朝霧山遭難事故調査報告書・4~【嘘つき】山岳ライター三枝義昭を許さない【天罰を下せ】~
・はじめに
去年の夏、私は朝霧山遭難事故調査報告書と題し、朝霧山で起こった不可解な遭難事故について記事を書いた。
私自身この記事がネット上で多くの反響を呼んでいたことは把握している。
私はあまり閲覧することはないのだが特に巨大匿名掲示板では登山やオカルトといった話題を取り扱う場所では朝霧山遭難事故のスレッドが立ち、様々な意見交換がなされていたらしい。
おそらくはその中に私が朝霧山で見たような装備を整えないで登山に行くような若者がいたのかもしれない。
半月ほど前、とあるメールが届いた。
匿名掲示板のオカルト板に私を誹謗中傷するようなスレッドが立っているとのことだった。
あまり利用しないとは言いつつも、匿名掲示板という場所とそれがどんな場所であるのかということは知っている。こうしてある程度有名になってしまった以上、ましてそれが遭難事故という痛ましい事実に、記事の閲覧数を増やすために事故を脚色したものであるという見方もできる以上は、そうした場所で誹謗中傷の対象になることは理解していた。
改めてこの場で朝霧山遭難事故調査報告書については一切の脚色無し、書かれていることは事実と、私が現地に赴き、或いは当事者に取材をして得た情報をもとに書いたということは断言しておく。
まとめのオカルト云々についてはあくまで個人的な意見感想であり、確定したものではない。
さて、どんな罵詈雑言がそこにあれど結局は匿名の言う事だ。耳を貸す価値もない。私はそう思った。
私はメールを削除するつもりでいたが、試しにどんな事が書いてあるのだろうとリンクをクリックすることにした。
今でさえ、その書き込みはなんてことない戯言だ。こうして記事にする必要もない。ましてこの記事は雑誌に寄稿するものとは違って一銭にもなりはしない。
ならどうして記事にしようとキーボードを叩くのだろう。
誹謗中傷への怒り?或いは今までの記事を読んでくれた読者諸君に愚痴を聞いてもらうため?
そうではない。何度自問自答しようと少なくとも私は上記のようなことを長々と語るつもりはないのだ。
あくまでもこれは朝霧山遭難事故調査報告書の新たな1ページである。この誹謗中傷があったからこそ、一歩前に進む事ができたのだ。
・憎悪と怨念のスレッド
リンクをクリックすると匿名掲示板のオカルト板のページへと飛ばされた。
そこにあったスレッドのタイトルは身に覚えのない罪を凝縮して私にぶつけんとする悪寒も走るものだった。
【嘘つき】山岳ライター三枝義昭を許さない【天罰】
この掲示板はワイドショーでたびたび話題になっていたため、罵詈雑言の飛び交う掲示板だというのは重々承知であったが、まさかタイトルに個人名を出して誹謗中傷するほどあからさまなものだとは想像もつかなかった。
そして私にはここまで怒りをぶつけられるほど何かをした覚えはなかった。もしこのスレッドを立てた人物が遭難事故の遺族であるならば私は少しでもオカルト方面へと話を持って行ったことを陳謝し、直ちに記事を削除するつもりでいたが、投稿を読んだところそういうわけではなさそうだった。
便宜上、このスレッドを立てた人物をAと呼ぶことにする。Aは私をこのように糾弾していた。
A「山岳ライター三枝義昭は嘘つきです。あの遭難事故についてあることないこと書いています。天罰を下しましょう」
以下の書き込みはAに対する反応である。
「Aに激しく同意。流石に色々話盛りすぎ。調査委員会がちゃんと報告書出したんだからそれでいいのに紛らわしいタイトル書くわ、わけわからん脚色つけるわで遺族のことなんも考えてない。天罰希望」
「続編みたいなの書いてるけど、事故とまったく関係ない土着信仰で草(注釈:笑いの意)。あれは完全に調子乗ってる。俺も天罰希望」
A「皆さん同意見ありがとうございます。事故に遭われた当事者の方や遺族の方の感情を逆撫でするような内容もそうですが、私は私を含めた朝霧山の人たちが嘘を書かれて激しい怒りを感じていることを訴えたいのです」
「よくわからないけどあの辺の人が怒ってんの?ネット繋がるのあそこ」
A「そうです。ネットではないです。朝霧山の人はそれを知っています」
