の誰もが想像し得ないものだった。反面、不確定要素が数多存在する中で、それらを減らし過ぎず、実戦にこそ成長を求める隊長としての器が、この戦場で頭一つ抜きん出ている証拠でもあった。
風早千鹿は、一度止めたくらいではその歩みまでは止めない。貪欲な戦士である。つまり、魔法によって彼女の欲を満たしたところで、また新たな欲に駆り立てられる彼女には、魔法をかけ続けなければ、好奇の眼を向けられ兼ねない。あるいは、それを突破する可能性すらある欲の化身を相手にしながら闘えるほど容易い敵ではない。
しかし、それを与り知るところではない彼らにとって、そして、考えを同じくする者として、それは到底許し難く、理解できるはずもなかった。
「隊長!一体何のつもりですか!?」
部下の制止に耳をくれず、次から次に出てくる言葉は、方便ではなく覚悟だった。
「隊長とは、自分と部下と、そして何より、巻き込まれた一般市民の誇りを守り抜く義務がある。部隊の信念と、野望と、闘志はお前の器次第だからな」
相手との力量差は、よくて互角。さらには、重度のハンディキャップを背負いながら、全員生存なんて不可能である。端から、思い及ぶこともない。
それが、日本闘士軍第一支部で随一の戦闘部隊なのだから。
全てを利用し、目の前の敵を倒す。それだけは揺るぎなく彼らと共にし、そして、ジルクもまた、臍を噛む。
その愚直な突進は、細身の男のその奥。思いのままに軌道を描き、飛んでいく。瓦礫の中に埋もれていた剣もその後に続く。
「お主のそれはただの蛮勇。味方は愚か、敵である儂も付き合いきれんな。戦場には、お主の探し物はありはせんよ」
そこに、退却へのシナリオは当然なく、その思いはただ一つ。その場にいる誰の理解も遠く及ばないところにいる。
「久方ぶりの博戯を邪魔した代償は高くつくぞ、若造。〈文の霊『裏』〉」
粟降夜霞は知らない。彼女の俎上には是も非も介在できないことを。
粟降夜霞は知らない。彼女の傍で唯一居住権を手にした狂気を。
猫も杓子も知らない。彼女がどこまでも弱者であり続けることを。
「千鹿ちゃん!?」
急造とはいえ、部隊のことよりも私情を優先する部隊長を咎める者は誰一人としていない。
それは、撫子が皇女だからでも、千鹿に興味がないからでもない。
眼前の敵を倒すことにのみ全神経を研ぎ澄まし、視覚、聴覚、それ以外も全ての情報を常にアップデートし続け、そして、共有し続けているからである。
もしも、いきなり彼らのテレパスに飛び入り参加しようものなら、意味不明な呪いを浴びせられ続け、長くても数十秒で意識を失うことだろう。
詰まるところ、隊長とは名ばかりの踏み台か、はたまた囮か。第二小隊にとって、この輪に入れない者は、自身の成長に利用できるかどうかも含めてただの情報に過ぎないのだ。
「ぐっ……」
急な魔力にさらされた千鹿は歩を止めたが、それも僅かな時間だけであり、魔法の影響を全く感じさせない。合流した剣に両の足を乗せて猛進する。
その後を追従するのは、鋭く伸びた鉤爪。サーフボードと化した剣とはまるで異なる、敵意に満ち満ちた切先が迫り来る。
「力は虧盈、法は撥条、凪の聲の卑し徒波に灯し空音〈空中散歩〉」
まるで最初からそこにあったかのように、空気を裂くことなく獣身の厚皮だけを裂く。何事もなかったかのように、玲桜の手元でそれはセリフを構えているかもしれないが、推進力を削げこそすれど、注意を向けさせるまでには至らなかった。
けれども、それで十分である。
干渉系や移動系による飛翔は、埒外な魔力でもない限り実戦で通用するような速度を出すことは出来ない。それだけでは追従、追跡には向かないのである。都度着地し、地面を蹴り上げる跳躍力に重ねて魔法を使用することでやっと実用にたる速度となる。また、それらの燃費はいうまでもない。
他の酷似した場面での使用用途はというと、干渉系の場合は先刻のような飛行する物体の速度の減衰や増幅。移動系は、物体が飛行する方向を操作するなどのベクトルの変換があるが、いずれも非常に限定的なものしかない。
つまり、空中で足を止めた今、まさにこの魔法の使い時である。それ単体で追いかけるのではなく壁まで移動することによって、最速で追従の体勢を整えるという共有認識が出来た。
その特殊な状況も相重なり、玲桜の一撃は海老で鯛を釣るということを体現しているようだった。しかしできなかった。あと一つのところで逃してしまった。
「おいおい、マジかよ……」
まさか空中を蹴り上がるようにして飛翔するとは、その場の誰も思いもしなかっただろう。
「まだまだ!」
月島玲桜は、ただの情報にならぬよう足掻いていた。醜く、そして傲慢に。まるで千鹿が乗り移っているみたいだった。
しかして、再び手元を離れた彼の戎具は、都合のいい足場として利用される。
粉骨砕身して肩を並べようとする勢いが、青年をどこまで向かわせるのか。彼らは目まぐるしく移り変わる戦場の中で予想できないことまで精査し、仮説を立てる。そしてそれを幾度も凌駕され続けた時、初めて頭を焼かれ、手を焼くこととなるだろう。
「行かせません」
氷の矢が束になって千鹿を援護する。
さらに遅れるようにして、各々が得意とする単純な放出系魔法を発動する彼らは、さすがにプロの魔法闘士だった。その物量のみで敵の足止めに成功する。
「さすがにこれを一人では厳しそうだな」
局面が二分された。屋根の上にて、千鹿と相対するは敵の本体。施設内一階にて、撫子率いる即席の小隊と相対するは、湯端速と細長い布を顔に巻きつけている男。そして——。
「まったく、しょうがないなぁ」
衣服の袖を深くまで着こなす小柄な少年が気怠げに降りてきた。
それにより、千鹿が戦う相手は三人になった。数的に見ても大した変化とは言い難いのだが、そもそも、その視界にはもとより老人一人しか映っていない。
「〈氷火−岩矢花弁〉」
先制は半球上に伸びる剣山のような氷筍が、けれども、一つだけ天井まで太く長く続くそれは、攻撃だけではなく相棒が戦う戦場への牽制の意味も孕んでいた。
——いつでも助太刀できる。確かにそう言っているのだが、そのタイムラグは魔法が飛び交う闘いの場においてはあまりにも致命的すぎる。ただ、当人も正しく効果があるかは期待しているところではなく、とても感情的なものだった。
「ジルクさんは千鹿ちゃんの援護をお願いします」
——〈十閃〉。
手刀によって弾かれた魔力の斬撃は、千鹿には見えていない連中の元へと飛来し、そして軽く避けられる。
焦燥感がありありと目に見えるみたいである。
「惜しい……。実に惜しいの。何故だか知らんが、お主には儂の魔法が効かないらしい。そんな輩を生かしておくわけにはいくまい。弱肉強食の世界では運を味方につけんとな」
魔法の兆候が未だ見えず、それが意味するところを想像することすら出来ないのだった。
「弱肉強食か。確かにその通りだ。さしずめ、貴様は弱者の芽を摘む強者といったところか」
ジルクが銃声と共に跳んでくる。これは、隊長の意見を遵守したものではなく、あくまでも、隊員として最適と思われる選択をしたまでである。