9. 役員会(1)
202x年シーズン最終節で残留を決められなかったガビアータ。
何とか残留を決めたようだが親会社は黙っていなかった。
入れ替え戦が終わった1週間後の川島製鉄本社役員会室。
重厚な木製のドアの向こうには、創立125年を迎えたこの重厚長大な企業のトップたちが一堂に会している。
そんな場にガビアータ幕張球団社長として出向している山際徳克はGMの園田と共に月例の役員会に呼び出されていた。
山際が電話を受けたのは入れ替え戦の行われていた最中だった。
ガビアータはその入れ替え戦では苦戦を強いられたカルバロス群馬戦とは違って、あっさりとJSL-B3位のモンターニャ山梨を3対1で破り、どうにか残留を決めていた。
選手の中には安堵のあまり泣き崩れるものも居たが、サポーター達は相変わらず冷めていた。
その後、電話の主、役員会議長である代表取締役社長の敦賀憲祐の秘書、白井から届いたメールには、
「12月18日(水)11:00に役員会にてガビアータ幕張株式会社の202x年度予算及び経営方針について《《再度》》説明願います」
との短い一文が記されていた。
つまり「抜本的な経営改善案を提出すること」
これが山際に課されていた議案であった。
一週間ではとても間に合わないと山際は思ったが、経営改善案自体はもう山際が就任して以来常に親会社である川島製鉄から要求されていたことだ。
要するに山際の怠慢である。
山際は大学を卒業後、27年間川島製鉄の財務畑を歩いてきたファイナンスのプロであったが―― というのは表向きであり、その実は昼行燈を絵に描いたような人材であり、ガビアータへの出向は山際へのラストチャンスのようなものだった。
出世レースでは早々にリタイアし、本社では、彼の姓をもじって「窓際さん」と陰口をたたかれていた。
ガビアータの社長として経営を立て直すことができれば本社への復帰が認められ、失敗すれば川島製鉄の名がついた零細子会社への出向の岐路に立たされていたのだ。
もっとも山際は子供のころからサッカーに親しんでおり、就職先に川島製鉄を選んだのは既にプロ化していたガビアータの存在があったからだ。
選手としての実績はないもののサッカーを愛し、できれば自分の手でガビアータを再生させてみたい、それが山際の夢でもあったのだ。
しかしこの昼行灯は本社からの要求を積極的にこなす事もなく単純に過去の実績ベースでの予算案しか示してこなかった。
やりたいことと、できる事は違う。
川島製鉄の決算は珍しく12月であり、連結決算の対象なのでガビアータ幕張も12月決算である。
そのタイミングに合わせた、という見方もできるがこの時期に来年度の予算について説明するのは明らかに遅すぎる。
実際には山際は8月の段階で202x年度の予算について役員会の承認を得ている。
当時、要するに親会社とてこのチームを抜本的に改革する気など毛頭なかったのだ。