「Aは日本語できないタイプ?」
「スレタイ見てここオカ板(注釈:オカルト板)だぞってツッコミに来たらちゃんとオカ板してた」
A「朝霧山にはまだ人がいます。きちんとあそこで生活を送ってます。それなのにまるで怨霊のように書かれるのは遺憾です」
これは調べればすぐ分かることであり、一度述べたことであるが、朝霧山は朝霧山塊中央に位置する山であり、住居などはない。付近に山小屋はあれど、朝霧山ではなく黒岩山などに位置する。過去どんなに遡ろうと朝霧山に人が住居を構えたという記録はない。
「釣られてやるけど、Aもそこに住んでるの?」
A「はい。住んでます。家もあります。家族はいませんが」
「住民票うp(注釈:画像をネット上にアップロードすること)しろよ。話はそれからだ」
「どうせ出てこないんだからうpはしなくていいよ。とりあえずもっと情報くれよ」
A「分かりました。三枝義昭が語らなかった真実をここで語ろうと思います。まず朝霧山の方達ですが、今もきちんと住まいを持って暮らしています。私の住居ですが神在山道の途中、落涙の滝の脇の山道を登ってしばらく歩いた先にあります。付近には数棟の住居が残っています」
A「報告書にはまるでその人たちが遭難者を次々と殺したり神隠しにあわせたりするように誘導させられて書いてありましたが事実無根です。あの人たちはただ遭難しただけです」
「遺体で発見されたbさんはだいぶ離れた大串山で見つかったって謎は?」
A「彼には会いましたよ。集落の人で迷い込んできたっていうので、この道通ってけば抜けられるって教えてあげたんですけど、途中で力尽きてしまったようです。ご冥福をお祈り致します」
この後も確固たる根拠もない、小学生ですら見抜けるような嘘を述べて私を糾弾していた。
私はというと、再び朝霧山へ向かうつもりでいた。Aのいう落涙の滝を脇にそれた道を写真に撮り、私の記事で小さくAの供述はまるで嘘っぱちだと書くつもりだった。
実際に足を運んだ私は、今でこそまったくに嘘と言い切れる出鱈目なAの供述を本当に嘘と言い切ってしまってよいものかを判断しかねている。
・フィールドワークによる証明
昨年の晩秋、私は友人であるKとともに朝霧山へ向かった。迷惑を避けるために仮名にさせて頂く。Kは普段山岳ガイドを勤め、アコンカグア、キリマンジャロなど世界の名峰を登った登山家でもある。
黒岩山で一泊ののちに朝霧山へ向かい落涙の滝の先とやらに向かう一般的な計画を立てた。その日の天気は快晴で冬ごろになると少なくなる登山客もまばらにいた。
雪量は黒岩山ではまったくなく、朝霧山山頂付近がうっすらと雪を被っているようだった。
迎えた朝霧山の一日。7時ごろから黒岩山を出発、2時間も立てば落涙の滝へたどり着いた。
落涙の滝とは滝といえどその名の通り涙のように水量の少ない滝だ。ここから分岐があるわけでもなく地図でもものによっては明記されていない地図もある。
「これじゃないか?」
Kは滝から数メートル離れた場所に坂を見つけた。あくまでもなんとなく登れそうというくらいで、破線ルートですらない。
Aはおそらく私を中傷するにあたり、一度朝霧山を訪れそれらしき小道を見つけたのだろう。
私たちはその坂を登り、滝を真下にして進んだ。
確かに小道らしきものが見える。だがこれはよくあることだ。
道迷いの遭難では再び正規ルートに戻るために獣道を自分の中でこれが正規ルートに繋がる道だと信じ込んでしまい地図を参考にせずに進んでしまうケースが多々ある。
まさに典型的な遭難への第一歩だ。Aはまさか私がこの道を辿り遭難することを望んでいるわけでもあるまい。
その場所を写真に収めて帰る予定ではあったが、Kがとあるものを発見したことにより、大きく物語が動き出した。
「これ、馬頭観音じゃないか?」
Kが指し示した場所、地面が少し凹み太いブナが生えている真下に道祖神のような石仏があった。
苔が生え、石仏はひどく劣化していたが、辛うじて私やKには3つほどの頭があるように見えたのだ。
本来馬頭観音とは馬が亡くなった場所に建てられるものであるが、峠など馬にとって負担がかかるような道程が考えられる場合に旅の安全を祈願して建てられるものもある。
いずれにしろ、この山の中腹からこの先にあるどこかへ抜けた過去があるというのは間違い無いのかもしれない。
或いは私にそうした考えを思いつかせるためにAがここまで運んできたという推測もできるが、流石にそこまでの労力を使う必要があるだろうか。
ともかくこの馬頭観音がでたらめかと思わせたAの発言をどこか肯定したような、そんな感覚を覚えていた。
しかし私の経験上で言えばこの小道もいつか消え失せるか、崖っ淵に突き当たると思い、とりあえずは行けるところまで行ってみることにした。
それにしても不思議なのはこの小道の状態だ。
朝霧山は少しルートを外れると藪の多い道になる。その割にはルートを外れたこの道は、人二人が並んで歩ける道になっているのだ。若しくは私がそう錯覚しているにすぎないのか。
仮にもし本当にこの道が過去何十年と遡り使われていた道だとして、藪に隠れないというのは少々考えづらい。
はっきり言ってしまえば今もこの道を誰かが利用していないとこの道の状態はあり得ないのだ。
過去数十回とバリエーションルートでも登ってきた私だがこんな道は聞いたことすらなかった。山岳会の同行も幾度となく行ってきたが、彼らもこの道を知っているということはあり得ないだろう。
数十分歩き通したが道はまだ続いている。地図を頼りにこの道がもしこの先もずっと繋がっているとして抜けていくのはどの場所なのだろうかという議論になった。
方向からすればこの道は大串山方面へ伸びている。仮にこの道がかつて大昔に使われていた道だとして、この道を使用する目的があるのならば、隣の県に位置する大串山へ向かったのだろう。
大串山から数キロ離れた場所には城址があり、規模は小さいが城下町もあった場所だ。可能性は高い。
朝霧山〜大串山間は正規ルートで4泊5日、健脚者で3泊4日が妥当だ。荷物もない我々は一度引き返し、バリエーションルートで登ることを考慮して5泊6日の行程を取ることにした。
家内にはもし6日後になって連絡が来なければすぐに警察に連絡するよう告げた。もはやこの山行計画は計画でもなく自ら遭難しに行くようなものだったからだ。
同行者は一人増え、狩猟免許をもったSが同伴することになった。猟期ではないため猟銃は所持していない。ただ彼も山を歩いてきたエキスパートである。こういった道無き道を行くというセンスに於いては我々二人よりも秀でた部分がある。
ともかく私達は再び落涙の滝へと向かった。
・Aの供述は本当だった?
再び馬頭観音と思しき石仏から獣道を歩く。この日はというと予報では晴れだったのだが、思いの外雲が多く、浅く霧がかかっていた。
私はすぐさま朝霧山での遭難を思い出した。辞めようと口から出そうにはなったのだが、鳥居を見ていないことと、同行者が熟練した山のエキスパート両名であることから先へ進むことにした。
1時間ほど歩いただろうか、霧がかかっているというのもあるが景観の乏しい山中。
気になって何度も確かめたコンパスやGPSともにおかしな挙動もなく、我々は先を進む。
日没が近づいたところで一度ビバーク。
場所としては朝霧山から鶏頭山に向かう途中であった。この時点で正規ルートから7キロほど離れている。結局山中に集落などあるわけもなく、Aの「しばらく歩いた先に住居がある」という供述が嘘であるというのは分かった。
その日の夜中、私は妙な音を聞いた。
はっきり言えばあの音は、風であり、或いは鳥獣類の鳴き声であるのかもしれない。おそらくその線が濃厚だ。
故に私にはこう聞こえたのかもしれないということを強調しておく。
風の音かもしれないとは言ったが、その時吹いていた風は微風も微風で音を立てて吹くような風ではなかった。
深夜にふと目を覚ました私が再び目を閉じたその時、どこか、決して遠くはない場所から「うぅぅぅぅ……ぅぅぅぅ……」と女性のすすり泣くような声が聞こえた。
最初は呆然としていた私だったが、徐々に目が冴えていくと今井氏に伺ったメマヨイ尾根の亡霊の話を思い出していた。
余計に風の音には聞こえなくなったわけだが、ここはメマヨイ尾根からすでに数キロ離れた場所にある。
だが一方でこんな推論もできる。
メマヨイ尾根の由来になったその話は、いつの時代かもわからない頃からマタギの間で語り継がれてきた話なのだ。
そしてこの道は?
もしかしたらいつの時代かもわからない昔に通られた可能性はあるという道だ。
この道の存在が語り継がれてこなかった今、メマヨイ尾根の位置が神在山道までズレたという話はあっても不思議ではない。
しかしこれは悪魔の証明にも似た突拍子もない推論だ。その時の私も深いことは考えずに眠りについた。私が眠りにつくまでその泣き声とも思しき音は続いたままだったが。
2日目、道は大きく我々の予想を外れることなく、確実に大串山へと向かっていく。
度々休憩をとりながら鶏頭山へと入る。この場所も不思議なほどに通常の登山ルートから遠く離れた人目につかない場所だ。
そんな場所でも獣道はまっすぐ途切れることなく伸びている。踏み固められた土の存在が妙に我々をざわつかせていた。
本当にこの道を通っているものがいるとして、誰が何のために通っているのだ。
明らかにこの道は誰かが通っている道なのだ。誰も通らずにこの道が繋がっているとは考えにくい。だがこんな人気もないような道を通る意味が分からない。林業関係者、猟友会、およそ山を知り尽くした人間でさえこの道を通る意味がない。
そんな我々の不安を煽るようにその日の午後に、Sが呟いた。
「前から人来るぞ」
私はギョッとして前方を見た。しかしどれだけ目を凝らそうと人影すらなかった。
Kが「誰もいないぞ」と返すと不思議そうに「そうだな見間違いだ」とSが言った。
私には言うまでもなく心当たりがあった。Sは本当に視たのかもしれないが、私はただの見間違いであって欲しかった。
その後も先行するSが度々立ち止まって道の先を眺めたが、首を横に振って再び歩き出すような状況が続いた。
道は明白、食料も十分、コンパス、GPS等もしっかり機能している中で私の頭には確実に遭難の二文字があった。
3日目。
この日は鶏頭山から花燃ヶ岳へと向かう。その朝テントから這い出た私はSと同様に朝靄の中に立つ不気味な人影を見ていた。
過去数回に及ぶ取材の中で聞いた黒い影。形ははっきりとしないが人型のそれは数秒間ゆらゆらと揺らめいて私の視界から消えていった。
私はすぐさまGPSを確認した。GPSに異常は見られなかったが私は半分遭難しているのだと頭が真っ白になりかけた。
鳥居をくぐらずともこの山塊にはそれらがいるのだ。私は二人の起床をその場から動かずにじっと待っていた。
Kが起きてくると開口一番変な夢を見たと話した。
それは我々がこの山行の途中で閑散とした集落に迷い込み、茅葺き屋根の大きな家で様々なことを語り合ったのだという。
Kの言う「変な」とは我々三人しかその場にいないにもかかわらず、何処かから聞こえてくるそのたくさんの声に何の違和感もなく返答しているというのだ。
Kも所詮は夢だと話していたが、私はどこか引っかかるような思いでいた。
それは花燃ヶ岳に入ってすぐのことだった。
誰も通るはずのないその場所に一人人間が倒れていた。赤いジャケットはすぐさま私たちの目に入り、走ってその場所に向かう。
遺体はすでに腐敗し、辺りには虫が飛んでいた。
警察に連絡しようにも電波が届かない以上は、この場所を地図に書き記し、後で届ける他にない。手を合わせた私はこの人物が朝霧山遭難事故の犠牲者の一人ではないかと考えていた。
特徴からしておそらくは若い男性。ともなるとあの時遭難した中で遺体の見つからなかったAである可能性は高い。この場所は朝霧山からすでに15キロも離れているのだがそうとしか思えずにいた。
そしてその瞬間、私はこの道がどこに続いているのかを知った。まるで予備知識もない知らない獣道。だが私の思い浮かべた場所に繋がっているのは確信に近いものがあった。
自分の思考に鳥肌すら立ったのだ。
4日目。
GPSに異常が見られる。花燃ヶ岳から先に進まなくなってしまった。コンパスに狂いもなく、道を見失うこともないためにそのまま進むしかない。
どの道もう引き返せはしないのだ。
縁起でもない話だが、私は自宅で書いてきた遺書を意識せずにはいられなかった。
これは下山後に発覚した話なのだが、この時から全員が誰かに見られているような感じを覚えていたと言う。これについては全員がほぼ同じタイミングで立ち止まり、辺りをキョロキョロ見回していた。全員が互いの行動を把握してはいたが、敢えて口に出すようなこともしなかった。
この日はおよそ5キロほどを長い時間をかけて進んだと思われる。ただいまだに動かないGPSを見ると、我々はいまだにこのGPSが指し示す場所に留まっているのではないかと邪推すらした。
5日目。
当初の予定ではすでに大串山に入っていてもいいのだが、未だにGPS上では我々は花燃ヶ岳にいる。疲労もピークを迎えた今、とにかく人のいる場所まで行きたかった。
必然テントを畳んだ我々は足早に歩き始める。途方もないこの道を、とにかく日没まで歩き通して距離を稼ぐ。そうして大串山の麓まで降りて行けばいい。
心理的な面で言えば完全に遭難者のそれであった。
5日目夜半、と言っても私はいつ夜を迎えたのかが分からなかった。ふと目を覚ました私はテントの中にいてKとSの顔を仰ぎ見た。
二人は「大丈夫か?」と変な質問をした。何を心配しているのかも分からなかった。
話を聞くと私は急に道の真ん中で立ち止まり、道の脇の急峻な勾配の方へと向いて涙を流しながらぶつぶつと何かを呟いたまま動かなくなったと言うのだ。
低体温症かと疑われもしたが、私は二人の呼びかけに応えるように顔を見てまた何かを呟き始めた。
私にはそれらの記憶がないが、夢を見ていた。夢ではないのかもしれない。眠りについた記憶すらないのだ。
私は明かりのない小屋の中にいた。地鳴りが聞こえたと同時に私の体に強い衝撃が走り、木材の入り混じった土砂に飲み込まれていく悪夢を見ていた。
テントから出た先、急峻な勾配は土砂崩れによってできたものとは考えにくい。山ではよくある地形だ。だが私の記憶にない行動と私の見た夢からしてこの朝霧山山塊のどこかで土砂崩れが起こり、それに巻き込まれて死んだ者がいるというのは一つの可能性でもある。そうした記録がない以上、酷く根拠に乏しいが核心に近いものがあった。
6日目。
とうとう家内が捜索願を出す日がやってきた。今日中に大串山まで辿り着き、なんらかの方法で自分は生きていると連絡をしないと大事になる。
一方で、我々は捜索隊が来るのを待っている節もあった。現時点ではGPSも頼りにならず終わりなき道をただただ進むだけ。隠していた疲労も露わになる頃、早足でその道を抜けていくと、私の目の前に見覚えのある光景が広がった。
もちろんこの道は初めてであり、見覚えがあるはずはない。だが、ニュースの映像で見た地形とそっくりそのままだった。
それは朝霧山遭難事故でbの遺体が収容された大串山のバリエーションルートである涸れ沢だったのだ。
そして私が予想していた到達点と見事に合致した。
生還を確信したが、一方で悪寒が止まらなくなっていた。
その場所が涸れ沢だというのが分かれば正規ルートに戻るのは容易く、沢伝いに1キロほど下っていくと登山道に行き着いた。すでに携帯の電波が入っていたのですぐさま家内に連絡を取る。
ここで私は家内と会話が噛み合わないことに気付いた。
まず私が正規ルートの登山道まで降りてきたこと、そして帰宅予定時間を告げ、すぐさま警察に届けてはいないかと尋ねた。
すると帰ってきた答えは「まだ貴方が出て行ってから3日しか経ってないけど」という回答だった。
私は冗談めかして行っているのかと思い、すでに6日経ったことを告げると「そんなことはない。一度電話を切ってカレンダーを見ればすぐわかる」と言った趣旨の返答をされた。
家内の言う通り、我々が朝霧山を出てから3日しか経っていなかった。携帯の故障さえ疑ったが、KとSの携帯も、麓に降りて見たワイドショーの日付も一致していた。違っていたのは我々の感覚だけだったようだ。
確かに5日分の夜を越えた。それぞれの夜の記憶もある。だがそれを否定するように世界は我々より後に存在していたのだ。
私は生還したEの証言を思い出していた。ともすれば我々は知らず知らずのうちに時空が歪む空間に入っていたとでも言うのだろうか。
他人事ならあっさりと信じられそうなものだが、それが自分のこととなると事実を未だに受け入れられずにいる。
下山後に警察に印をつけた地図を渡し遺体の発見場所を伝えたが遺体の収容にはしばし時間がかかるそうだ。いったいあの遺体が何者なのか。ただ一つ言えることは通常の遭難でたどり着ける場所ではないということだ。
・おわりに
ことの発端は根拠も確証もない赤の他人からの糾弾だった。その挑発に乗るかのように我々は朝霧山へと赴いたわけだが、事あるごとにAの証言を裏付けるかのような現象に出くわした。これを少しまとめてみようと思う。
①道の存在
私の考えでは朝霧山に訪れたAが何か少しでも物的な証拠を見つけるために、少しだけ登山道を外れ、それらしき道を見つけたのだと思う。何もなしに私を挑発したわけではない。
ただAの指し示した道は延々と続いており、その道がかつて使用されたことを裏付けるように馬頭観音の石仏が放置されていた。
そしてその道は私たちが考えた通りに大串山方面へと続いている。大串山麓の柿本城址まで距離にして25キロ。大変長い距離ではあるが朝霧山方面から大串山方面へ抜けていく現実的な道としてはこの道をゆくのが道理というものである。
現在の登山ルートである朝霧山〜大串山縦走路は荒々しい岩が立ちはだかる稜線歩きの道であり、登山道開通は昭和初期と最近の話なのだから。
②集落の存在
Aの言っていた集落というものは結局存在しなかったが問題は別の場所にある。
Aは遭難したbに出会い、道を教えたというのだ。
私がDから聞いた証言をもとに書いた記事でも、bは集落のような場所に迷い込み、その後大串山で遺体が発見されたとある。
Aが私の記事を読み、bに出会ったと法螺を吹くところまでは容易い。だがこの長い道程の先がbの遺体が収容された大串山の涸れ沢であるという点においてはこの長い道を実際に歩かなければ分かりはしないのだ。
以上の点からAは少なくともこの道の存在を全体的に把握しているのは間違い無いと言ってもいい。あてずっぽうで言った道を私が実際に辿っただけとは思いたくない。
またこれは警告であるが今回私が登ったルートは決して興味本位で登ってはならない。これはオカルト的な意味ではない。
登山道は明瞭とは言ったものの20キロ近い山道を人影もないままに歩いていかなければならない。
もしそこで怪我をしたり、道迷いにあったとして気づく人間は一人もいない。朝霧山〜大串山は18キロの長い距離ともなると捜索隊も捜索に困難を極めることだろう。本来は通常の登山を外れることすら諫めるところだが、せいぜい滝の上の馬頭観音を写真に収めたら元の道に戻るべきだ。
さて、私はこの記事でいつものように「朝霧山の調査は続行する所存だ」と書いて締める予定でいた。
なんとなくあの掲示板が気になり、記事を投稿する前に掲示板を見てみることにした。
するとちょうど数日前、私が花燃ヶ岳にたどり着いた時間帯にAはこう書き込んでいた。
A「今日、三枝義昭が私たちの集落のそばを通りました。たぶんこの数日後に記事を投稿すると思います。その時はどんな文章で我々を侮辱するのでしょう。朝霧山の住人は彼を歓迎していません」
Aに直接コンタクトを取ろうとしたが、これ以降Aはこのスレッドに現れることはなかった。
果たして私は朝霧山の調査を続行しても良いものなのだろうか。
明けましておめでとうございます。早いもので需要もないのに第四弾。誰が読んでんだこんなの。でも楽しいので望まれなくても書きます。